ギネン 3
九州の田舎から東京の大学に来て、知り合いなんかいるわけないと、完全に油断していた。
こういう偶然は小説や映画の中だけで十分満たされているんだから、わざわざ僕の現実にまで挿入されなくても良いと人生の演出家を心底恨む。
そういえば、入学式で学生証を渡される時、読み上げられた名前に聞き覚えのある名前があったな。
確か、加藤? 加山? 違うか。
駄目だ。思い出せない。
そもそも覚えようとしていないのだから、当然といえば当然か。
むしろ小学生の頃のあだ名を覚えている彼女の方が、レアな存在なんじゃないかと言い訳してみる。
当時それなりに仲良くしていながら忘れられたとしたら、彼女は傷つくだろうか。
かと言って、適当に話を合わせるのは無理だ。
そうこう考えている間にも場の空気は僕に何らかの発言を促し続け、そしてタイムリミットを宣告するように一段と静けさを際立たせた。
「覚えてないんでしょ? クラスも同じで、講義も被ってて、真正面で目があっても気づかなかったくらいだもんね」
さっきの舌打ちはそういうことだったのか。
彼女は正面から僕に接すれば気づいてくれると思ったのだろうが、ご期待に添えず申し訳ない。
それにしたって舌打ちは酷いと思うよ、僕は。
「そんだけ接点あったんなら声くらいかけてよ……」
「だって、アンタが……」
言い淀んだ彼女が何を言おうとしているのか、なんとなく分かっている。
その続きは聞きたくない。
それにしても、『アンタ』はなくないか?
あだ名で呼ばれるのも嫌だけどさ。
「さて、みんな揃ったことですし、改めて自己紹介をしましょうか」
僕の焦りを察してか、場を仕切りなおしてくれたキリン先輩に心の中で平身低頭する。
そういえばこの人は非常識極まりない格好でありながらも、こういう常識的な気の利き方をする良い変人だった。
今日に関しては心強すぎる。
「倉永翠です。カズ……高宮くんとは地元が同じで、小学生まで同じ学校でした。よろしくお願いします」
ああ、なるほど。
なんだ、忘れてないじゃないか。
「僕はキリンと言います。苗字がキ、名前がリンです。それからご存知の通り、彼が高宮和人君です。好物はプリンです。」
「それ先輩の好物じゃないですか。あと、その自己紹介だと中身は中国の人に思われますよ」
「え? キリンはアフリカ原産ですけど?」
「そのキリン、内側にMade in Chinaって書いてありますよね」
「え? ほんとに?」
キリン先輩は中身の顔を動かして製造国の印字を探しているようだが、おそらく書かれているのは首元だ。
外さない限り見えないし、そもそも本当に中国製かどうかは知らない。
一瞬、キリン先輩の中身がラーメンマンみたいな人を想像して笑いそうになったが、そんな場合じゃなかった。
二人とも何か言いたげにこちらを見ている。
そう慌てるなよ、ちゃんと思い出したさ。
名前を聞いた途端記憶の蓋が開いたらしく、みんなの声や顔が思い浮かぶようだった。
きっと、あまり開けていい蓋じゃないんだろうけれど。
「倉永……『みどり製パン』?」
「ちょ、なんでそこ思い出してんの!? 他にあるでしょ!!」
「ちょっと待って倉永さん! ちゃんと思い出したから!!」
彼女は立ち上がりながら机で無造作に横たわっていたポスターカラーを手に取り、振りかぶって投げようとしたが既の所で思い止まった。
思い止めたものの、怒りは本物のようで振り上げた手はプルプルと震え、矛先を求めて彷徨っている。
本当に名前を聞いて最初に浮かんだのがそれだったのだ。
彼女は大掃除や席替えで机の中を片付ける度に、カビの生えた給食の食パンが出て来てクラスの男子からからかわれていた。
漢字の書けない子供にとって色の意味しか理解出来ない『翠』の名前は、緑色のカビが生えたパンを作り出す机と合わせて『みどり製パン工場』と揶揄された。
机の中身だけを持って席替えをするので、彼女の座っていた席になった男子の発する「げぇー! 製パン工場かよ!」はお約束だったが、今思うと中々に残酷な言葉だ。
その時彼女がどんな顔をしていたのか、今ではもう思い出せない。
「本当に外見が違いすぎて分からなかったんだよ。何というか……痩せた?」
ガリガリとは言わないまでも、身長が同じくらいの女子と比べても痩せているように見える。
当時の彼女はクラスの中でも大人しくて行動で目立つような生徒ではなかったが、小学生にしては恰幅の良い体型だけで目立つ存在だった。
要するに、太っていたのだ。
小学生の頃と見た目がまるで別人のように違う。
その上、化粧でカモフラージュされた状態で小学生の頃の面影を見つけ出せってのが無理な話ゃないか?
まあ、聞いちゃくれないだろうけど。
「そうね、身長は伸びたのに体重は減ってるものね」
子供ってのは容赦を知らない分、大人のそれよりタチの悪いからかい方をするものだ。
当時の僕も彼女をデブだとかラードだとかハロゲンヒーターだとか罵ったことがあったかもしれないが、自分に都合の悪い記憶は思い出せない場所に仕舞い込んであるらしい。
少なくとも、小学生の頃から彼女は僕に対して嫌悪感を抱くことはあっても、好感を持っていたことは一度もないだろう。
「私が変わったのは認める。でも、そういうアンタも随分変わったように思うけど」
……不快だ。
彼女がどうやって痩せたかを知りたいとは思わないけれど、聞けば教えてくれるだろう。
でも、逆は困る。
変わってなんかいないと断言できるのだけれど、彼女からはそう見えるのだろう。
だからこそ、どう変わったかなんて他人から聞きたくないし、言われなくても重々承知している。
この場で詮索されるような事態は絶対に避けたい。
どうにか話を逸す。
人の関心を惹くことに関しては心強い味方もいることだし。
「お互い歳をとったってことだろ。それより先輩、部会どうします?」
「そうですね。レジュメや資料は用意していたんですが、次回にしましょうか。倉永さんが来られたことですし、今日は説明会ってことで」
「わかりました。どこまで話されたんですか?」
「詳しいことはまだ何も。では、わかりやすく簡潔に高宮くんから説明がありますので」
雑なパスを出しながらキリン先輩はホワイトボードの前の席を立ち、窓際の椅子へと座り直す。
キリン先輩と入れ替わりで、僕は彼女の正面に移動した。
「えーっと、広告部はいろんな広告物を請け負って制作するサークルなんだけど……」
一通りの説明をしている間、頷いて聞いてはいるが彼女は何か言いたげにこちらを見ていた。
もしかしたら、知らなかっただけで小学生の時からこんな主張の強い目をしていたのかもしれない。
「まあ、僕もまだ入部して1ヶ月なんだけどね。何か聞きたいことある?」
「ここって、広告部だよね」
「そうだけど?」
「広告研究会とどう違うの?」
「ごめん、言ってる意味がよく分からない……どういうこと?」
「ココとは別に、ウチの大学に広告研究会って文化部があるけど、あっちと何が違うのかなと思って」
「あーーー……え?」
「もしかして……知らないの?」
「知らないよ! 先輩知ってました!?」
さっきまで窓際の席で本を読んでいたはずの先輩がいない。
「さっきこっそり出て行ったよ」
「音もなく出て行くとは……確信犯だな。てか、知っててなんでコッチ来たの?」
「……何となく」
「なんだそれ。研究会か……すでに名前で負けてる気がする」
「見学と新歓コンパ行ったけど、30人位いたかな。至って真面目に活動してたよ」
「……名前どころか何一つ勝ってないな」
キリン先輩は僕にわざとそのことを隠していたのかもしれないが、どうもそれだけじゃない気がする。
元々広告研究会にいたキリン先輩が訳あって脱退して、広告部を対抗馬とするために立ち上げたとか。
もしくは、広告部が先にあって、後から出来た広告研究会に部員を持ってかれたとか。
何れにしても、本人が戻って聞けば済むことだ。
「本当に入るの? 研究会の方がいいんじゃない?」
部員は欲しいが、研究会の存在を聞いた今となっては、そちらの方が彼女にとって有意義なのは明白だった。
どんな活動をしているかわからないけれど、幾らかは同じようなことをやるだろうし、仲間は多い方が刺激しあえるだろうし。
「……入って欲しくないんでしょ?」
「そんなことない。このまま2人だったらどうしようって頭抱えてた所に、女神降臨レベルの奇跡だよ。僕は知らずに決めちゃったけどさ、客観的に見て研究会の方が良さそうに思っただけだって」
「アンタはさ、知っててもアッチには行かなかったんじゃないの?」
キリン先輩によって滞留されていた彼女の関心が、いなくなった途端に先程と同じ方角へと流れ出した。
本当にやめて欲しい。
でも彼女は喋り続ける。
「クラスのオリエンテーションにも来ないし、グループワークは欠席するし、ディスカッションは無言だし」
そうだ、思い出した。
クラスの連中からどんなにからかわれても、彼女は無関心な表情をしていたっけ。
本当、変わったな。
僕の苦手な方に。
「ああいうの苦手なんだ」
「このサークルに入ったのだって、あの人しかいなかったからじゃないの?」
それは違う。
確かに人数が少ないサークルを探すつもりでいたし、もし無かったら入らずにおこうと思っていた。
着眼点は間違っていないけれど、僕には僕の目的があってここにいる。
それにしても、困ったな。
この鋭さは後々面倒になりそうな予感がする。
「違うよ。本当に偶然、入学式に見学に来て成り行きで入ることになっただけだって。他のサークルの見学すらしてないんだ」
「でも……なんていうか、らしくないと思う」
余計な御世話だ、とは言わないけど思ってしまう。
君に何がわかる、とは言わないし説明もしないけど思ってしまう。
『らしくない』って、何だよ。
僕が僕らしいかどうかは他人に決められるものであって、僕が自分からそのイメージに沿って行動したら、それこそ『らしくない』ことになるじゃないか。
なんてことも、言わない。
「そうかもしれないね。でも、本当に倉永さんが思ってるようなことじゃないから」
「まあ、いいけど。とにかく、私はココに入るから」
「……わかった」
まるで弱みを一つ握られているようで、居心地が悪い。
性根の腐った僕は、そう思うと同時に彼女の弱みを探し出しているんだから自分でも驚くばかりだ。
そして一つの疑念に思い当たるあたり、本当に腐っている。
「それにしても、僕に関してやけに詳しくない? クラスは一緒だったけど、他に絡むようなことなかったと思うんだけど」
彼女が赤の他人で、通りすがりのただの美人であったなら疑うことはなかったのだけれど、そうではなかった。
彼女が倉永翠だと判明した時点で、僕はまたストーカー疑惑をかけていた。
このサークルに来たのは偶然ではなく、僕とキリン先輩がいることが理由なのは間違いない。
それから、かつての同級生が身辺を掠めても気づかれなくて、キッカケを作ろうとして接近してきたのも納得だ。
この場で彼女が認めてくれた方が、僕は明日から安心してボーっとすることができる。
どこから見られているか分からないせいで、大学にいる間中、居眠りすらしていないんだぞ。
「……確かに、アンタの行動がおかしいから、クラスの子に何か知らないか聞いた。誰一人連絡先すら知らなかったけどね」
「それだけ? バイト先とかに来てない?」
「何それ。そんなストーカーみたいなことしないわよ」
「マジか」
「疑ってんの?」
「……ごめん」
「待って。そのストーカー、自宅にも来たりした?」
「いや、自宅まではないかな。正直、倉永さんが最有力容疑者だったんだけど、違うんならストーカーかどうかも疑わしいくらい」
彼女は少し考えるようにして、まるで謎の薬で小学生になってしまった探偵のようなキメ顔で言った。
「私、犯人知ってるかもしれない」