Fairy Life
それは私が小学校三、四年生くらいの頃の出来事だった。
昔から夏休みは田舎にある祖父母の家へ一週間ほど泊まりに行くのが習慣だった私は、その年も、いつものように祖父母の家に預けられていた。
毎年のことではあったが、やはり長い間近代的な遊び道具もない場所にいると、やはり幼心ながら暇になってくるもので、私は何度もその家を抜け出しては周りの田んぼや草むらを探検しては、よく祖父母に怒られていたものだった。
その日も同じように、前日怒られていたにもかかわらず、私はこっそりと家の裏の小さな林で探検をしていた。
私は暫くの間そこで、都会では見ることのない珍しい虫を集めたり草を千切ってみたりして遊んでいたのだが、ふと気がつくと、自分がいる場所が分からなくなっていた。
あれ――と、私は小さく呟いた。だが勿論、誰かの返事などなかった。響くのは五月蝿い蝉の鳴き声と、木の葉の触れる音だけ。
私は青ざめた。もしかしたら、生きて帰れないのではないか。あるいは、このまま死ぬのではないか。そんな不安が心の中を圧迫するように渦巻いていた。
おじいちゃーん――と大声で叫んでみるが、何の答えも帰ってはこなかった。周りを見回しても、あったのは茶色と緑色だけ。人の影など、全く何処にもない。
私は、無我夢中で走った。自分がどこにいるかも分からず――どこに向かっているのかすらも、分からないままで。
少し経つと、苔や小さい草がまわりにたくさん生えている小さな川があった。足が少し疲れてきていたので、その近くにあった大きめの岩に、私は腰掛けた。
私は顔を手で覆い、声を上げて泣いた。赤子のように。慟哭が喉を引き裂くかのように。
気がつくと、私の眼の前に一人の少女の足が見えた。慌てて私は溢れる涙を袖で拭き、ぷいっとそっぽを向いた。
「どうして、泣いてるの?」
目の前の少女が首を傾げ、そう私に尋ねた。
「……泣いてないもん」
私はそう、嘘で答えた。そして、込み上げる嗚咽を誤魔化すようにこう続けた。
「君は? どうしてここに居るの?」
「わからない」と、少女は答えた。普通の人なら、分からない訳がないのに。
どうして分からないの――と尋ねよう彼女のほうを向き、私はハッと息を呑んだ。
緑色の、目を隠すほど長い髪。
花のような模様が描かれた薄茶色のワンピース。
服と同じ色の小さな帽子。
そして、私の三分の二もないような背丈――。
その姿はまるで、自然がそのまま人になったかのようだった。
「君は――いったい誰?」
たまらず私はそう尋ねた。子供心にも、違和感を感じたのだろう。だが――
「……わからない。私は、誰?」
少女は、私の顔を覗き込んだ。
とめどなく、純粋な目をして。
その後、私は名前も分からないその子を連れ、川に沿って歩いた。
村に出れば――少なくとも、誰か人にさえ会うことができれば――今の状況は打破できる、そう思ったからだ。
意外にも、私のその判断はあながち間違いではなかった。暫くそのまま歩いていると、大きな道に出たのだ。
その道は、私には見覚えがあった。
「もう少し行けば、家の近く……だっけ」
だっけ、ではなく、確かにそうなのだ。その道は私が祖父母の家から近くの駄菓子屋へ連れて行って貰ったときに、通っていたのだから。かなり走ったと思っていた私は、そこで初めて、自分がそこまで長い距離を移動していたわけではないのだということに気がついた。
行くよ――私は少女にそう伝えると、彼女の手を引っ張った。
だが、彼女はその手についてきてはくれなかった。
「行かないの?」と私は彼女に聞いた。
「行かない」と彼女は言った。
なら――と、私は彼女を無理にでも引っ張り、家の方へと歩いて行った。
私はそのとき何故か、彼女の言うことを聞くことができなかった。
私が家に着いたときにはまだ、家には誰も居なかった。
否。正確に言えば、祖父母の飼っている猫の「タマ」がいた。人ではなかったが。
私は彼女を一番庭に近い和室――自分が祖父母の家に泊まるときに自由に使わせてもらっている部屋――へと連れて入った。
「帰らなきゃ」と、少女は言った。
だが、遊び相手の欲しかった私は、彼女をそこから出させなかった。
暫くのあいだ、私と彼女は二人きりのまま話をした。
自分の住んでいる場所の話。
好きな動物の話。
祖父母の猫の話。
少女も最初はそわそわしていた様子だったが、暫く話すとすぐに笑顔になった。
その調子で数十分ほど――いや、もしかしたら十数分だったかもしれないが――経ったとき、祖父が「ただいま」と言ってドアを開ける音が聞こえた。
祖父はそのまま私の部屋に顔を覗かせると、「珍しいな、部屋にいるなんて」と目を丸くしていた。
「おかえり」と私は言った。少女は、無言のまま頭を下げた。
祖父はそのまま戸を閉めると、台所の方へ行ってしまった。私はそのとき、少女について何も言わなかったことに、心中安堵していた。今更ながら、無理に連れてきてしまったことに少し申し訳なく思っていたのだ。私は祖父に感謝するとともに、「この辺りの子で、祖父とは顔見知りなのだろう」と思っていた。
結局少女とはそのまま、夜の飯時になるまでずっと話し続けていた。途中、祖父が何度か見に来たが、私にも、その少女にも何も言わないまま戻っていった。
ごはんですよ――と祖母の呼ぶ声が聞こえてきたとき、私は少女に帰るよう言った。
「嫌だ」と、彼女は言った。「だって、ここが楽しいんだから」
「でも、お父さんやお母さん、心配しないの?」
「分からない。でも、帰りたくても家が分からないんだもん」
確かに、彼女の言うことはもっともだった。
かといって、さすがに祖父母たちに無理やりご飯を一人前余分に作らせるわけにはいかない――そう思った私は、急いで居間へ行き、置いてあった菓子類やパンの類をかき集めて部屋に戻った。
「お腹が減ったらこれを食べてて。私はおじいちゃん達とご飯を食べてくるから」
少女は何も言わず、その言葉に笑顔で頷いた。
「今日は、何か変じゃなかったか」と、祖父が祖母に言った。「今日、森に入ってみたんだが、途中から急に動物達の姿が見えなくなってな」
「おやまあ。もしかして、霞み妖精が仕事を怠けてるんじゃないでしょうかねぇ」
祖母は、まるで茶化すように笑った。
「まさか。あの勤勉で真面目なのがか? ありえんわい」
「うふふ。ま、多分偶然じゃないかしらねぇ」
そう言いながら祖父母達が顔を見合わせ、笑う。
その話を黙って聞いていた私は、「霞み妖精って?」と聞いた。
祖母は少し驚いた後、
「森の守り神、森に活気を与えてくれる神様なんだよ」と言い、私にその神様の説話を逐一欠かさず、教えてくれた。
その力で、大飢饉を救った話。
村を襲う大洪水を森で堰き止めた話。
山火事から山を見事に立ち直らせた話。
私はその話を聞き流しながら、黙々と夕食を食べ進めた。
だが、祖母が急な来客に呼ばれ、その話は最後まで聞くことはできなかった。
私が夕食を終えて部屋に戻ると、緑髪の少女はすうすうと寝息を立てていた。
その周りには、いくつもの包み紙やビニールがあった。どうやら食べ終わった後、満腹になって寝てしまったらしかった。
私は部屋の隅に積んであった毛布を彼女にかけた。ワンピース一枚しか着ていない少女なのだから、風邪をひくといけないと思ったのだろう。
私はそのまま、彼女と同じ毛布にくるまり、身体を寄せて目を閉じた。
私がもう一度目を開くと、もう朝だった。
「おはよう」と、縁側に座った昨日の少女がこちらを見て言った。
「思い出した?」
私は聞いた。
「まだ」
少女はそう言った――照りつける太陽のような笑顔で。
喉が渇いていたので私は、飲み物を取りに居間へ行ってくる、と少女に伝えて部屋を出た。
居間では祖父が田舎唯一の娯楽であるテレビで、ニュース番組――勿論、地域局のものだった――を見ていた。
「おはよう。昨日はよく眠れたか」
「……うん」
「そうか。なら良かった」
祖父は安堵したような表情を浮かべ、ほっと息をついた。
それだけしか、祖父は言わなかった。
私が部屋に戻ると、少女は言った。
「今のままじゃ呼びづらいだろうから、私に名前を付けて」と。
どうするべきか悩みに悩んで、私はこう言った。
「マリ……とか?」
それを聞いた少女の顔は、ぱっと明るくなった。
「マリ! いい名前!」
私は嫌な顔一つせずに受け入れてくれた彼女に内心ほっとするとともに、少し心を痛めた。
――本当は、元々あった名前を思い出させてあげたかった。そして、どうせならその名前で呼んであげたかったのだ。
私と少女――マリは、毎日のように喋り、遊んだ。飽きることもなく。誰に止められる事すらもなく。ただただ、二人きりで。
彼女と私は、一緒に色々な場所にも行った。山に、川に、他にも多くの遊び場を、彼女は知っていた。
私は笑った。彼女が二度と、何もかも、思い出さなければいいのに――そう、思った。
だが、現実はそう上手くはいかないものだった。
ある日、「思い出した」と、彼女は言った。
それは、私が「森の動物が全然現れなくなった」という祖父の言葉を伝えた時だった。
「ああ、そう」と私は言った。「良かった、思い出せたんだね」
少女は無言で頷いた。その目には何故か、悲しみのような感情すら感じられた。
暫くの間ソワソワしていた彼女だったが、不意に彼女は「帰る」と言い出した。
驚いた私は、彼女に詰め寄った。「何で? どうして?」と、何度も尋ねた。
彼女は答えなかった。答えないまま、ただただ俯いていた。
だから、そんな彼女を見ていられなかった私が先に折れた。
「わかった、いいよ」
そう言って私は、彼女に背を向けた。
気づくといつの間にか、彼女はもう居なかった。
いつ出て行ったのかも分からない。声をかけられたかも分からない。私には、もう何も分からなかった。
そして、彼女は戻ってこなかった。次の日も、その次の日も。
私が帰る日の前日、祖母は言った。
「この間の話の続きを教えてあげる」と。
私は話の――霞み妖精と呼ばれる森の神の伝説の――もう半分くらいの内容を忘れていたのだが、祖母の話を聞いているうち、私は胸から何かが込み上がってくるようだった。
話の続きは、こうだった。
「ある時、霞み妖精に会った女の子がいたの。その子は、妖精の姿をこういう風に言ってたらしいわ――小さな、緑色の女の子だった、って。
その子は、妖精にこう聞いたらしいわ。『あなたは、いつから生きてるの?』って。でもね。その緑の女の子は『昨日』って言ったの。びっくりよねぇ。
その緑の子が言うには、『自分は生まれては死んで、そうしてできた死骸が森に栄養を与える』らしいの。それで、前の妖精が死んだら、新しい妖精がその死骸から生まれるそうよ。記憶も何も引き継がないままでね」
私は、何も言えなかった。震えたまま、立ち尽くしていた。
祖母の話を聞き終えた後、私は家を飛び出した。あの時別れた少女のあとを追いかけて、ただひたすら駆けた。
私の足は、自然と「あの場所」に向かっていた。彼女と出会った、あの川辺に。
川辺に着いても、彼女はいなかった。何もなかった。痕跡すらも。
私はあの時と同じように、岩に腰掛けた。
「楽しかった」
「幸せだった」
「ありがとう」
そんな言葉の一つも伝えることができないまま、彼女は私の前からいなくなってしまった。
……そして、もう二度と会うことはできないのだ。彼女とは――自分との時間を過ごした、あの少女とは。
私は泣いた。
身を震わせ、慟哭した。
まるで彼女と出会った時と、同じ風に。
泣き疲れてふと目を上げた時、私の前には一人の少女がいた。
その少女は首を傾げながら、私にこう尋ねた。
「どうして、泣いてるの?」――と。