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あたし、茨乃景糸は多分あんまり普通じゃなくてさほど特別でもなんでもない女の子で、それは今までもこれからも変わらないのだと漠然とそう信じて、諦めて、なんとなくそのことに夢を見ていたのです。
うまく起きることができた休日は図書館に行こうと決めていました。
いつものように両親にそう話せば昼食後に車を出してくれることになりました。
両親はちょっと過保護だけどいい人たちであたしには到底なれやしなさそうないい大人です。
銀杏並木をあっという間に通り過ぎて、反応に鈍い自動ドアをくぐれば枯れた紙の匂いが充満するいつもの空間が迎えてくれました。
本は好きです。本はいつも、あるべきところに変わらず収まってくれているのがとてもいい。
どこにも行ったりしないよみたいな顔をして、ふと気がつくといつのまにか消えてしまっている薄情なあたりも。
昨日仲間入りしたばかりの本に、百年前からずっとここにいましたよみたいな嘘を吐かれたい気がしないでもなくって、あたしはいつも同じ順番で棚を巡ります。
とっくに顔見知りの司書の方々に会釈をして、児童書の棚の方へと足を運びます。
もう読み尽くしてしまった均一的な文庫本のコーナーを通り過ぎ、混沌とした色合いの並ぶ分厚いファンタジー小説の方へ。
そしてあたしは、もうひとつのお目当てを見つけました。
今日はなんとなく、会える気がしたのです。
「こんにちは。おひさしぶりです」
本棚の隙間に埋もれるような小さな椅子に、小さく体を折りたたんで座る黒い姿。
「硝子さん」
そして彼女は顔を上げ、鬱蒼とした黒い髪の隙間から日陰のような目であたしを見つめます。
「……うん」
細い声で挨拶がわりの返事をいただきます。
年上で大人っぽくて、すらりと背が高いのにあたしよりもずっと年下なんじゃないかと錯覚してしまうような、図書館の幽霊のような女の子。
夏休みに出会ったあたしの数少ない友達の一人でした。
夏休み、暇にあかせて図書館に通い詰めたあたしは硝子さんが白いセーラー服を着て本棚の前で立ち尽くしているのを見つけたのです。
夏だというのに下ろしたままの重たくて長い黒髪が綺麗であたしはその後ろ姿に見とれて、すぐに不思議な思いになりました。
彼女はまるで、本を読むために生まれたのではないかと思うほどの文学少女然とした雰囲気を全身から漂わせていながら、その佇まいは見知らぬ町の景色に戸惑う迷子のようでした。
本に、慣れていない。
本などなくても生きていけた人間の立ち方。
本のためには生きていいけない人間の匂い。
それなのに彼女の背中はすでにこの背表紙たちの中にすっかりと馴染んでしまって、このまま何も知らなかったふりをして棚を離れることはできやしないのだと。
なんの脈絡もなく察してしまいました。
声をかけたのは一体どちらからだったのかは覚えていないけれど、きっとあたしからだったのでしょう。
あたしが感じたのは、いわゆる、あたしと同じかそれ以上に弱いものの匂いでした。
あたしは硝子さんのことを最初、本当に幽霊なのではないかと思っていました。
どうやら幽霊じゃないと確信したのは、いつも制服の彼女の靴下が同じではなかったり季節が進んでいつのまにか白い制服が黒い制服に変わっていたのを見たからでした。
ここにいるべきではない人間なのは間違いではないのでしょう。けれどこの館はいるべきではない人間を拒むような場所ではないと信じていました。
そんな信条を理由にする必要は最初からなかったのですけれど。
硝子さんは『何を読めばいいのかわからない』と途方にくれていました。
『何を読みたいんですか』とあたしは聞いて、長らく迷った末に『魔女』と。魔法が当たり前にある話が読みたいと。
どこを見ているのかわからない目で答えたのです。
長い長い夏休みの中で遭遇を繰り返して、ようやっと名前を聞き出した時のことは覚えています。
夏のせいで少しおかしくなっていたあたしは、ついうっかりと変なことを口走ってしまったのです。
「シンデレラみたいな名前ですね」
と。言われた硝子さんはとても不思議そうな顔をしました。
「……どうして?」
「え? あ、すみません。気に障りましたか」
「いえ、そうではないの。シンデレラって灰被りでしょう。私の名前に灰はないのに」
「そういえばそうですね。でも、普通はシンデレラと言われたらガラスの靴を思い浮かべるものではないですか? 硝子さん、字はガラスって書くんでしょう?」
「あなたは普通を知っているの」
「知りませんでしたね」
でも、普通に普通を重ねたあの先輩はそう言うんじゃないかな、と言うことくらいはわかりました。
「意外ね」
硝子さんは言いました。
「あなたは、そういうの。あまり好きではないと思っていたから」
「そういうのって、童話ですか?」
「いえ。嫌いなのは『お姫さま』かしら」
「そうかもしれません」
『お姫さま』は弱い生き物ですから。好く理由はありません。
「ほら、あたし。こんな名前ですから。名前と童話を結びつける癖がついてしまっているのかもしれないです」
茨乃景糸。眠り姫。姫、なんておこがましいですけど、昔話の女は姫か魔女かしかない気がするほどそれらばかりですから。
特別でもなんでもないものとして扱っても構わないでしょう。
その日はそれきり、硝子さんは魔女の本に目を落として何も言いませんでした。
◇
まあ、あたしが覚えているのはそのくらいのことなのです。基本的にとりとめもない話ばかりで、そもそも図書館は雑談に向いていませんから。
久々に顔を合わせた硝子さんは顔色ひとつ変えずじっとあたしを見つめます。相変わらず黴が生えそうなほどじめっとした視線でした。
「何か良いことがあったのね」
「わかるんですね」
「あなた、結構顔に出るたちよ」
「それは知りませんでした」
硝子さんと話していて、まともな会話になるというのは難しいです。あたしが人と話し慣れていないというのもあるのですが、硝子さんといると何故だか変な方向に言葉を転がしてしまうのです。
乙浦先輩は、あたしに対してどうして言わなくていい事ばかり言うんだと呆れますけれど、あれは割とあたし自身分かっててやっているのです。
コントロールできてる、という訳ではないんですけど。人に好かれるつもりなんてちっともないからいいのです。あれで腹を立てない先輩がかなりだいぶおかしいんです。
でも、硝子さんとのそれは違います。言わなくていいことには変わりありませんが、なんというか、言ってしまうのはつい気を抜いてぽろりとこぼしてしまう殆ど考えていることにも気付かなかったようなこと、なのです。
先のシンデレラのように。
それを差し引いたとしても硝子さんが言うのはひん曲がって迂遠で的外れのようで、なのになんとなく理解できるようなことばかり。ちぐはぐな会話になるのは必然でした。
何を見て何を考えているのか、ちっともわからない人で、そういうところがあたしはなんとなく好きでした。なんとなく、つるぎさんに似ている気がしたから。
あたしがこうして硝子さんと話し続けているのはきっと、硝子さんにつるぎさんの面影を感じたからなのでしょう。
「硝子さんのお察しの通りです。最近、昔お世話になった人とまた交流する機会がありまして。ま、それだけなんですけどね」
「名前」
「え?」
「その人の名前は」
「そんなこと、聞いて何になるんですか」
「あなたは名前に意味を見出す人でしょう」
「……なるほど?」
何がなるほどなのかもよくわかってませんが。意味がないわけではないらしいことはわかったのでいいかと思いました。減るものじゃないですし、知らない学校の制服を着ている硝子さんにはどうせ他人です。
「つるぎさんっていうんですけど」
ぴくり、と肩が動きました。が、それだけでした。男か女かわからない名前に動揺でもしたのでしょう。
「あなたにとって、その人はどんな人」
時々、硝子さんは占い師のように淡々と質問ぜめになることがありました。そしてその後には、当たっているのか外れているのかよくわからない『予言』じみたものをくれることがありました。
あたしはそれを、少しばかり楽しみにしているところがあるのです。口が滑りに滑るのをとめる気はありませんでした。
「……つるぎさんは、初めてあたしをわかってくれた人です」
正確には、あたしが初めて『わかってくれた』と感じた人。
その答えに硝子さんは心なしか苦い顔をしました。
「あなたは、その人とどうなりたいの?」
「どうって……そんなの、ないですよ。ああなりたいとかこうなりたいとか……あたしはあたしで、つるぎさんはつるぎさんです。そのままで、いいです」
なんでそんなことを聞くのか分かりませんでした。
「それは無理よ」
硝子さんは、『予言』します。
「あの子には未来が見えているもの。あなたには未来が見えていないもの」
◇
テストが終わった。
いや、本当は終わってないんだけど今日は金曜日で残りの二科目は月曜日なのだ。
気分は週末の開放感に支配されきってしまった。そんなわけだからこの土日、勉強するわけがないわけで。
テストは終わった。
俺の中でそういうことになった。
教室を出ると廊下で泡音が待っていた。
あ、そうか。テスト後の放課後は勉強会で、それは金曜だからといって変わらないのか。生真面目は二人にとっては。
……付き合うか。課題持ってきてるかな。よく思い出せなかった。
しまったなー、と思いつつ泡音と目線で会話して並んで歩く。距離はいつものように絶妙に離れて、だ。
人通りの少ない廊下の方へと来て、俺はふと聞きたいことを思い出した。
「あのさ、泡音」
「……?」
「茨乃と……いや、なんでもない」
茨乃と前から関わりがあったのか、なんて俺が聞いちゃいけないよな。やっぱり。茨乃が聞かない、と決めたことなのだ。
なんだかモヤモヤするけど。
「けいと、といえばだけど」
泡音がポツリと言った。
「わたし、昔けいとと話したことある……みたい」
「え」
俺が聞こうとしたことを偶然だろうとはいえ、真っ向から正解されてびくりとしてしまう。
というか、覚えているんだな。
「思い出したとか?」
「ん……ほら、けいとの髪色、特徴的だから」
確かに色素が地で薄いもんな。そうか、忘れるわけないんだ。
「それ本人に言ったりしないのか」
泡音はきょとん、と俺を見た。
「……別に、言うほどのことじゃないんじゃない」
その答えに茨乃の願いはどうやら叶っているらしいと思いながら、なんだか釈然としない気持ちだった。
……それでいいんだろうか。
人の関係に口出しするものでもない、そう思いながら部室予定地の扉を引いた。




