一章 バイト店員の時給がいくらなのか私は知らない。
日曜日。
今日からさっそく花屋の手伝いだ。
本来、『佐伯菜ノ花の家の手伝いに関する条約』によって私が花屋の手伝いをすることは禁止されている。これに私の意志は関係なかった。母が無理矢理に私を屈服させて意志をねじ曲げる危険があったからだ。
そこで父は朝イチに祖母へ連絡を入れ、条約の改正を申請した。
母がかなりゴネたので、今回の契約については伏せて話をしたのだが、意外にも祖母は簡単に改正を認めてくれた。
これにより、私が望む限りにおいて花屋を手伝うことが可能となる。そして花屋を手伝う限り家事は免除されることに。
用意されたエプロンを着けて店に出ると、バイトの加藤千明さんはもう来ていた。
彼女は大学二年生で、高校一年の時からここでバイトをしている。
烏の羽のような艶やかな長髪を後ろで一つに括った彼女は、少し釣り目だが整った細面をしていた。赤いつるの縁なしメガネがよく似合っている。
今日から私達は仲間だ。まずはあいさつをしよう。
「おはようございます、千明さん」
千明さんが私を見上げて小首を傾げた。
「あなた、お店の手伝いはもうしないはずだったわよね?」
少し鼻にかかったいつもの声でそう言った。
「いろいろありまして、今日から三ヶ月間だけ働くことになったんですよ。よろしくお願いします」
愛想の良い笑顔で私は答える。
「三ヶ月だけ?」
「そうです、三ヶ月だけです」
「ふーん」
彼女は手を眉間に持っていくと、メガネのブリッジを中指で押し上げた。
「気に入らないわ」
冷たい表情でそれだけ言うと、私に背を向けて去ってしまう。
あれ? 今のなんだ?
「ぼさっと突っ立ってんじゃないよ、菜ノ花!」
後ろから母が怒鳴りつけてきた。
千明さんの態度が気になるが、まずはこの母を怒らせないようにしないと。
「ああ、母さん。まず何すればいい?」
「苗の方をやれ。分かるよね?」
「いや、分かんない。もう忘れちゃったよ」
「はあ? しょうがない奴だなぁ」
母は私を引っ張っていき、店の中にあるトレーを店外に並べさせた。これだけで腕がプルプルしてくる。
その後、トレーの中の苗をきれいに並べていく。少し間隔を開けて並べると、苗にとってもいいし見栄えもよくなるのだそうだ。
そしてカビたり枯れたりしている葉を取り除いていく。カビが他の葉に移るのを防ぐとともに、やはり見栄えをよくするためだ。
とはいえそういう葉は少なかった。
昨日仕入れたばかりのものが多いし、水や日照の管理をしっかりしているからだと母は言う。
やれやれ、ようやく終わった。
腰を伸ばす私を母は容赦なく攻撃する。
「情けない、ホント情けない。あんなけ教えてやったのに、すっかり忘れていやがる」
「やってくと、ちょっとだけ思い出せたよ」
「全部思い出せ、今すぐに」
無理だっての。
一方の千明さんは観葉植物を店頭の端に吊り下げていた。背の低い彼女では大変そうだし手伝おうか。
置いてある鉢物を持ち上げたところで向こうと目が合う。
私がにっこり笑顔を向けと、彼女は眉間に皺を寄せてメガネの真ん中に中指を当てた。
「それ、余計なことだから」
私の手から鉢物を奪い取ると、背を伸ばして鉢の紐を金具に引っかける。
え? 私、嫌われてるの?
ヤ、ヤバい。どうしたらいいんだ?
「あ、あの千明さん、気を悪くしないで?」
千明さんが私を見上げた。その顔からは感情が読み取れない。
「気を悪くなんて、してないわ」
「そ、そう? ならいいんだけど」
「ただ、あなたは目障りなの」
そう言うと薄く微笑んだ。
「えーっ? な、なんでかなぁ。私は千明さんと仲良くしたいなー、なんて」
「必要ないわ」
冷たい目を向けた後、店の中に消えていった。
わ、私何をした?
確かに以前から感情を表に出さない人だったが、昔はもっと優しかったはずだ。
私がまだ店の手伝いをしていたころに彼女はやってきた。
表情は固かったが勉強熱心な彼女は、すぐに私の両親の信頼を勝ち取った。無駄に愛想の良い私と常に冷静な千明さんはいいコンビだとお客からも言われたものだ。そしてよく失敗する私のフォローをさりげなくしてくれた。
仲が良いと思ってたのになぁ。
なんで嫌われたんだ?
「おいっ! サボってんなよ、菜ノ花!」
母に言われて私も店の中に入る。
「予約してもらったブーケ作らないと。お前やれ」
「いや、いきなりブーケとか無理だよ」
「お客さんが来るのはもう少し先だし、多少もたついても大丈夫だから。思い出しながら丁寧にやれ」
「そんなこと言われてもなぁ……」
「ああ?」
きつい目で睨んできたので観念してブーケを作る。
季節の花を取り入れながら配色をよく考えて……。確か、目立つ花ばかりいくつも入れると喧嘩し合って全体の印象が悪くなるんだよな。アクセントを考えて小花を取り入れつつ、と。
仕上げる前に母に見てもらう。
「やればこの程度はできるんじゃない。最初からできないとか言うな」
「かなり苦労したよ。じゃあ、これでいい?」
「全然駄目。こんなのお客さんに出せない。ちょっと貸して」
花の束は奪われ、原形を留めないくらい直された。悔しいが、こっちの方がずっといい出来だ。
「残り全部、ラッピングまでやれ」
「だからできないってば」
「だから最初からできないとか言うなっての。教えてやるから最後までやれ」
ホント、強引だよなぁ。
そして四苦八苦しながら最後のラッピングまで仕上げさせられた。
「どう、思い出してきた?」
「うーん、まぁ少し?」
「少しじゃなくて、全部思い出せ」
だからいきなりは無理だっての。
その後も鉢を運んだり肥料を運んだり、散々こき使われた。
「ああ、やっぱその肥料いらないわ。戻しといて、今すぐに」
この女は……。
本当は千明さんと話がしたかったが、どうも避けられているようでチャンスがやってこない。
閉店になって千明さんが帰り支度を始めた。
今日の疑問は今日のうちに解決しなくては。
母の目を盗んで、店を出た彼女のところへ駆け寄った。
「あの、千明さん!」
「何?」
振り返った千明さんは相変わらずのポーカーフェイスだった。日が落ちた中、外灯が私達を照らす。
「私のこと何か気に障った? だったら言って下さい。私、謝りますし、嫌なところは直しますし」
千明さんは眉間にあるメガネのブリッジに中指を当て、そのまま動かなくなった。
私は彼女の言葉を待つ。
しばらくして千明さんが手を下ろした。
「いいわ、はっきり言ってあげる。私はもう四年もこのお店で働いてるの。あなたがお店から逃げた後もずっとね。それを今さらしれっと戻ってくるなんて。しかもたったの三ヶ月? 遊び気分のご令嬢の相手なんて私はしたくないの。今すぐ消えて。私の『シャーレー・ポピー』を穢さないで」
遊び気分なんかじゃない。
そう言いたかったが、そう言い切れる自信が私にはなかった。
ずっと真面目に働いてきた千明さんにとって、今さら舞い戻った私なんて許せる存在じゃないのだろう。
そういう気持ちを、理解できてしまった。
うなだれてしまう。
千明さんは立ち去ることなくその場から動かなかった。
「……なぜ言い返さないの?」
「ごめんなさい。確かに私は本気で店の仕事に取り組んでいません」
「そうね」
「この店で三ヶ月働いてみせれば店を継がなくていい。そういう条件なんです。私は店を継ぎたくない! 自由になりたいんです。だから嫌な店の仕事もこなしていって、三ヶ月をやり過ごすんです。でもそういうのって、千明さんには許せないでしょうね」
「許せないわね」
「ですよね……」
千明さんがメガネを押し上げる。
「お店を継ぎたくないだなんて考えに共感することはできないわ。でもそれがあなたの意志なら、なんとしてでも三ヶ月をやり遂げるべきなのよ。なのにあなたは本気でやり遂げる気がない。私が許せないのはそこよ」
「私は本気ですよ!」
顔を上げて千明さんと向かい合う。千明さんもこちらを真正面から見ていた。
「嫌々でやり過ごせるほど花屋の仕事は甘くはない。あなたはそれを知っているはずよ」
彼女の言う通りだった。
本気で店の仕事と向き合わないと三ヶ月も保たない。でも今の私には無理に決まっている。
また下を向いてしまう。
「あなたがどこまでやれるか見せてもらうわ」
そう言い残して彼女は去っていった。
今日の夕飯は父が作ってくれていた。食べながらもため息が出てしまう。
「どうだ、疲れたか」
父が聞いてくれる。
「あの程度で音を上げるなんて、ホント根性なしだよね。しかも仕込んだことほとんど忘れていやがるし。これからたっぷり思い出させてやるから覚悟しとけ」
母は相変わらずの憎まれ口。
「疲れたのもあるけどさぁ、私、千明さんに……」
「嫌われたよね。あの子、いつも通り表情に出さないけど、あれは激怒してるね。やる気のないあんた見てたらイライラしてくるんでしょ? 私もそうだし」
うるせぇ女だ。
「真面目に働いてたら、ちゃんと分かってくれるよ」
「だといいんだけど」
「真面目に働いたら、だからね」
ケケケと母が笑う。
こうしていつも以上にうるさい母に罵られながら食事を終えた。
自室に引き揚げて、マジックペン片手にカレンダーの前に立つ。
そして今日の日付にバツを付けた。
ようやく一日目が終わった。
これから三ヶ月……。ウザい母にこき使われて、同僚には嫌われて、それでも私はやり遂げなくてはならない。
頑張らないとなぁ……。