表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/33

五章 母との対話・二

 母が空になっていた自分のコップに烏龍茶を注いだ。


「お店を開いたその年の内に私はあんたを身ごもった。最初からおかしなかんじがしたんだ。今まで身体の不調なんて起こしたことないのに、私の中にいるソレは私を悩ませるんだ」

「ソレって、私のことだよね?」

「そうだよ。私の中にいる私じゃないヤツ。そいつはどんどん大きくなって私を圧迫してくるんだ。でもそんな違和感なんて誰にも言えなかった。だって私は幸せな妊婦なんだから。そのうちそいつは私の中で動きだした。正直私は恐怖を感じた。ハハは怖い人だけど、そういう恐怖なんかよりずっと根っこからくる恐怖だ。早く生まれてくれって、それだけを念じていた」

「そんな話、実の娘たる本人に言っていいの?」

「別にあんたがどうこうってわけじゃない。おかしいのは私なんだ。感じなくてはいけない幸せを感じられない私がね」


 そう言って、コップの中身を一気に飲み干した。その空いたコップに私が烏龍茶を注いでやる。

 母は変な話をしている。まるで私はいらない子みたいな言い方だ。母にとって、私は招かれざる客だった?


「ようやく生まれた赤ん坊はさらに厄介だった。好きな時に泣くし、夜中だろうがミルクを与えないといけない。私って奴は、何でも自分の思い通りにやってきた。ハハはしょっちゅう私を抑え付けてきたけど、それでも四六時中ってわけじゃなかった。でも赤ん坊相手じゃそうはいかない。常に向こうの都合で行動しないといけないんだ。私にとっては耐えがたいほどの苦痛だったね」

「はぁ、ご迷惑をおかけして……」

「いいや、子供を産んだら赤ん坊中心の生活になるのは当たり前の話なんだ。みんなそうしてるし、大変ながらも充実感もあるらしい。なにしろ愛おしい自分の子供なんだからね」

「母さんは……、赤ん坊だった私を愛してなかった?」

「そう、私も疑った。でもそんなの絶対におかしかった。好きで結婚した久秀君との間に生まれた子供なんだから、愛さない方がおかしかった。やっぱり誰にも相談できないまま、私は疑いの中にいた。今胸に抱いているこの子を私は愛しているのか? って」


 居心地が悪くって仕方がない。母が言うみたいな話があり得るのだろうか? 私みたいに生意気に育った子供を嫌うなら話は分かるが、生まれたての、自分の腹を痛めて生んだ子供なのに。


「私は赤ん坊を愛さなくてはいけなかった。それが当たり前のことなんだし。だから懸命に世話をした。久秀君と分担して世話をするって話を決めていたのに、私は自分だけで世話をしようとした。でもそんなの無理な話だった。愛しているかどうかも分からない相手を愛しているふりをして育てるなんて無理があった。それで、その子が四ヶ月の時……、私は考えてはいけないことを考えてしまったんだ。その考えが頭にこびり付いて離れないのが恐ろしくて、初めてハハに助けを求めた。それから、赤ん坊はハハと久秀君で育てることになった」

「一時の気の迷いって奴でしょ? 育児疲れ……的な」

「その時はそんなふうには考えられなかった。自分は欠陥を抱えた人間なんだって思い詰めた。それで私は遠くから赤ん坊を眺めるだけの生活を送ったんだ」


 確かに私が赤ちゃんの時の写真というのは父か祖母と一緒に写っているものばかりだった。なんで母と一緒に写っている写真がないのか一度聞いてみたら、育児中は肌荒れが酷くて写真に撮られたくなかった、などとはぐらかされてしまっていた。


「ある日、ハイハイができるようになっていた菜ノ花が、テーブルで帳簿を付けていた私に近寄ってきた。久秀君を呼んでも返事がない。私はこの子に触れるのすら怖かったし、どうしていいのか分からなかった。その時、菜ノ花が私に向かって『まーまー』って言ったんだ。単に意味のない言葉を発しただけかもしれないけど、それを聞いた私はどうしてか涙が出て止まらなかった。その時初めて確信できたんだ。私はこの子を、菜ノ花を愛してるってね」


 そう言って、少し照れたような笑みをこちらに向けてきた。私も胸を撫で下ろす。どうやら私はいらない子ではなかったらしい。


「私は自分の子供の愛し方を分かっていなかった。相変わらず菜ノ花の世話はハハと久秀君がしたけど、私は自分の子供と向き合うことにした。でも駄目だねぇ、あんたは全然私になつかないんだ。小学校に上がる頃には私も普通の母親のように振る舞えるようになっていた。でもあんたはなつかないんだ」

「そうなの? 私って昔の記憶がほとんどないんだけど」

「全然。全然なつかない。私はなんとか菜ノ花の気を惹こうとするんだけど、まるで相手にしないんだ。久秀君の時もかなり手こずらされたけど、その時以上だった。第一、私は『商店街の虞美人草』だったんだから、他人に合せて何かするっていうのが苦手なんだよ」

「父さんの時は、父さんを引っ張り回したんでしょ?」

「その通り。あくまでこっちのペースに引きずり込んだ。でもあんたは取り付く島がないって奴だった。そんな中、小学四年の時にチャンスが訪れた。菜ノ花が花屋の手伝いをするって言い出したんだ」

「あれ? 私から言い出したの? 母さんが引きずり込んだんでしょ?」


 小学生の頃から花屋の手伝いはしていたが、あれは母に言いつけられてしていたはずだ。


「違うよ、あんたが言い出したんだ。『野乃屋』のみこちゃんがお店の前を掃除してるのを見て、やっぱり子供は家業を手伝わないとねって私が言ったんだよ。それを近くで聞いてた菜ノ花が、『じゃあ、私も手伝うよ』って言ってくれたんだ」

「誘導尋問くさいね」

「私にそんなつもりはなかったけどね。不意に舞い込んだこのチャンスを逃しては駄目だと思った。だから花屋の娘としての心構えをみっちり叩き込んだんだ」

「そこがおかしいよね。単に仲良くなりたいだけだったら、もっと優しくしてくれたらいいんだよ。友達と遊ぶのすら制限したじゃない」

「お店のことで手加減はしたくなかったんだよ。私なりにジレンマはあった。厳しくしすぎてあんたがまた離れてしまうのは恐怖だった。今まで他人の顔色なんて見たことがないのに、今日は厳しすぎたか、言いすぎたかって、毎夜悩んでたよ」


 あの当時は基本的に楽しく手伝いをしていたが、それなりにきつくもあったように思う。それでも母なりに気を使っていたのか。


「あんたは楽しそうに手伝いをしてくれた。いろいろと私に話しかけてくれるようになった。私はようやく全てがうまくいき始めたと思った。いつものように欲しいものを手に入れたんだって」

「でもそれで終わりじゃない」

「そう、終わりじゃなかった。全てうまくいったと思ったのに、中学の頃から菜ノ花は反抗的になってきたんだ。手伝いを休ませろだとか言ってきて。友達と泊まりがけで遊びにいくなんて許せるものじゃなかった。菜ノ花は私の手元にいないといけないんだ」

「そうやって縛り付けるのは逆効果なんだよ。そんなんだから私の心はどんどん母さんから離れていったんだ」


 私がそう言うと、母はうなだれてしまった。


「私も二人の間にまた距離ができてきたのを感じていた。でもどうしていいのか分からなかった。だから今まで以上に支配を強めることにしたんだ」

「そこが最悪な勘違いだよね。それさえなけば私達はここまでこじれなかったと思うよ。高校の部活にしても、その後の抗争も」


 ちょっと強い言い方になってしまう。やはり母の支配は一番我慢がならない部分なのだ。


「仕方ないじゃない。あんたを引き留めるのに必死だったんだ。部活なんてとんでもないよ。下手に新しい世界を知ってしまったら最後、親の元には帰ってこなくなるんだ」


 どうにも大げさに考えすぎている。それで事態を悪化させているのだ。

 咲乃先輩は過保護だから干渉してきたと言っていたけど、不安だから過保護になっていたということか。


「でも結局は条約が発効されて私は花屋の手伝いをしなくてよくなった。そうやって裏目になったのに、相変わらず支配しようとしてくるのはなんでなの? 少しは学習すべきだと思うんだけど」

「他にやりようを知らないんだよ。ずっと『商店街の虞美人草』で来たんだから、その流儀しかね。柄じゃないことして失敗すると痛々しいし」

「そうやってプライドが邪魔してる面もあるんだよ」

「分かってるけど、どうにもできないんだよ。そういう人だって知ってるでしょ?」


 上目遣いで怨みがましくこっちを見てきた。


「まぁ、知ってるけど」

「あんたの心は私から離れ、お店の手伝いもしなくなった。菜ノ花だけは私の思い通りにならないんだ。生まれる前から今日までずっと、私を悩ませ続けた」


 母が深いため息をつく。

 彼女には彼女なりの苦悩があったようだ。私は当事者で、彼女の被害に遭い続けてきたので素直に同情はできないけど。

 少し経って母が顔を上げた。


「そんな中、四月に振って沸いた話は最後のチャンスだった。菜ノ花をお店に引っ張り込むね」

「頭ごなしに花屋を継がせようなんて、相変わらずやり方が最悪だったけどね」


 空になっている母のコップに烏龍茶を注いでやる。


「例によってあんたは反抗した。私のことを嫌いだなんて酷いことを言ってきたし。菜ノ花に好かれてる自信がないのにあんなことを言われたら泣きたくもなるよ」

「まぁ、あれは言いすぎたよ。謝ったじゃない」

「久秀君の提案は後から思い返して渡りに船だって気付いた。どうあれ菜ノ花はお店の手伝いを始めたんだからね。後はこっち側に引きずり込むだけだった」

「そのくせ変なTシャツだとかネコ耳だとか、碌でもないことばっかり仕掛けてきたじゃない」

「単なる照れ隠しじゃない」

「そんな一言で済まして欲しくないけどね」


 商店街中に恥を晒したのだ。


「ともあれ菜ノ花はなかなかやる気を見せなかった。私の中の焦りは大きくなる一方だった。このまま三ヶ月が終わるんじゃないかって不安を常に抱えていた。サキちゃんを使って探りを入れて、どうにか心境の変化があるらしいと知った時はうれしくて仕方なかったよ。あいつは何考えてるか分からない奴だからあんたを説得しきれなかったけど」


 今となっては懐かしく思い出される時期だった。あの頃の私はごく単純に母に反発していた。今みたいに二人の関係を絶望的に考えてはいなかった。


「菊池さんが菜ノ花の作ったブーケが欲しいって言ってきたのは天が与えてくれたチャンスだと思った。イチかバチかの賭けだけど、この賭けに勝ちさえすればあんたをこっち側に引き寄せられるはずだったんだ。あるいは菊池さんは全て見通してあんな無理を言ってきたのかもしれないね」


 確かにあれで私は花屋の仕事を自分のものだと思えるようになった。


「私は賭けに勝った。あんたは目を輝かせて仕事をするようになった。相変わらずやる気のない素振りを見せるけど、このままいけば大丈夫なはずだって不安は和らいだ」


 そうやって母に見抜かれているとは感じていた。だからと言って下手な態度は取ればすぐにでも花屋を継がされかねなかったので、じっくり考える時間が欲しかった私はやる気のない態度を取り続けたのだけど。


「いつまで経っても素直にならないから不安に駆られる時もあったけど、大丈夫だ大丈夫だって自分に言い聞かせていた。そんなある日、菜ノ花は自分の意志でお客さんの花を救おうとしたんだ」


 銀子さんの話だ。あの時、私はすでに花屋の仕事にやり甲斐を見出していた。そして母の助けを借りてでも仕事をやり遂げようとした。


「あの夜、二人で過ごした時間は私にとってかけがえのないものになった。人生の中には胸に刻み込まれて絶対に消えない出来事っていうのがあるんだ。あの時間がそうだった」


 そう言うと、幸せそうに微笑んだ。


「これで大丈夫だと思った。やっぱり私の気持ちは何も言わなくてもこの子に届いてたんだって確信できたんだ」

「そんなわけないじゃない。あの時も和牛ステーキを奢れだとか台無しにすること言ったし。母さんの場合は言葉で伝えてくれないと分からないんだよ」

「後になってそう言われた時には戸惑ったよ。でもなんとか頑張って私達は言葉で気持ちを伝え合った。あの時、二人は確かに心が通じ合ったはずだよ。あんたを妊娠して以来、初めて私達は本当の意味でつながれたんだ。私がずっと抱えていた不安は過去のもの。もう何の心配もいらない。そのはずだったんだ」


 そう、あの数日は幸せな日々だった。


「でも私は失敗した」

「あれはたいした問題じゃなかった。誰だって失敗はするんだし、私なりに励ました。でも私が励ませば励ますほど、あんたは泣きじゃくるんだ」


 あの時私は責められているように感じてしまった。どこまでも強い母の言葉は弱っている私には届かなかったのだ。


「あれで私は母さんの強さを、私の弱さを思い知らされた。そして、分かり合えたなんて幻想だって気付いたんだよ」


 暗い気持ちでそう言うしかなかった。


「私は未だにあんたが言うことの意味が分からないよ。私達はホントに分かり合えないの? そんなことないよね? 菜ノ花だって優しい言葉をかけてくれたじゃない。笑顔を向けてくれたじゃない……」


 母は大粒の涙をこぼしていた。やがて声を出して泣き始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ