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終章 さぁ、それでは今日も元気に頑張りましょうっ!

 朝起きて洗面所で顔を洗う。目の前の鏡には大雑把な顔をした女。

 結局のところ、私はこの顔を好きになれないでいる。母という比較対象物がすぐ近くにいるせいに違いなかった。

 その一方で、この鏡に映っている女のことは割と好きになっていた。我が強いくせに打たれ弱い。押しにも弱い損な体質。でも愛想はいいし、頑張る時には頑張る奴なのだ。

 そしてこの女の目は輝いていた。やりたいことが見付かった人間の目だ。これからもなんやかんやと苦労しそうだが、今はとりあえず幸せらしい。


「よし、それなりにいい女!」


 両頬を張って気合いを入れる。




 開店準備までまだ少し時間がある頃合い。

 私は例の『進路調査票』を食卓の上に置いた。

 「進路希望」欄には「花屋『シャーレー・ポピー』に就職(実家です)」と書いておいた。他に第二志望、第三志望も書けたが空欄にしてある。

 それを前にして母は息を吐いた。


「ようやくだね」

「三ヶ月も未提出なんて私だけだよ」

「そういう意味じゃないよ」


 分かってるって。


「ホントにいいんだね?」

「勿体付けずにハンコ押しなよ」


 まぁ、母なりに感慨があるのは分かるけど。

 私にだって感慨はある。この『進路調査票』のせいで今まで顕在化しなかった私の問題が噴出してしまった。結果オーライとはいえ、たかが学校のプリントのくせに我が家に及ぼした影響は相当なものだ。

 母がハンコを朱肉に押し付けたところで家の呼び鈴が鳴った。

 私が表のシャッターを開けるとスラリとした洒落たマダムが立っていた。祖母だ。


「あ、おはようございます、お祖母さん」

「おはよう、菜ノ花。おどき」


 言われたとおり道を譲る。そうせざるを得ない迫力があるのだ。

 私が家への上がり口まで戻ったところで母の悲鳴が聞こえた。実の母を見て悲鳴を上げる娘というのもいかがなものか。


「これ? 例の進路なんとか」

「あれ? これのこと話しましたっけ?」

「私は何でも知ってるのよ。で、ようやく書けたわけね?」

「ええ。これから学校まで提出しに行くんです」


 夏休みとはいえ担任の先生には顧問をしている部活があり、学校には出てきているはずなのだ。善は急げなので昨日の今日で学校まで行くつもりをしていた。


「進路程度を決めるのに三ヶ月以上かけるとはね。本当に駄目な孫」

「いろいろ考えるいい時間にはなりましたよ?」

「三ヶ月はかけすぎよ」


 私の頭をげんこつで軽く叩いた。


「ま、この馬鹿のせいに決まっているんだけど。こんな母親でよく道を踏み外さないものよ」

「何しに来たのさ、呼んでもないのに来ないでよ」


 馬鹿呼ばわりされた母は最初から涙目だ。


「かわいい孫の門出を祝いに来たのよ。久秀君、コーヒーはインスタントじゃない奴を」


 父が持ってきた出来合いのアイスコーヒーを突き返す。


「なんで今日が門出だって知ってるんですか?」

「久秀君に全部終わったら連絡するよう言っておいたからに決まってるじゃない」

「はぁ……」


 決まってるんですか。


「そもそも三ヶ月前、私が条約の改正を認めたから菜ノ花は花屋の手伝いができるようになった。その時、久秀君からは菜ノ花とこの馬鹿が取り交わした契約のことも洗いざらい聞き出してるの。ま、結果こうなるって分かってたわ」

「さすがですねぇ」

「くだらないお追従を言わないの」


 またげんこつ。

 ていうか、母との契約は祖母には言わないことになっていたはずだが? まぁ、この祖母相手に父が誤魔化しきれるわけないか……。


「そもそもあの条約は冷却期間にすぎないの。そこの馬鹿が引っかき回すから菜ノ花も意固地になってしまった。少しの間花屋から離れていれば、自然とまた家業に目が向いていたはずよ。その予定が今回で早まったのね」

「あ、結局家業は継ぐべきなんですか?」

「自分を育ててくれたお店に恩返しするのは当たり前じゃない。それはこのちんけな花屋でも変わらないわ」


 やはりこの考えが母にも刷り込まれているようだ。


「ちんけは言いすぎだ! その、何でもかんでも自分の思った通りみたいな言い方やめてよね。今回は私達なりにいろんな苦労があったんだから」


 母が口を尖らせても祖母はどこ吹く風。


「どこまでも馬鹿ね。苦労なんて全部あなたが悪いんだから。その辺りのあなたの馬鹿さ加減も含めて計算通りよ」

「ぐぬぬぬぅ」


 母は母なりの苦悩があったわけなんだし言い過ぎな気もするが、この場には祖母に意見できる人間なんていなかった。


「『商店街の虞美人草』だなんてちやほやされていた報いを自分の娘から受けているのよね。ざまぁみろっていうのはこのこと」


 と、どこまでも底意地の悪い笑み。なまじ顔が整っているから得も言われぬ凄みがある。


「あのさ、そうやって人の心えぐるのやめてくれる? ハハと話したら三時間くらい憂鬱になるんだけど」

「菜ノ花、そろそろ開店準備じゃないの? 見ててあげるからやってみせなさい」

「はい、では……」


 母の必死の抗議も平気で無視して私に命令してきた。うー、祖母に見られながらとか、緊張するってもんじゃないんだけど……。

 ひと通りの作業を終えるまで何も言わなかった祖母だが、一段落したところで大げさなため息をついた。


「まだまだね。もっと手際よくできないの? うすぼんやり」

「は、はぁ……」


 酷い言われ方をされてしまった。


「じゃあ、帰るわ。久秀君、菜ノ花を頼むわね。そこの馬鹿は余計なことしないように」

「さっさと消えちまえ!」


 母の罵声はあいかわらず祖母には届いていない様子。


「じゃあね、菜ノ花。やっぱり孫が一番かわいいわ」


 そう言って私の頭を撫でてくれるのだが、にこりともしないので本心がまるで読めない。

 さっさと祖母は帰っていった。




 昼。駅前のバーガー屋。


「は~。ついに出してもおたか~」


 縁がため息をついた後、ジュースに口を付ける。

 私は制服姿。今さっき学校まで行って『進路調査票』を出してきたところだ。先生は私の進路希望に少し驚いたようだったが、結局受け取ってくれた。


「まぁ、ね。だから縁とのバイトもできないよ。縁には悪いことばっかりだけど」

「昨日あれから考えてんけどな、うちがなのちゃんちでバイトするう手もあんねん」

「あ、それいいかも」

「でもやめとくねん。なのちゃんがお花屋さんに向いてるよおに、うちはショップで働くんが向いてるから」

「そっか、まぁそうか」

「ちょっとずつ寂しなってくんなぁ……」


 窓の外をため息交じりに眺める縁。

 そういう姿を見ると、まだ少し胸が締め付けられる。


「でもね、それでいいんだよ。それが大人になっていくってことなんだ」

「そんなんやったら、大人になんかなりたないなぁ……」

「でも、縁は縁でアパレルで働きたいんでしょ?」

「そやな。大人にならな、やりたいこと出来でけへんもんな。よしっ! うちは大人になんでっ!」


 握り拳を前に突き出す。そして無邪気な笑みをこっちに向けてくれる。


「じゃあ、私はそろそろ帰るよ」

「あんっ、その前にさよならのキ・ス」


 と口を差し出してくる。


「あれ? そういうのやめたんじゃないの?」

「なんで? あれはあれとして、うちは相変わらずなのちゃんを愛してんで?」

「なんじゃそりゃ」

「キ・ス」


 目を閉じて無防備な美形を向けてくる。

 まぁ、いっか、別に。その頬にキスをしてやる。


「あ、もぉ~、ケチィ~」


 目を開けた縁が頬を膨らます。


「バイバイ、縁。また電話するよ」

「バイバイ、なのちゃん。毎日電話するわ」


 手を振り合って別れる。




 信用金庫のある角を曲がるとそこは商店街。


「あ、こんにちは、響さん」

「こんにちは。ご機嫌ね、菜ノ花ちゃん」


 階段を降りてきた本屋の娘にあいさつする。


「森田さん、また夕方来るからね」

「おう、待ってるよ」


 いつも買っている八百屋に声をかける。


「今日は買わないからね」

「なんだよ、つれないな」

「釣れないなんて、魚屋が言っていいの?」


 魚屋の期先を制する。うまくいった。


「二郎さん、小夜さんとはうまくいってる?」

「お? 当たり前だろ?」


 酒屋の店員の尻を叩いてやる。


「はーい、義文叔父さん」

「やぁ、菜ノ花ちゃん。今さっき君好みの服が入ったよ」

「ホント? また見に行くね」


 服屋の二階にいたイケメン店員に向かって声を出す。


「あ、華崎さん、この前はセットありがとう」

「デートは楽しかった? 菜ノ花さん」

「華崎さんの言うとおりでヤバかったです」


 美容師に苦笑いを向ける。


「小泉さん、行ってらっしゃい」

「ええ、行ってきます。佐伯さんも元気になったようね」

「おかげさまで。また花持っていきます」


 荷物を抱えてビルから出てきたデザイナーとあいさつを交わす。


「みこさん、こんにちは」

「あ、菜ノ花さん」


 立ち止まって、店先を掃除していた和菓子屋の娘に話しかける。

 向こうも手を止めてこっちを向いた。


「これからよろしくね、商店街の跡継ぎ同士」

「はい、よろしくお願いします」

「君の気持ちがようやく分かってきたよ。家業を継ぐのはそんなに悪くないかも」

「『そんなに悪くないかも』、じゃないですよ?」

「そうなの?」

「『とても素晴らしい』、です」

「そこまでの境地には達してないかな」


 思わず苦笑いすると向こうは裏表のない笑顔を向けてきた。


「じゃあね」

「はい、あ、うち新製品作ったんで、一度来て下さいよ」

「この商売の鬼」


 花屋の前にはなぜか八百屋の娘がいた。この人は家業に関わっていない。


「どうしたんですか? 咲乃先輩」

「どうしたって、君がお店継ぐって聞いて様子を見にきたんじゃない」

「それはありがとうございます」


 彼女は手に赤いバラのブーケを持っていた。


「どうしたんです、そのブーケ?」

「どうしたじゃないよ。かわいい後輩の門出ぐらい祝わせてよ」


 そう言って、ブーケを渡してきた。


「おめでとう、菜ノ花。これから頑張りな」

「ありがとうございます、先輩」


 彼女が帰るところを見送っていると、いつの間にか真横にバイトがいた。


「ただいまです、千明さん」

「おかえり」


 こちらは見ずにメガネを押し上げる。

 大きな身体の店員がお客を送り出す。


「父さんにも苦労かけたね」

「それが父親の役目だ」


 にこりと笑顔。


「ほらよ。早く着替えてこい」


 店長が放ったエプロンを片手でキャッチ。


「ちょっとくらい休ませてよ、母さん」

「甘えたこと抜かしてんじゃないよ。予約が入ってるからブーケをすぐに作れ」

「はいよ」


 店の中へ入る前に顔を上げた。

 そこには『Shirley poppy』と書かれた看板が。

 そう、ここは花屋『シャレー・ポピー』。

 私の店である。


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