サイン 3
警備員が連絡を終えると、僕らは門の端にある小さな通用口から園内に通された。
当然ながら、閉園時間を過ぎた園内に人の気配はない。
警備員はまっすぐ進んだ先にあるゲート前まで行くように僕らへ伝えると、守衛所の中へと引き返していく。
示された方角へ向かいながら、先ほど空振りに終わった質問を再びキリン先輩へ問いかける。
「どういことですか? 動物園閉まってるし、誰かと会うなんて聞いてないですよ」
「ちゃんと言いましたよ? 依頼があったから、詳しくは歓迎会で話すって」
「……すいません、質問の答えになっていないんですけど」
「だから、これからクライアントに会うんです」
「……なんてこった。全然歓迎会じゃないし!」
「いやいや、ちゃんと歓迎会ですよ」
閉園した動物園で、しかもクライアントを交えた歓迎会らしいが、生憎僕らはそんな歓迎会を歓迎していない。
なんなら僕の部屋で缶ビールとおつまみを持ち寄って宴会でも良かったくらいだと一瞬考えたのだが、我が家に人を歓迎できるほどウェルカムなスペースは無いことを思い出した。
とりあえず、その中原専務とやらに会えば、事情がわかるはずだ。
言われた通りに門からの通歩道をまっすぐ歩いて行くと、入場券を購入する券売所や、入園者を通すゲートが並んでいるエリアに着いた。
券売所近くからこちらに向かって男性が近づいてくる。
「君がキリン君だね。 おー、本当にキリンだ。 初めまして、当園専務理事の中原です。ようこそ、多摩動物園へ」
「お世話になります。大橋教授からご紹介頂きました、広告部のキリンと申します。彼らは広告部の部員で、高宮、倉永、五条です。本日はお招きいただき、ありがとうございます。」
キリン先輩から突然紹介され、僕らは慌ててお辞儀をする。
スーツ姿の中年男性は、先ほど先輩が警備員に伝えていた中原を名乗った。
つまり、この人が今回のクライアントということだろう。
正直、スーツ姿を着た社会人で、しかも専務なんて肩書きのある人と話すのはほとんど初めてで、失礼があってはいけないのではと、無意識に顔が引きつってしまった。
倉永さんは流石に引きつってまではいなかったが、明らかに楽しそうではないし、五条さんに至っては早くも広告部に入ったことを後悔し始めているように見える。
僕らの緊張感がピークに達しようとした瞬間、中原専務は名乗った時の定型文みたいな口調から、リアクションに定評のある雛壇芸人くらいの明るいトーンで暗がりを照らすように笑った。
「よろしくお願いしますー、って硬い! 硬すぎるよ!! 勤務時間終わってんだから、もっと楽にいこうよ! 準備できてるから、皆さんもこちらに」
専務ということはこの動物園の中でも経営の中核を担っているであろう人から、キリン先輩と同じ匂いを感じたのだが気のせいだろうか。
中原専務について行くと、販売所の側にある従業員用の通用口からゲートの内側に入った。
ゲートの内側も外と大差なく暗い。
関係者の先導があるとはいえ、灯りのついていない動物園に入る行為は、まるで忍び込んでいるような錯覚を与え、何か悪いことをしている気分になる。
初動物園ではあるが、おそらく昼間に来るより興奮していた。
見渡すと所々に灯りがついており、それは何を照らすべきか決めかねるように定まらず、ゆらゆらと揺れている。
500メートルほど歩いた所で、中原専務はこちらを振り返り、キリン先輩に向かってこう告げる。
「じゃあ、用意してくるから」
「はい、よろしくお願いします」
何を計画しているのか、本当に分からない。
ただ、僕はほぼ確信的に思っていた。
キリン先輩は確かに変人で変わっているけれど、常識は外さない。
中にいる人は、変人であってもバカではない。
「何が何だかサッパリね……大橋教授って、超大手の博通堂からウチの大学に来たっていうあの教授でしょ? キリン先輩とどういう繋がりなワケ?」
疑問はごもっともで、僕らに共通していた。
倉永さんや五条さんよりも1ヶ月早くキリン先輩と知り合った僕でも、大橋教授の名前をキリン先輩から聞いたことはない。
もちろん、教授が広告部に顔を出したなんてことも、一度もなかった。
「僕に聞かれても、ほんと、何が何だか」
「ほ、ほんとに歓迎会なんですか……?」
不安げな五条さんは、まるでキリン先輩主導の犯罪に巻き込まれたとでも疑っているようだ。
そう言えば、僕はキリン先輩と話すようになって暫く経つけど、この2人は昨日今日話し出したばかりだった。
それに倉永さんは昨日、面と向かって信用してないと宣言までしている。
怪しいサークルの怪しい男たちに閉園後の動物園へ連れ込まれた、なんて疑いも当然だろう。
「大丈夫、キリン先輩のことだから、きっと何か事情があるはずだよ」
「はい……」
みんなの疑心暗鬼を察してか、キリン先輩は先ほどまでのハイテンションを抑えて、僕らにこう切り出した。
「皆さんに問題です。広告とは、何だと思いますか?」
……何、その急な問題。
今必要なことなのかわからないが、答えないと僕らの質問もできなさそうだ。
倉永さんと五条さんが答えないのを確かめて、僕はキリン先輩に答える。
「なぜ今聞かれるのかわかりませんが……販売促進のための手段でしょうか?」
「そうですね。倉永さんは?」
「あんまり詳しくは知らないんだけど、CMとかポスターとか、そんなんかな」
「なるほど。五条さんは?」
「私も、そういうメディアを使った宣伝だと思います」
「さすがですね。皆さん正解です」
いや、だからーーーそう言おうとした僕の言葉は続け様に話し出した先輩の言葉が打ち消し、そしてその言葉は僕が広告部で本当に知りたいことと同じものだった。
「でも、全部不正解です。僕ならこう答えます……『全て』と。今皆さんが言った答えを忘れないでください。そして、多くの案件を重ねた後に、再度問います。皆さんが何と答えるのか、今から楽しみです」
そして、キリン先輩は両手を広げ、それを目で追っていた僕らの視界を、今までそこら中にあった暗闇が全部拭い去られるほどの光が覆い隠した。
「改めまして……宇宙よりも奥深き広告の世界、広告部へようこそ!」
突然のライトアップで暗闇に慣れ始めていた僕らの目では、眩しさのあまり光源が何なのかも先輩がどういう状態かもわからなかった。
ただ、周囲から徐々に見え始めた視界の中に、キリンを被っていない人影が数人いる。
「すごい……なにこれ!?」
僕より先に状況を確認できた倉永さんは、驚きも呆れも含んだようなニュアンスで、でもやっぱり驚いているようだ。
眩しさの和らいだ頃、先輩の姿は先ほどの立ち位置にはなく、従業員に混ざって中原専務と話している。
暴力的なまでの眩しさをもたらしたのは野外用の大型照明灯で、人影の正体は調理服姿の従業員だった。
コンテナのような長方形の施設はオープンキッチンになっており、中からは何かを鉄板で焼いているのか、香ばしい匂いと煙が辺りに漂いはじめている。
どうやらここは、野外に設置されたフードコートらしい。
「すごいけど、全く理解できない……ここは動物園で、これは……ビアガーデン?」
倉永さんがそう言うと、キリン先輩はこちらに気づいて立ち尽くす僕らを呼び寄せた。
中原専務もキリン先輩も、手に持つプラスチック製使い捨てカップのビールが早くも3分の1ほどになっている。
顔は見えないが、アルコールが回ったのか少しだけ声のトーンも高揚しているような気がした。
「この動物園は、7月から期間限定でナイトサファリとビアガーデンをされるんです。それで、今日はその試食会を兼ねたレセプションパーティーなんですが、大橋先生を通じて我々広告部もお招き頂いた、という訳です。生憎、先生は別件で東京にいらっしゃいませんが」
「いやいや、大橋教授には代理店時代からお世話になってるからね、これぐらいお安い御用さ。それに3年ぶりの歓迎会なんだろ? だったら尚のこと、派手にやらなきゃ」
声を揃えて「なーっ」と言い合うほどに意気投合している2人に対して、僕らはまだ場の空気に溶け込めていなかった。
喫茶店でよく見るウエイターの格好をしたスタッフが、飲み物を訪ねて来たので僕はビール、倉永さんと五条さんはウーロン茶をオーダーする。
ここは普段、動物園に来た人が軽食を食べられるフードコートスペースなのだろう。
オーダーを取りに来たウエイターの接客慣れした様子からも、普段からここで働いているスタッフだと思われる
暗くなったら照明灯を増やして、従業員はそのままにメニューを変えて野外のビアガーデンに営業形態をシフトする。
確かに、日の長くなる夏場にやるには格好の企画だと思った。
土日ならナイトサファリ目当ての家族連れが見込めるし、立川からガラガラのモノレールで数駅の立地なら、仕事終わりのサラリーマンで平日や週末も集客できるだろう。
よく考えてあるなと感心しているところに、キリン先輩が近づいて来た。
「今日はどんなイベントなのかを体感するだけなので、これで良いですけど、ここからが大変ですよ。広告部でこのイベントのプロモーションを企画するんですから」
「……プロモーションのプも知らない学生なんかが、そんなこと請け負えませんよ」
「いやいや、まだ使って貰えると決まった訳じゃないんですよ。広告の依頼先は、過去の実績や媒体の種類から決めることが多いのですが、我々には制作実績がない。そこで、今回は企画内容で候補に入れてもらえることになったんです。こんなチャンスは滅多にありません」
「だとしても、比較対象は本物の広告代理店ですよね? そんなの」
「勝てっこないですか? だから諦めると?」
……そうか。
これもまた、求める答えに繋がっているんだな。
それに、この案件から大橋教授に接近できる可能性がある。
僕は大橋教授に師事したくて、地元の大学や知名度のある大学ではなく、この大学を選んでいた。
「わかりました。やれるだけやってみます」
「そんでもって、勝つしかない」
キリン先輩は、僕らが素人だということを本気で忘れているとしか思えないほど、勝てると信じているようだった。
アイデアや技術で劣る僕らのどこを信頼しているのか全くわからない。
それでも、キリンの被り物から漏れてくる自信に満ちた声は、全く乗り気じゃない僕の背中を押すには十分に熱かった。
「……そうですね」
広告部に入って、おそらく最初の制作が、こんな大掛かりなものだとは思っていなかった。
仮にコンペティションで落選しても、間違いなく多くのことを学べる良い機会になる。
特に、倉永さんと五条さんが広告に触れる最初の機会だし、連携して作業するには絶好のタイミングだ。
そう1人で納得していると、側の席で話していた2人に声をかけられた。
「ねぇ、ナイトサファリにも行って良いんだって。どうする?」
従業員と話していた中原専務もこちらに来て、事情を説明してくれる。
「これから他の招待客も来るんだ。君たちも窮屈になるだろうから、先に食べるだけ食べたら行ってみると良いよ。案内は作業服のスタッフがやってくれるからね」
レセプションパーティーには他にもこのイベントに絡む企業が招待されているのだろう。
学生である自分たちへの配慮で、時間をズラしてくれていたのかもしれないが、だとしたらこの中原専務はかなりの紳士か、もしくは腹黒いヤリ手のどちらかだ。
「高宮くん、どうしますか?」
キリン先輩は僕に意見を求めてくる。
仮にも広告部の代表なら、それくらい決めてみんなを先導してほしいものだ。
きっと中原専務ならそうすると勝手な想像をして、それなら彼は紳士ではなくて腹黒だと、僕はほとんど確信に近いくらいに思っていた。
とりあえず、今日は僕らの歓迎会なんだ。
楽しむ権利も人を紳士にする権利も、僕らにある。
「……行きましょう。企画の良い材料になるかもしれないし」
そういうと、倉永さんも五条さんも顔を綻ばせて喜んだ。
さっきまでの不安から解放されて、気分が良くなっているんだろう。
「さて、じゃあキリンでも探すかなー!」
ちょっと大袈裟かもしれないが、無理にでもテンションを上げて2人を楽しませようと、僕は道化を演じる。
「私もー! 首の長い方のキリン見たーい!」
「ちょ、私も行きますー!」
「キリンならココに……まあ、いいか」
僕らは案内役のスタッフについていく。
そうしながらも、腹黒の僕は紳士な彼が僕らの後ろ姿を目で追っているのを確かめていた。
いいさ、相手がどんなに有能な人や企業だって、僕らはやれることをやるだけだ。
そんでもって、勝つんだ。