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部屋の前に誰かがいた気がして、はて茨乃だったのだろうかと彼女の姿を探しなんとなくうろうろとしていたら窓の外から茨乃の姿を見つけて慌てて追いかけたのだ。
追いついた時には、昏睡した茨乃を抱きとめている今ここにいるはずのない夜迷の姿があった。
夜迷なのだ。そのくらいはあるだろう。
ただ不思議なことにありえないことに、その夜迷は俺が一瞬夜迷だとわからないほどになんというか存在が希薄だった。
日陰の暗さに溶け込んでしまいそうなほどだった。
『遅かったわね』と彼女は短く、抑揚なく言っただけだった。
茨乃の昏睡はそれなりによくあることで、よくあること並みにその危険性はわかっている……つもりだ。そしてそれは当人が一番で、その恐れ方は過剰ではないかと何もわかっちゃいない俺には思えるほどだった。だから茨乃が一人で外に出るというのはどんなに短距離でもそうあることではなかった。
何があったのか、とはなぜかその夜迷には聞けなかった。
何も聞いてないのに、夜迷は『私じゃないわよ』と小さく言った。
いつものように保健室へ運び、突然現れた他校の制服の夜迷に動揺を見せる栞姉に茨乃を任せる。
その間じっと動かなかった夜迷は、話を聞きつけて少し狼狽え気味の泡音が現れた途端突然、強く手首を掴んだのだ。
『あなたは、ケイトの側にいなさい』と。力強く確信に満ちて何もかもをわかっているかのように。
夜迷が呼んだ知ってるはずのない名前は、まるで呼び慣れているあだ名のような『毛糸』のイントネーションだった。
「あの子が目覚める時に私たちはいない方がいいわ。多分、先生も」
「なんでだ……?」
「なんでも、よ」
夜迷が栞姉を見る。
栞姉はもう、俺たちの会話で彼女が『夜迷硝子』であることに気がついていた。栞姉はもう、教師の顔だった。
「何か事情がありそうだね。わかった。目を覚ましたのを確認したら席を外すとします」
「ええ。お願いします」
そしてするりと俺たちの前を通り過ぎ、一足先に保健室を出て行こうとする。
「待って、夜迷さん!」
焦るように栞姉は、いや、乙浦先生は呼び止めた。
「…………ここはいつでもあなたの居場所になるつもりです」
短い時間、迷いに迷って選び取った養護教諭としての定型文を、正しい言葉を選べなかった歯がゆさを大人の顔に浮かべて言った。
言わないわけにはいかないのだ。
夜迷は、学校に来ないはずだったのだから。
栞姉は夜迷の味方でなければならない、味方であることを示さねばならない大人だった。
「ありがとうございます、先生」
振り向いた夜迷は柔らかに、さらりと喉元を通り抜けてしまうような完璧ななんでもない愛想笑いを見せた。
栞姉はなにか間違ったものを見てしまったかのような驚きと困惑に消化不良、奥歯にものの挟まったような顔をした。
その違和には俺も気がついていた。その反応を当然のものだと思った。
だって夜迷のあの顔は学校が嫌いな人間には作れない。
学校が嫌いだなんて考えたこともない、憂鬱すらも楽しみの範疇に丸め込んでしまえる強者の顔。
あの軽やかな声は不登校児にも支離滅裂な自称魔女にも出せるはずのものではない。
廊下に出た夜迷を追いかける。
夜迷のセーラー服は彼女がここにいるはずのない人間であるということを主張しているかのように景色の中で黒く浮き出ていた。
そんなはずはないのに。夜迷は、ここの生徒だ。いちゃいけない道理なんてないのに。
この胸のざわめきは気のせいなんかじゃない。
茨乃の前にいた夜迷。
泡音の前にいた夜迷。
栞姉の前にいた夜迷。
俺の前にいる、夜迷。
その全てが違ったのだ。
表情、声、居住まい、その全て。
短い間によく見知ったはずの彼女がぞっとするほど遠かった。
追いついて、問いかける。
「なあ夜迷……どうかした、か?」
夜迷はほんの少し目を丸くして、
「なぁに、変なの。なんにも。なんでもないわ、よ?」
暗い廊下で寒々しく、口角を上げた。
そこにいたのはいつもの彼女、だったのだろうか。
◇
「私、帰ろうかな」
ゆらりと暗い廊下で霞んで消えてしまいそうな夜迷がくっきりとそう言って俺は我に帰る。
「ケイトに会いにきただけだし」
あいも変わらず毛糸のイントネーション。知り合いだったんだろう、二人は。ひどく不思議な感覚だった。夜迷が当然のように俺の知らない顔を交友を持っている。
「いや……用事がないならさ。残らないか。茨乃、すぐに目を覚ますんだろ」
断らないだろう、とは思った。夜迷はその気になればいつだってこの場から消えられる。ふ、といなくなってしまえる。
それをしないというのは引き止めてもいいということだと思った。
「それもそうね」
ぼんやりと頷いて、夜迷は光の当たる位置まで歩いてきた。もう薄暗い景色の中に埋もれたりはしない。そのことにほっとする。
「まあなんだ。試験期間で随分と久々だしな。積もる話もあるだろ。いや、ないけど……」
「ええ、わかってるわ。『いつもの』ね」
時間は放課後、場所は学校。文化祭の前夜とは違い生徒のいることが許されなくなった空間ですらない。不登校部にあるまじきイレギュラーだ。
だけどだからこそ。『部活』をしよう。『部活』をしたい、と。泡音の離脱が確定されお蔵入りになる計画となったからこそそう思うのだ。
成り行きと勢いだったけど、なんだかんだ俺はこうして『みんな』が揃う部活を夢見ていたのかもしれない。
青春願望とでも言えばいいんだろうかこれは。栞姉の悪い病がいつの間にか移っていた。
あの日の言い訳が『部活』である必要はよくよく考えればなかったのだ。
口から出まかせとはいえそれなりに考えて俺は言い訳を選んだはずだった。
心のどこかで夜迷と二人きり、ではなくていもしない仲間を求めていたんだろう。
俺といない夜迷を一人きりにしたくなかったんだろう。
そして同時に、俺もどうやら相当につまらない寂しがりだったようだ。
……部活はさ、もう叶わないけど。
俺たちは四人とも友達だったわけじゃないか。
難しいかもしれないけど、いつかみんなでどこかに遊びに行けたらいいと思うんだ。
夜迷に学校に来て欲しいとは言わないと決めているけど、こうして放課後に揃ったことを喜ぶくらいのことは許されるだろう。
俺は扉を引く。
「ようこそ不登校部へ」
夜迷は俺の気持ちを見透かしたように、ちいさく呆れ笑った。




