サイン 2
電車が停止したりカーブを曲がる度に、重なった人の体重が僕の身体にのしかかる。
それと同時に、腕を掴んでいる五条さんの柔らかい身体に当たって衝撃が吸収されていく。
いや、物理的にそんなことはない。
ただ、当たっちゃいけないと囁いてくる僕の理性が、身体的限界を押し上げて出したこともないレベルの力で踏ん張れているだけ。
少しの揺れでもポヨヨンとしたなんとも言えない柔らかな感触が伝わって、理性に否応無く本能的に喜んでしまうのが哀しい。
五条さんの身長でその豊満な胸ってのも、身体的限界を超えていると思うんだけど、それは何? どうやったの? 牛乳?
揺れるたび左右から襲ってくる重力とポヨヨンで体も心も倒れそうになるのにどうにか耐え、乗り換えの立川駅で満員電車から解放された。
スマホの乗り換え案内によると、ここからはモノレールに乗り換えて、動物園の最寄り駅へ向かうらしい。
先に下車していたキリン先輩と倉永さんは、僕らが降りてくるのをホームで待ってくれた。
「……ものの10分で随分仲良くなったものね」
倉永さんは僕と五条さんを見るなり、表情や言葉のニュアンスを使って怒っていることを全面的にアピールしている。
それを見て五条さんは慌てて僕の袖を離した。
「何怒ってんの。満員の中を漂流しそうになってたから掴ませたんだよ」
ふーん、と納得したのかしていないのかよくわからない反応だけを残し、改札へと向かうキリン先輩の後を追う。
なぜ釈明しないといけないのかよくわからないが、僕と五条さんが短時間で仲良くなると倉永さんの怒りを買う、ということだけ覚えておこう。
立川駅を一度降りてモノレール乗り場へ向かう。
家路を急ぐ人でごった返す国分寺駅と違い、ここの人々はどこかのんびりしているように見える。
「私、動物園って行ったことないのよね」
目的地のモノレール駅名が多摩動物園駅であるのを見て倉永さんはそう言うが、小学校の同級生である僕には遠足で動物園に行った記憶がある。
その頃同じクラスだったか忘れてしまったけれど、行事は共通していたはずだ。
「小学校の遠足で行ったじゃん。でっかいペリカンとかエミューがいてさ、覚えてないの?」
「……それは鳥類センターでしょう。動物園に比べたらあんなのでっかい鳥籠よ」
行ったことないのに知った風に言われてしまったが、確かにあれは鳥類センターだった。
あれを動物園に含めないのであれば、僕も行ったことがないという事になる。
「あ、あの、倉永さんと高宮くんは元々お知り合いなんですか?」
「そう、小学の同級生。私が中学に上がる直前で県外に引っ越したから、それきり会っていなかったんだけど、大学で偶然再会したの」
……言葉の節々に『残念ながら』と挿入されそうなニュアンスを含んでないか?
若干の違和感を感じたので補足しておくと、倉永さんは県外に引っ越したと言うが、マイホームを購入した隣町の新興住宅地がたまたま県境を越えており、佐賀県民になっただけだったはずだ。
まあ、その後どうしていたのかは知らないので黙っておこう。
「そうなんですね……わ、私も動物園初めてです」
「あら、皆さん初めてですか。それはラッキーですね」
キリン先輩は僕らの方を振り返り楽しそうに言うが、何がラッキーなのかわからないし、そもそも今日は宴会の腹づもりでいたのだからどちらかと言うとガッカリしている、主に僕が。
それにしたって、
「そろそろ教えてくださいよ。なんで歓迎会が動物園なんですか?」
みんな何も言わずについてきているけれど、同じ疑問を抱いているはずだ。
まさか動物園で宴会やるわけじゃないだろうし、キリンを被っているからだというのなら、該当しない僕らは立川で宴会ができる。
「セッカチさんだなー、高宮くんは。着いてからの、お・た・の・し・み」
「……帰りますよ?」
「いやいや、ちょっと待って、着いたらすぐわかるから! 騙されたと思ってついてきてよ」
もう既に騙された気分なんだが。
それにしても、普段からちょっとおかしい先輩が、今日は普通のハイテンション野郎に見える。
動物園そのものよりも、先輩のテンションを上げる何かに興味がなくはない。
僕はキリン先輩を変人だと思うけれど、それと同時にある種の天才的な才能を持っている特殊な人なのではないかとも期待していた。
そんな人が感情の昂りを抑えられないもの、それが動物園に対する期待感のハードルを高めていくようだった。
席に座る人もまばらなモノレールは、中央線と比べたら広大に広がる草原のごとく爽やかで清々しいほどに快適。
中央線での疲れを癒すように4人とも座席で寛いでいると、名残惜しいことに3駅ほどで目的地の多摩動物園駅についてしまった。
「なんだか、やけに空いてますね」
確かに、駅を降りても人はまばらで、すれ違う人は動物園に行った帰りというよりも立川駅で買い物するのが目的の地元住民に見える。
仮にも日曜日だから、家族連れで賑わっていてもおかしくないはずだが、そんなに寂れた所なのだろうか?
「着きましたよー!」
駅を出て5分ほど歩いた場所で、先導していたキリン先輩がそういって振り向いた。
左手に、動物園入り口の案内板と、西洋風に作られた格子状の門が見えた。
が、しかし、
「……どう見ても閉まってますよね?」
門は薄暗がりの中で街灯に照らされ、人も車も空気さえも拒むほどに重厚な威圧感を持って閉ざされている。
「あ、あの、17時閉園って書いてあります……」
案内板を見に行った五条さんは、戻るなり申し訳なさそうに報告してくれたが、大丈夫、君は全く悪くない。
このグダグダ展開を引き起こした真犯人は、顔に大きすぎるトレードマークのある人だとはっきりしているから心配ないさ。
「先輩、どういうことですか?」
キリン先輩を問い詰めようと話しかけたが、当の本人は門の側にある守衛所へ向かい、警備員と思しき初老の男性に話しかけた。
警備員の男性は、あからさまにキリンを被った変人を訝しんでいる。
そのキリンが近づいてくるのを見て、どう追い返そうかと悩んでいるに違いない。
「お世話になります。私、18時にお約束しておりました、キリンと申します。中原専務にお取り次ぎ願います」
こんなに真面目な口調のキリン先輩を見たことがないせいか、胸に大きくNO CONCEPT BAD GOOD SENCEと書かれたTシャツに半袖シャツというラフな恰好にも関わらず、不思議とフォーマルな雰囲気に見える。
「……お待ちください」
警備員は最近の若者のやることは理解できないとでも言いたげな腑に落ちない様子ながらも、どこかに電話をかけ始めた。
大丈夫だよオッチャン。
僕らみたいな最近の若者だって、キリン先輩のやることは理解できないから。