ギネン 2
新人歓迎会を翌日に控えた今日は部会に参加するため、午後の講義が終わった足で部室へ向かっている。
参加するとはいえ僕とキリン先輩の2人なので、バイトがない日の放課後と何も変わらないのだけれど、金曜日の定例会をわざわざ部会と呼び、それっぽくレジュメを用意してホワイトボードに意見を書いたり議事録をつけたり、いかにもサークルらしいことをやるようにしている。
キリン先輩が自然とそうしていたから、そういうものだとしか思っていなかったけれど、サークルの体を維持する為に必要な事だと今ではわかっている。
義務感は否めないけれどキリン先輩が用意してくれる議題は毎回興味深く、案を出し合うのも意見を言い合うのも僕にはとても新鮮で、密かに毎回楽しみにしている。
そのおかげで、キリン先輩に関して分かったことが一つある。
この人の知識量は、もう大学生の領分を越えていることだ。
しかも、広告に関して詳しいのは理解できるのだけれど、時事情報からファッションや音楽に至るまでかなり幅が広い。
大学に9年もいれば誰でもこうなるものだろうか。
いずれにしろ、その恩恵をマンツーマンで受けられるのは広告業界を目指す僕にとって有益なのは間違いない。
今日は某出版社が出した超高齢化社会に警笛を鳴らすイメージ広告を題材に『社会的な広告の役割』が議題のはずだ。
とても楽しみではあるが、僕ら広告部の目下の問題は部員募集であることをキリン先輩は忘れてやしないかと心配にもなる。
今後もし2人だけだったとして、活動していけるのかも真剣に話し合なくてはいけない。
キリン先輩は知識はあっても、IllustratorやPhotoshopなどの編集技術を持っていないし、僕にも多少の技術はあるけれど大掛かりなものを作った経験はない。
そもそも、こんな状況下で依頼があるのかも疑問だ。
考えを巡らせている間の、一瞬だけ訪れた思考の隙間を縫うように足音が聞こえた。
スニーカーのようなゴムのソールではなく、女性物のヒールかあるいは革のように硬い素材の靴なんだろうか、僕の響かせる踵をすったような摩擦音ではなく、明らかな打音。
……待った。
生協からここまでの区間で聞こえていた足音は、ずっとこの音じゃなかったか?
偶然かもしれないけれど、これだけ広い校内の通りで、スマホを見ながらのろのろ歩く僕の後ろをわざわざ歩く必要はないと思えた。
しかも、気付かなかったのが不思議なくらい同じテンポで響いてくる。
いや、少し違うか。
気付きにくいように同じテンポで歩いてくる足音だから、気付けなかったんだ。
ここ最近の監視されているような、つけられているような感覚も被害妄想ではないと思っているし、それを恐れてもいない。
謎の薬で小学生になってしまった探偵のアニメに出てくる黒いシルエットの怪しい人物を背後の人物に重ね合わせ、これを絶好の機会に演出する。
ついでにBGMも流して次回予告風の演出を試みるも、どんな音楽だったか忘れてしまった。まあいいや。
歩くスピードを不自然にならない程度に速度を落とし、一度スマホの画面を見るフェイクを挟んで、立ち止まらずに上半身だけを少し捻らせて振り向いた。
ーーーー女子!?
視界に彼女のシルエットを捉えた途端、自分の鼓動が不快な音となって鼓膜を震わせ、周囲の雑踏をかき消す。
彼女の大きな目が、まっすぐに僕の目を捉える。
視界を覆い隠すほどに彼女の目は巨大に見え、その白と黒しか見えなくなった。
振り向いたのは僕の方なのに、隠れていた所を見つかってしまったようなバツの悪さを覚える。
ぱっちりした大きな目に、シャープな輪郭の顔、肩にかかる髪が風になびいた部分だけ茶色に透けている。
なんだ、ただの美人じゃないか。
まず間違いなく、彼女は僕を監視したりつけたりはしないだろう。
疑ったことに対する少しの後悔と、絶好と思っていた機会が肩透かしで終わる落胆とが同時に押し寄せる。
「うぉふ!」
驚きすぎて変な声が出てしまった。
一瞬何が起こったのか分からなかったのだが、思っていた以上に後ろを見たまま歩いていたようで何かに躓いてしまったらしい。
まだ見えているのは地面だけだが、痛みからしても派手に転んだことは間違いなさそうだ。
膝をついて顔を上げると、先ほどの女子が正面から見下ろすようにこっちを見ている。
え?
あれ?
こういうアクシデントに出くわした時は見て見ぬ振りが一般的なんじゃないの?
なんで立ち止まってこっち見てんの?
転んだ拍子に額から血が流れてると錯覚しそうなくらい顔が熱い。
彼女は、立ち上がれずにいる僕に笑顔で手を差し伸べている。
眼球の挙動範囲を縦横無尽に泳ぐ目が捉えた彼女の優しい笑顔は神々しくも見えた。
女神だ……女神様がおられる。
危うく泣きそうになりながら、僕はその手を……
「お構いなく。ほんと、大丈夫なんで」
拒否した。
ここで手をとってしまったら、煉獄へ直行してしまいそうだった。
素直に手を取り『お礼を兼ねてお茶でもどうです?』という邪なシナリオも思い描いたが、そんなハイスペックなコミュニケーション力は持っていないし、女神様に大変失礼だろう。
それに、これは僕なりの優しさだ。
女神様の懐の深さには感服するが、その女神様にストーカー疑惑をかけた挙句、美人に見惚れて転んでしまうようなみっともない僕に構ってないでもっと自分にとって有意義な事にその優しさや意識を向けるべきだ。
そんなことは口が裂けても言えないし、全くもって伝わらないとは思うけれど。
「……チッ」
……え? 舌打ち?
彼女の口から出たものだとわかっているが、頭が理解することを拒否している。
そうか、僕の行為は彼女にとって意図にそぐわないものだったのか。
自分の向けた善意の気持ちを意図せず拒絶されたらイラつくってことを、僕は知らなかった。
そもそも、善意を人に向けたことがあっただろうか。
ただ、彼女が慈悲の心から僕に手を差し伸べたのではないことは、よく理解できた。
そのまま彼女は踵を返して旧部室棟へ続く道を歩いていく。
漫画や小説では見たことがあるけれど、現実でされたのは初めてで、こんなにも空虚感を味わうものだとそれらは教えてくれなかった。
何よりさっきまでの優しい表情が一転して侮蔑の表情に変わったことがショックだ。
せめて一言くらい喋って欲しかったが、あの様子だと僕のメンタルが再起不能になりかねない一言が出てきそうで、むしろ舌打ちで済んだことを喜ぶべきかもしれない。
ジーパンに膝が吸い付くような感触があって初めて、膝から血が出ていることに気がついた。
体を見回すと、左肘からも血が出ている。
……とにかく、部室へ向かおう。
ほどなく部室に辿り着き、救急箱があるとこを願いつつドアをあけた。
「お疲れ様でー……ぇぇぇええ!?」
「その挨拶は斬新ですけど頂けませんね。金田一先生に謝ってください」
「いや、そうじゃなくて、え? ちょっ、えぇ!?」
「どうかしました?」
キリン先輩は何食わぬキリン顔でこっちを見ている。
「そ、その人は?」
「驚くなかれ……なんと入部希望者ですよ!!」
ジャジャーンと派手な効果音がなりそうな感じで言ったのだろうけれど、僕の中ではジョーズのテーマが流れている。
違う意味で開いた口が塞がらないんだが、いや、本当に顎抜けたかも。
「良かったですね、歓迎会に間に合って。あれ? もしかしてお知り合いですか?」
キリン先輩は掴んだドアノブから手を離せないでいる僕と机に座る入部希望者を交互に見る。
机に座っていたのは、先ほどの舌打ち彼女だった。
さっきの顛末を話そうかと思ったが、『転んだ僕を助けてくれた』とも違うし『差し伸べられた手を遠慮したら舌打ちされた』だと彼女のイメージが悪くなるしと悩んでいるうちに、僕は話すタイミングを失った。
というより、彼女が発した言葉に、僕は声を失った。
初めて聞く彼女の声は、懐かしくて小恥ずかしい、聞き慣れたものに感じたけれど、それは言葉の意味がもたらした哀愁だと思う。
「久しぶり、カズくん」
そう呼ばれたのは小学生の時以来だ。
彼女はまた、まっすぐに僕の目を見据える。
まるで真実を写す鏡のように、彼女の瞳に歪んだ顔が写っている。
彼女は、僕を知っている。