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国を救えなかった英雄

作者: 子志

 その男の腰には、剣があった。

 古くより伝わる流派の、彼は事実上、最後の継承者だった。

 夜風が髪を流すに任せ、男は星空を見上げる。


 彼はその剣術を以て、騎士団に属していた。

 彼の剣は実直で、飾り気の一つもない。しかし、その分軽兆な他の若者達の剣を寄せ付けず、誰よりも精確に斬るべきものを斬ってきた。


「頼む」

 騎士団長に、折り入って話があると言われたのは、彼が職を辞して実家に帰ろうとしていた矢先だった。


「この国を救ってくれ。お前しかいないんだ」


 彼らの国には、森があった。

 太古より広がる大地の真ん中に、数百年前に突如出来たと言われる森だ。そこには見たこともない獣が住み、人間達を拒絶していた。

 団長は言う。その森が、次第に広がっているのだと。


「今すぐにどうこうということは無い。だが……」

 団長は机に肘をつき、両手を顔の前に組んだ。そこに込められた力と震えが、彼の苦悩を映しているようだ。

「このまま放っておけば、この国は、緩やかに滅びに向かうだろう」

 男は何か言おうと唇を震わせ、しかし何も言えずに奥歯を噛み締めた。場に沈黙が降りる。


「……討伐隊を」

 数分の重苦しい沈黙を経て、漸く男が口を開く。

「討伐隊を、差し向けては如何ですか。騎士団から募って」

「無駄だ」

 団長は言下に却下して、溜め息を吐いた。

「騎士団の質は落ちた。今の騎士団に、森に入れる程の腕を持つ者はいない……お前を除いては」

 並の討伐隊を差し向けても徒に犠牲を増やすだけだ、と、団長は言う。

 男もまた、そうだろうな、と思った。団長も、若い頃ならばともかく、頭髪に白いものの増えた今では、森の表層部に入っただけで苦戦することになるだろう。


 しかし、と、男は思う。

 しかし、彼自身も、森に入って生きて帰れる保証などどこにも無いのだ。森に関する情報はあまりにも少ない。深層部に核があり、それを破壊すれば枯らすことができるという言い伝えはあるが、それだけだ。危険を冒して踏み入っても、野垂れ死ぬ可能性の方が余程高い。


 それに。


「しかし団長……自分は……」

 二人は同時に、団長の机に置かれた羊皮紙に目を落とした。


 男の、辞職届に。


 男には老いた母がいた。他に肉親はいない。折しも母が体調を崩したという報せを受け、彼は辺境に住む母のもとへ帰ろうとしていた。

 目下のところは現地の医館が彼女の世話をしてくれているが、医館に頼れる期間は限られている。彼が帰って面倒を見なければ、他に頼るものもない母は路頭に迷うことになる。


「……お前の事情は、わかっているつもりだ」

 騎士団で面倒を見てやれればよかったのだが、という呟きは、つまり、騎士団が手を回して母の現状を何とかしてくれることはできないことを示している。数十年の平和を謳歌してきたこの国の騎士団の予算は可能な限り削られており、団員の家族の面倒まで見ている余裕など到底無い。その上団長は公平を重んじる人物だ。彼だけを特別扱いするわけにはいかないと考えていることは、手に取るようにわかった。


「国には、この事は」

「無論報告した。対策も申請した」

 答える団長の表情は、苦い。

「却下された」

「……差し迫っていないならそちらで何とかしろ、とでも?」

「その通りだ」


 男は眉を寄せた。この国は今、隣国との外交という名の駆け引きに夢中だ。目先の利を得るために即実用可能な技術にのみ関心を寄せ、古いものを蔑視し、隣国との貿易で利益を得るため、ひたすら目新しいものを作り続けることに莫大な予算を注ぎ込んでいる。

 伝統的に国を守護してきた騎士団は、もはや忘れられた存在だった。


「もはや、頼れるのはお前だけだ」

 団長は深く息を吐いた。

「無茶を言っている自覚はある。だが……考えてみて欲しい」



 星空の下で団長とのやり取りを反芻した男は、腰の剣に手を触れた。

「国の為、だが誰からも顧みられず、寧ろ軽視されながら、家族を見捨てて命を賭けろと」

 言葉にしてみると、あまりにも馬鹿馬鹿しい話だ。だが、自分がやらなければ、待つのは緩やかな滅びでしかない。数百年後か、千年後か。わかりはしないが、長き時の末、この国は森に呑み込まれるだろう。


 国を守りたい。自分しか守れないのだと言うのなら、自分が引き受けるのが筋なのだろう。

 しかし。

 早くに父を亡くし、女手一つで彼を育て支えてくれた母を守れるのもまた、彼だけなのだ。


 この身が二つあったなら、と、考えても仕方の無いことが脳裡を過る。


 国を守らなければ、と、義務感が叫ぶ。

 何故誰にも顧みられずに命を賭けなければならないのだ、と、私情が喚く。


 賭けるのが己の身一つであったなら、男はこれほど迷わなかったかも知れない。だが、彼は母の命を背負ってもいるのだ。


 ――母は……もしも私が決意したなら、行けと、言うのだろうな。

 男は土の上に寝転んだ。頭上に広がる星の瞬きが、苦悩する男に降り注ぐ。

 ――だが私は、いったい誰のために命を賭ける?国を救えればまだ良い。だが、森の内部は未知数だ。もし道半ばで倒れたら。


 ぞっとした。

 彼は誰にも記憶されず、誰をも救えず、森の中で獣に喰われて終わるのだ。


 何故自分なのだ。せめて、仲間が居れば。或いは、自分が倒れても後を継いでくれる者がいれば、まだしも希望を持てたかも知れないのに。

 第一、この国が今まで、自分に何をしてくれた?


「いや……そういう事ではない」

 男は首を振って、絡まった感情を一度振り払った。


 考えるべきことは一つだ。

 国を救わねばという義務感に、自分は、自分と家族の命を賭けられるか。



 男は長いこと、土の上に横たわっていた。

 微かに、街の喧騒が聞こえてくる。

「ほら、新作だよ!見ていきなよ!」

「楽して稼げる仕事に興味無いかい?」


「騎士団の取り締まり?まだあったのかい、あの骨董部隊」


 男はむくりと身を起こした。

 深く深く、肺の底から吐き出した息が、熱い。


 一挙動で立ち上がると同時に、腰の剣を鞘ごと引き抜いた。


 腹の底から絞り出された叫び声が響く。男は、鞘に入ったままの剣を、力任せにその場に突き立てた。


 暫時、荒い息を吐いて。男は踵を返す。


 後には、地面に突き立てられた剣が残った。

 それはまるで、墓標の如く。



 ――これは、国を救えなかった男の話。


 物語の英雄ならば、迷わず国を救っただろう。

 しかし現実に命を賭けられるか否かを問われた時、この男を責められる者が、果たしてどれだけ居るだろうか。


 これはただ、物語の英雄になれなかった、凡庸な男の話である。


ちょっとした、魂の叫び。

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