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六章 母との対話・三

 私はタンスからタオルを出して母に渡した。それで涙を拭きながらも母はなかなか泣き止もうしなかった。


「どうしようもないんだよ。全ての人間が分かり合えるわけじゃない。そういう人間同士がたまたま母娘だったんだよ」


 重い気分で私はそう言った。


「やっぱり私がいけなかったんだ。菜ノ花がお腹にいた時、あんたを邪魔に思った私がいけなかったんだ」


 しゃくり上げながら母が言葉をこぼす。


「それは関係ないよ。私は覚えていないんだし」

「ホントは覚えてるんだよ。無意識の中に刷り込まれてるんだ。だから私を拒絶し続ける。そうとしか思えないよ」


 そう言われても無意識の話なんて分かるわけがなかった。しかし小学生の時、私は自分から母の手伝いを言い出したのだ。もし無意識にせよわだかまりがあれば、そんな申し出はしなかったのではないだろうか? 大昔の傷を未だに背負い続けているだなんて思いたくなかった。


「そんなの関係ない。関係ないから……」

「それに、私はあんたを殴ってしまった。赤ん坊の菜ノ花に恐ろしい考えを抱いてしまって以来、絶対に暴力を振るわないって決めていたのに……。菜ノ花は私を許さないよね?」

「最初のは私が情けない人間なんだから仕方ないよ。母さんが腹を立てるのも分かる。二回目のだって私が生意気言ったからカッとなったんでしょ?」

「あんたが離れてしまうのが怖かったんだ。どうにかして引き留めたくて、それで手が出てしまった。でもそんなことしちゃいけなかったんだ。菜ノ花は決定的に私から離れてしまった。ごめんね。ごめんね、菜ノ花……」


 さらに大きく肩をひくつかせ始めた。こんなに弱々しい母は見たくなかったが、ここで全てをうやむやにしてはいけなかった。


「殴られたのは大きな問題じゃないんだ。問題なのは、私達が違いすぎる人間だっていう事実。私だって母さんを拒絶したくない。でも、自分を守る為には距離を取らないといけないんだ」

「私は強い人間なんかじゃないよ。今だってずたぼろだ」

「強すぎる母さんは自分の強さを分かってないんだよ。母さんは父さんと結婚したいからって家を飛び出して花屋を作った。私には無理だ。一人の男の人にそこまでこだわり続けられるパワーがない。一週間がかりで説得なんてできないよ」

「なんでそうやって無理なんて言うの? 人間、やってやれないことなんてないんだよ?」


 母の涙はもう止まっていた。私の言うことに苛立ったようで、眉間に皺を寄せて顔を近付けてくる。


「私だって、高校に入ってから何回か家出したことあるよね? でも長続きしなかった。母さんに引きずり戻された時もあるけど、自分から音を上げたことの方が多かったんだ」

「そうなるようにお小遣い制限してたんだしね。よそでバイトするのも禁止してたし」

「そうやって母さんの手のひらで踊るしかできない自分が不甲斐ないよ。こういう無力感は母さんには分からないはずだよ?」

「分かるわけないじゃない。ハハだってきつい人だけど、私は戦ってきたんだから。何度負けても諦めないかぎり何度でも戦えるんだ。そして私は自分の思ったとおり、服屋を出て花屋を開いた」


 胸を反らせてそう言える自信がうらやましい。私には彼女のような自信の元になるものが何もない。


「ほらやっぱり違うんだよ、私達は……」

「そんなことないよ。菜ノ花だって高校入ってからの一年、お店の手伝いからしぶとく逃亡し続けて、ついに手伝いをしなくていい権利を手にしたじゃない」

「花屋の手伝いだけは絶対に嫌だったからね、あの当時は」

「そう、やればできるんだよ、菜ノ花だって。あんたは弱い人間なんかじゃない!」


 母が私の腕を掴んで揺すってきた。

 『佐伯菜ノ花の家の手伝いに関する条約』。花屋の手伝いをしなくていいというこの条約を締結するまでの私の苦労は並大抵でなかった。

 私は花屋の手伝いを拒否し続け、母は無理矢理に手伝いを押し付けてきた。お客に迷惑をかけないようにしながら戦うのは骨が折れた。


「自分の部屋に立て籠もってると思ったら縄ばしごで脱出したこともあったね。この部屋って三階なのに」

「あれも一回しか通用しなかったけどね」

「誰だっけ? あの人妻好きの子」

「ああ、あの年増好き。名前忘れた。あれはうまくいったね。学校にいた年増好きをバイトにって仕立て上げたんだ。母さんにまとわりついて離れようとしないその隙を突いて逃亡。二週間有効だった」

「あいつはしぶとかった。この私も根負けして一日デートだよ。散々引きずり回して諦めさせたんだ」

「あれは笑えた」


 思い出し笑いをしてしまう。


「気の迷いで不倫に走ったらどうするつもりだったんだよ。挙げ句帳簿の入ったノートパソコンを盗んだんだ」

「そう、パソコン持ってお祖母さんのところに駆け込んだ。あそこからようやく停戦交渉が始まったんだ」

「ハハを巻き込むとか今思いだしても卑怯な奴だよ」


 そうでないと勝てないと悟ったのだ。祖母も厳しい人で簡単には味方になってくれなかったけど、土下座して頼み込んでようやく味方になってもらった。


「母さんだって酷い罰ばかり与えてきたじゃない。禅寺に押し込んだり」

「ホントに丸坊主にされかかったから焦ったよ。他には何したっけ?」

「覚えてないの? イケメンをバイトに雇って、私を呼び寄せようとしたでしょ? 馬鹿にしてるよ」

「あれは失敗だった。ていうか、あんたってなんでそんな男子に淡泊なの? サキちゃんは百合になりかかってるから注意しろって言ってたけど」

「あの人、親にまで言ってるのかよ。別に理由なんてないよ。ただ単に興味がないだけ」

「初恋もまだだったり?」

「まさか」

「義文は抜きだよ。小学五年くらいまで好きだったよね?」

「う……」


 なんで知ってるんだ? まぁ、あの頃はかなりベタベタと叔父さんにまとわりついてたけど。


「えっ! まさかそれ以降なしなの? あんた、ホントに大丈夫?」

「本気で心配そうな顔しないでよ。好きな俳優さんはいるし、全く興味ないわけじゃないんだから」

「へぇ、誰?」

「あの写真の人」


 と、勉強机の上に置いてある写真立てを指さす。白黒の時代劇で主役を演じている時の写真で、懐手をしながあごをさすっていた。すげぇ格好良い。


「あの人? あんな男らしい男は現代日本じゃ絶滅してるって。あんた、理想高すぎ」

「うるさいなぁ。理想なんだからいいでしょ? 好きな男子くらい、そのうちできるよ」

「まぁ、仮に好きな奴ができたとしても、私が厳しく審査するんだけどね」

「じゃあ、黙ってるし。……て、なんの話だっけ?」

「ん? ああ、そうそう。とにかくあんたはこの私相手に十分渡り合ってきたんだよ。あんたが弱い人間なんてことはないから。なんかテーブル邪魔だね」

「除ける?」


 折りたたみ式のテーブルを畳むと、母は私に近寄ってベッドに背を預けた。母が自分の隣を叩いたから私もベッドにもたれかかる。母と肩が接する。


「母さんは強すぎるんだよ。私なんかよりずっとね。結局私は傷付けられる」

「だけど弱い人間じゃないんだから、傷付けられても立ち上がることはできるはずだよ?」

「傷付けられるの前提なの?」

「仕方ないよ。誰だって傷付け合いながら生きてるんだ。私だってあんたに何度も傷付けられてるし」

「それは毎度悪かったと思ってるよ、ごめん……」


 そう、私は何度も母を傷付けている。私が拒絶すると母は傷付く。どっちにせよ、どちらかが傷付くのか?


「分かり合えないなんて言われたらそりゃ傷付くよ。そんな寂しいこと、実の娘に言われたらね」

「そうかもしれないけど、事実なんだ。分かり合えないのにそれを見ないふりするなんて嫌だよ。そんな歪な関係はすぐ駄目になる」

「別に歪でもいいじゃない。お互い心が通じ合わなくても楽しく振る舞うんだ。『菜ノ花、今日の夕飯なぁに?』『お母さんの好きな和牛ステーキですよ』『ステキ!』それでいいじゃない」

「そういうのは不誠実だよ。母さんとそういう関係にはなりたくない」

「じゃあ、どういうのがいいのさ」

「二人は分り合えない者同士だっていうのをお互いに認め合うの。そうすれば距離の取り方も分かってくるはずだよ。ああ、これ以上近付いたら菜ノ花は傷付く。これ以上離れたら母さんは傷付く。そうやっていい距離で付き合うんだ」

「そんなのしち面倒くさいよ。傷付け合いながら生きていこうよ」

「嫌だよ、そんなの……」


 膝を立ててあごを沈める。そんな私を母は見ている。


「ねぇ、そもそも私達はホントに分かり合えないのかな? 私は菜ノ花と分かり合いたいと思っている。菜ノ花はどう思ってるの?」

「そりゃ、できれば分かり合いたいよ、実の母娘なんだし。でもそんなの……」

「じゃあ、分かり合おう。まずはあんたに今までしてこなかった私の話をして聞かせた。少しは私のことを分かってくれた?」


 確かに今日聞いたのは今まで知らなかった話ばかりだった。母が何をしてきて、何を考えてきたか。そういったことを知ることができて、以前より母を身近に感じることができたような気がする。


「でも、多少知ったぐらいじゃ……」

「さらに私は努力する。菜ノ花を理解するよう努力するよ」

「そんな簡単にはいかないよ。私達は……」

「そう、最初に菜ノ花を拒絶したのは私だった。ずっとあんたを支配してきた。あんたを殴ってしまった。菜ノ花が私にわだかまりを持つのは分かる」

「支配以外のわだかまりはないよ。それに……」

「でも、あんたにほんの少しでも私と分かり合いたいって気持ちがあればそれが突破口だ。私は諦めない。私達はいつか必ず分かり合える」


 そう言うと、口の両端を上げる笑顔を見せた。

 私は言葉に詰まってしまう。

 この人は本当に強い。眩しいくらい強かった。ほんの少しでも可能性があれば前へ進むつもりだ。

 私は? 私はどうすればいいの?


「でも、私は母さんに傷付けられたくないんだよ」

「私は平気。何回あんたに傷付けられても立ち直る。菜ノ花もそれができるはずだよ?」

「嫌だよ、そんなの……」

「だから、そんなことっ……!」


 母が怒鳴り声を上げ、途中で口をつぐんだ。


「……分かった。私はあんたを傷付けない」


 頭を振ってこきこきと首を鳴らしながらそんなことを言う。


「ホントに? 今も怒鳴りかけたよね?」

「大丈夫。耐え切れる」

「絶対に無理だよ。下手に安心して近寄ると、受けるダメージも大きくなるんだから」

「大丈夫だよ。私は菜ノ花を愛してる。それは知ってるでしょ?」

「まぁ、ね」

「だったら、私は傷付けたくて傷付けるわけじゃないのも分かるはずだよ」

「そう、だけど」

「そこからはあんたの受け止め方次第だ。私の本心が分かっていれば、私の牙もやり過ごせるはず」

「難しそうだよね」

「あんたってさぁ、自分は動こうとしない人だよね?」


 こっちの額に自分のを当ててきた。


「自分の我を通すためだったら相手を平気で傷付けたり拒絶するんだよ」

「そんなことないって」

「現に何回も私を傷付けてるし、拒絶してるじゃん。私じゃなかったら酷いことになってるよ?」

「ま、まぁ、そうかもしんないけど。でも、私だって母さんに歩み寄ったじゃない。それで一時的にせよ分かり合えたんだから」

「でも自分が傷付かない範囲なんだよね」


 母が身を反らせた。


「もっと踏み込んで来いよ! 私に傷付けられるくらい、どうってことないんだよ。後でいくらでも謝ってやるよ、いくらでも慰めてやるよ。安心して傷付けられろよ!」

「無茶苦茶だよ……」


 膝に顔を埋めてしまう。


「最終的に分かり合うためなら、多少の無茶くらいどうってことないんだよ!」


 顔を上げると母は満開の笑顔をしていた。何の曇りも陰もない、ひたすら陽気な笑顔だった。


「分かったよ」


 私も覚悟を決めた。

 私だって母とは分かり合いたい。そう思って母との距離を縮めていったんだし。それは結局失敗して深く傷付けられたけど、そろそろ起き上がってまた向かっていかないといけないのだ。


「お手柔らかに頼みますよ」

「うん、あんたももっと強くなりな」


 母が起き上がって両手を広げた。私も身を起こして向かい合う。

 そして抱き合った。

 母は膨大な熱量を秘めているとは思えない華奢な身体だった。

 こんなふうに母と触れ合ったことのない私は今まで感じたことのない大きな安心感に包まれた。あるいは私達は分かり合えるかもしれない。そういう予感が胸の中に沸いてきた。こんな簡単なことでよかったのだ。こうして抱き合うだけで、私達はずっと近づくことができた。


「それで……」


 身体を離しながら母が少し気弱な声を出してきた。


「あんたさ、大学行ってからも家を出ないでここにいてくれる?」


 そう、私は高校を卒業したら家を出て、縁と二人暮らしをすると決めている。この家にいるのも半年ちょっとの予定だ。


「少し、考えさせてよ。私だけの問題じゃないし」

「うん、そうだね」


 らしくない気弱な様子のままうつむいた。

 母がそれ以上を望んでいるのは分かっていた。この問題の結論は早く付ける必要があるだろう。しかし今ここで何かを言ってしまうわけにはいかなかった。先に言うべき相手がいるのだ。

 ひと段落ついたところで脇に置いてあるペットボトルを見た。


「あ、お茶なくなっちゃったね」


 また取ってくるか。


「あの、菜ノ花」


 改まった声を出した母の方に顔を向けると、向こうはまっすぐこっちを見ていた。


「菜ノ花、あんたがお腹にいる時から今日まで、私はずっと悪い母親だった。本当に悪かったと思う。ごめん。本当にごめん」


 私から目を離さずそう言った。


「悪い親だなんて思ってないよ。恨みに思ってた時期もあるけど、今は感謝してるから」


 それは私の偽らざる思いだった。お腹にいる時から今日まで、母がどういう思いでいたのかはもう聞いていたのだから。


「……ありがとう。ありがとう、菜ノ花……」

「あー、もう。また泣くし」


 止まらない母の涙をタオルで拭いてやる。


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