三章 敬愛する先輩の全てを知りたいと思うのは当然のことだ。
咲乃先輩が現われた。
身長百六十五センチ、体重四十五キロ、バスト八十五のDカップ、ウエスト五十八、ヒップ八十四、靴のサイズ二十三・五センチ。
セミロングの黒髪は癖のない完璧なストレート。その前髪は眉を隠す長さで切り揃えてある。切れ長の目にすっと伸びた鼻筋。少し大きめの口が彼女の印象を強いものとしていた。
そのままグラビアアイドルで通用する彼女は、藍色のジーンズにラウンドネックの黄色い長袖シャツというラフな格好で優雅に近付いてくる。
私も似たような格好なのだがその差は歴然だ。高校時代、美少女ランキングで三年連続ブッチギリの一位を取った人は違うというところか。
立ち上がって咲乃先輩を迎え、あいさつを交わした後シートに座る。
咲乃先輩はポテトをラージサイズにしたバーガーのセットを持ってきていた。食べる時はガッツリ食べる人なのに、このスタイルなのだ。もうね。
ちなみに何故私が先輩のスリーサイズまで把握しているかと言えば、無理矢理に頼み込んで測ったからだ。忠実な後輩として、敬愛する先輩の全てを知りたいと思うのは当然のことである。
森田咲乃先輩は商店街にある八百屋『八百森』の一人娘。
小さな頃から当然知り合いなのだが、小学生の辺りから彼女は私の憧れの対象となった。
と、言っても縁的なアレでは断じてない。
男子を平気で殴り、先生ですら平気で泣かせる彼女は、他人を歯牙にもかけない輝きを持つ太陽なのだ。
私はこの二才年上の太陽に惹き付けられ、最後は高校まで追いかけていった。そして咲乃先輩が大学二年生になった今でも、高校時代と変わらず忠実な後輩をやっている。
「咲乃先輩、酷いですよ」
まずは抗議から始める。
「いきなりだね。どの件?」
「『進路調査票』ですよ。なんで母にチクったんですか?」
「遅かれ早かれじゃない。しかも遅れれば遅れるほど文香の姐御の仕打ちは苛烈になるんだよ?」
「まぁ、そうですけど……」
唇を突き出してむくれてみせる。
しかし咲乃先輩はどこ吹く風でレモンティに口を付けた。
「つまり、菜ノ花は私に感謝すべきなんだよ。傷は浅かったでしょ?」
「いきなり致命傷ですよ。花屋を継げとか言ってきたんですから」
「言ってきただけでしょ? 大分手緩いじゃない。姐御がへそを曲げて本気出せば、即日決裁で『ポピー』継ぐことになってるよ。やっぱり先に知らせといたのは正解だったんだって」
「そうなんですかねぇ……。どっちみち、これから力任せに押し付けてきますよ、あの女」
ギリリと奥歯を噛む私。
「母親をあの女呼ばわりしない」
人差し指を軽く立てて苦笑する先輩。そうしたちょっとした仕草がいちいち絵になる人である。
「あーあ、親御さんの理解のある先輩がうらやましいですよ」
「まぁそうかも。うちの親には感謝してるよ。小さな頃から絶対に八百屋を手伝わせようとはしなかったからね。私も性に合わないから手伝えないんだけど」
「まぁ、咲乃先輩は人に頭を下げられない人ですからねぇ」
「それもあるけど、売る前の野菜って生々しいかんじしない? なんかそういうのに気後れしちゃうんだよね」
眉間に少し皺を寄せて首を傾げる。ああ、写メしてぇ。
「その程度じゃ、うちの母は絶対に許さないですよ」
「だろねぇ。この商店街に生まれた子供は全員選択を迫られる。家業とどう向き合うか? 『野乃屋』のみこちゃんは小さい時からお店を継ぐのを当たり前だと思ってる。私は最初から関わる気がない。菜ノ花は?」
「私も関わりたくないんですよ。母が押し付けてくるだけで……」
「そうなのかな? 小学、中学の頃は活き活きとして手伝ってたじゃない。あのときの菜ノ花は輝いてたと思うけど」
「親に洗脳されてたんですよ。あれにしたって、学校の友達はみんな仲良く遊んでるのに私は加われなかったり、結構つらかったんですから」
みんな優しいから仲間はずれにはしなかった。でもどうしたって話には加われないのだ。
思えば、私の変な愛想のよさはああいう経験が元になっているのかもしれない。
みんなに調子を合わせていないと浮いてしまう。浮いてしまっては終わりだ。独りぼっちだ。そんな恐怖感があったような気がする。
実際はそんなことはなく、みんなは仲良くしてくれたし、縁の奴はいつも付きまとってきた。私は一人で勝手に閉塞感を抱えていたのだ。
それもこれも母に押し付けられた花屋の手伝いのせいに違いない。
「そうなのかな? それにしてはいい汗かいてるふうだったけど」
「私、変に愛想が良いですからねぇ。そう見えるんですよ」
「まぁ、学校は難しいよね。私も苦手だったけど。でも、橘君もいたんだし、そんなにつらくはなかったんじゃない? ごくたまにつらく感じたのが、変なかんじで印象に残ってるんだよ」
「そうとは思えませんがねぇ。とにかく、花屋は嫌いなんですよ。何としてでも花屋を継ぐなんて悪夢は回避せねばならんのです」
「あの文香の姐御に歯向かって? 無理っぽいなぁ」
「正直勝算はありません。なんかいいアイデアないですかね、先輩」
「ないね」
ガックリだ。
敵を作りやすい超絶美人たる彼女が今日まで生き延びてこれたのは、目の前に現われた敵を必ず殲滅してきたからだ。
他人の精神を容赦なく攻撃できるのが彼女の強み。その直撃を受ける縁は毎回ガン泣きだ。
あの母親をガン泣きさせることは無理にしても、怯ませて妥協を引き出すことは可能なのではないか?
しかしよくよく考えれば咲乃先輩は母に心酔している。むしろ向こうの味方、私の敵なのでは? そう気付いて戦慄する。
「ああ、今何考えてるか分かったよ。でも安心して、菜ノ花は私にとってかわいい後輩だから」
「咲乃先輩!」
思わずその手を握る。絹のようにスベスベしていた。
「何か使えそうなネタはないの? どうしてもやりたいことがあるとか」
「いえ、それが何にもないんですよ……。縁ですら夢があるっていうのに……」
思わずうなだれてしまう。
さっき、自分の夢を語った縁は活き活きとしていた。そういう姿を眩しく思う。
「ちなみに橘君の夢って何?」
先輩に聞かれたのでさっき縁が言っていたことをそのまま伝える。
「なるほど、被服の学科か。それは使えるじゃない」
「そうなんですか?」
「文香の姐御って、服屋さんの娘だったのに家を飛び出してるでしょ? その負い目は今でもあるはずだから、そこを突くんだよ」
その服屋というのも商店街にあるのだが、確かに母はそこを出て花屋を開いていた。別に絶縁したわけでもないのに、すぐそばにある実家に母は滅多に顔を出さない。
確かに実家、服屋は母のウイークポイントに違いなかった。今初めて気付いた。
「それプラス、菜ノ花にも服屋さんの血が流れてるって設定にしとけばいいよ。ホントは服飾の仕事がしたいのに、姐御が勝手に家を出たから自分は天職に就けないんだ、って」
「えぐりますね」
「容赦なくね」
意地悪げな笑みを浮かべる咲乃先輩。
何かやらかす時には容赦なし。高校でもその名を轟かせていた暴君は未だ健在だ。味方でよかった……。
「そうやって揺さぶっておいて最終手段発動だね。『赤木』の店主の助けを借りるんだよ」
咲乃先輩の言う『赤木』の店主とは母の母、つまり私の祖母である。服屋『洋服の赤木』の店主をしているからこう呼ばれていた。
去年、店の手伝いを永久にしなくていいという妥協を母から引き出せたのはひとえに祖母の力だった。
祖母もまた、強い人なのだ。
「なるほど……。祖母は祖母で怖いですが、背に腹は変えられません。祖母に命令してもらって、店を継がせるなどという世迷い言を引っ込ませるんですね」
「単に『赤木』の店主に命令させただけじゃ、あの姐御は言うこと聞かないけどね。菜ノ花が揺さぶっとけばさすがの姐御も譲歩してくるよ。ここで禍根を残さないように姐御を納得させないといけないんだけど……」
「あの人が簡単に納得しますかね? 条約ですら今回反故にする気なんですよ?」
「何か勝負したらいいんだよ」
「勝負?」
「恨みっこなしの勝負。それに勝利したら二度と跡継ぎの話は出さないってかんじで。男らしい姐御だから、勝負事でした約束は守るはずだよ」
「どんな勝負がいいですかね?」
「何なら勝てそう?」
腕相撲?
無理だ。向こうは毎日重い鉢物やらを運んで鍛えてある。
駆けっこ?
駄目だ。運動系は勝てる気がしない。
ゲーム?
駄目だ……。正月の時に完膚なきまでに叩き潰されたではないか……。
「ないですね……」
「だろうね。勝てない勝負に勝ってこそ、妥協を引き出せるんだけどねぇ。後、相手の土俵で戦うのも効果が高いよ」
「相手の土俵って、花屋の仕事ですか?」
「そうそう。どっちが多くお花を売れるか、とか」
「ますます無理ですよ……」
ぐったりとテーブルに突っ伏してしまう。
「まぁ、じっくり考えなよ。『赤木』の店主立ち会いの勝負に勝利したら、菜ノ花の思い通りの未来が拓けるよ」
「うん、そうですね。頑張りまっす!」
「……と、ここまでは菜ノ花の味方としての発言なんだけど、次に文香の姐御の味方としての発言があるんだよ」
ニヤニヤ笑いながら変なことを言い出した。
なんか話がうますぎると思ったよ。
「あなた、どっちの味方なんですか?」
「文香の姐御は尊敬する先達。菜ノ花はかわいい後輩なんだよ」
尊敬する先達とは、かつて母が『商店街の虞美人草』と呼ばれていた時代のことを指しているのだろう。
現在、商店街で一、二を争う美人として知られる咲乃先輩には、商店街の若い衆で構成される親衛隊がいた。
親衛隊と言っても大したことはしていない。隊則によって個別にちょっかいを出すことを禁じられている彼らは、単に無害なファンの集まりだ。
この自縄自縛な親衛隊があるおかげで、咲乃先輩は商店街の男達にまとわりつかれるというウザい事態を回避していた。
このシステムを完成させたのが、『商店街の虞美人草』時代の母だと言われている。
最初のうち、商店街一の美人たる母に商店街中の男達が群がって、かなりウザいことになっていた。そんな彼等を親衛隊としてまとめ上げ、でっち上げた隊則で管理下に置いたのが、誰あろう母自身だったのだ。
それを知った咲乃先輩は以後母に心酔するように。
共に気が強いし、敵は容赦なく陥れる。馬が合うというのも多分にあるのだろう……。
「文香の姐御は菜ノ花の将来を本気で心配してるんだよ。何もしたいことがなくてフラフラしてるんだから当然だよね」
「うっ!」
「本人にはやることがない。かと言って恋愛にも縁遠くて養ってくれる男を見付け出すのも難しそうだ。だったらせめて自分だけは菜ノ花を大事にしていきたい、そういう親心なんだよ」
「散々な言いようですね」
「菜ノ花って自分のこと、好き?」
「え?」
不意を突かれた。
そしてその言葉は私の心に深く突き刺さった。
そう、私は自分が好きではない。
見た目もそうだし、変に愛想が良い性格も好きではない。やりたいことが何もないという主体性のなさも。
本当のところ、養ってもらってるくせに家業を嫌っている自分も嫌いだ。
縁は愛か友情かはよく分からないが、とにかく無条件に私を好いてくれる。
でもそんな資格が私にはあるのかな? そんなことを考えるのはしょっちゅうだった。
「『ポピー』で働きなよ。嫌々じゃなくて本気でね。そうやっていい汗かけば自分に自信が持てるようになるし、自分を好きにもなれるよ?」
そうなのか? 花屋で働けば嫌いな自分を変えられる?
「単に友達と遊びたいからってだけで大学行っても、菜ノ花は自分の枠を越えられないよ? 自分を変えたければ、もっと充実した日々を求めなきゃ」
「うーん」
「幸いにして、文香の姐御はああ見えて菜ノ花の一番の理解者だから。『ポピー』で鍛えてもらえば、本当の自分を見付けられるよ」
「うーん」
「今がチャンスなんだよ? 姐御の愛想が尽きたらもう終わりだよ? 私は菜ノ花のいい先輩だけど、せいぜいアドバイスするだけなんだから。こういう時、ホントに頼りになるのは誰か? よく考えな」
「うーん」
あの母が私の一番の理解者?
母の愛想が尽きたらもう終わり?
私は何か思い違いをしていたのかもしれない……?
「あっ!」
ここで気付いた。
「今の先輩って母の方の味方なんですよね、忘れてましたけど」
「まぁ、そうだよ。今朝電話があって、菜ノ花がごねてるから説得してくれって言われたの」
いけしゃあしゃあと言ってのけた。
「じゃあ、今言ってたのは全部出任せなんですか?」
「そうじゃないよ。今言ったのは大抵ホント。ただ、姐御に都合のいい部分だけを言っただけ」
「嘘はついてないけど真実でもないってことですよね?」
「結果的に菜ノ花の為になれば、多少の騙しくらいどうってことないない!」
などと言ってウインクをした。
クソッ、滅茶苦茶かわいい。
「やっぱり騙しじゃないですか。真面目に聞いて損しましたよ」
「でも嘘は一つしかついてないよ。後は全部ホント」
「どれが嘘なんですか?」
「文香の姐御が菜ノ花の一番の理解者だってとこ」
「一番重要なとこじゃないですか!」
思わず身を乗り出してしまう。その分咲乃先輩が仰け反る。
「ドウドウ、落ち着け落ち着け。でもね、菜ノ花のことを真剣に考えてるのはホントだよ」
「でも理解はしてないんですね」
「理解はしてないんだよ」
「それで自分のやり方を押し付けてくるんですね」
「押し付けてくるんだよ」
「全然駄目じゃないですか!」
頭を抱えてしまう。
結局、あの母は自分のやりたいようにやって、私を悩ませ続けるのだ。
「姐御は不器用なんだよ」
「いや、単に自分の思い通りにならない私を支配下に置きたいだけですよ」
「そういう側面もあるかもねぇ……」
「はぁ……、先輩、やっぱり花屋は継ぎませんよ。私は縁と一緒の大学行って面白おかしく生きますよ」
「あら、失敗しちゃった?」
「失敗ですね。でも、私の味方してくれた時のアドバイスは生かさせてもらいますよ」
「まぁ、最終的に菜ノ花が納得できたらどんな進路でもいいんだけどねぇ、私の立場的には」
「ありがとうございました。なんとか頑張りますよ」
ぐったりとテーブルの上に伏せってしまう。
「あ、もうこんな時間だ、彼氏待たしてるよ。じゃ、頑張りな」
そう言うと、私の肩を二、三度叩いてさっさと行ってしまった。
あの人も読めないなぁ……。