四章 母との対話・一
我が家では家族揃って夕食を摂るのが慣わしとなっている。それは今のように母と私が対立していようが変わらなかった。
母と目を合わせないようにしながら箸を動かしていると、父が大きなため息をついた。
顔を上げると父がこちらを見下ろしている。
「菜ノ花、食事の後に母さんから話がある」
「えっ!」
声を上げたのは母だった。
「そんな話聞いてないんだけど!」
「駄目だ。文香さんからしないといけない話があるはずだ」
「こいつにしてやる話なんてないよ」
「私だってこの人と話なんてしたくないよ」
「駄目だ」
父がかつてない威圧感で私達を圧迫してきた。
「でも私の方から折れるなんて絶対嫌だよ。こいつが素直に屈服したらいいだけの話なんだから」
「私は屈服なんてしないし、この人に近付く気はないんだ。今くらいの距離でちょうどいいんだよ」
「本当に今のままでいいと思っているのか、二人とも。ずっと今みたいな状態を続けてそれで幸せと言えるのか?」
幸せ。千明さんに言われて気付いたが、母を避け続けるのは精神的につらいものがあった。今みたいな状態をこの先もずっと続けるとそのうちおかしくなってしまうかもしれない。だからって、今の母と話し合って何か得るところなんてあるのだろうか? 母は相変わらず私を支配する気でいるのだろうし、私は母に近付きたくない。私の望む距離で和解するのは自分でも分かっているが難しい話だ。明日から仲良くやっていこう。でも距離は取り合おうね。そんなことが可能なのだろうか? 正直、全く分からなかった。
「二人とも望んでいる関係があるんだろう。しかしお互い歩み寄る必要があるんじゃないか? そうやって二人が納得する関係に落ち着くことはできると俺は思っている」
「なんで私が妥協しなくちゃいけないのさ」
「文香さん!」
「はいっ!」
怒鳴りつけられて母が背筋を伸ばした。私も反射的に姿勢を正す。
「自分の本心がどこにあるか、本当に望んでいることは何か、それを知っているはずだ」
母が黙り込んだ。
私も自分のこととして考えた。私が本当に望んでいること。四月以前を含めて母との関係は自分が望んでいるような姿ではなかったように思う。母と分かり合えたと思った数日。あの数日が私の人生の中で一番幸せな時だったような気がする。でも、あれは結局幻想だったのだ。私と母の間に幸福な関係なんてあり得ない。そう思うと暗い気持ちに沈んでしまう。
「分かったよ」
母がそう言って私の方を向いた。私も母を見る。こうして目が合うだけで数日ぶりだ。母はしっかりとした視線を私に向けていた。そこには一切の迷いを感じなかった。
「この後あんたの部屋に行くから待ってろ」
「……分かった」
今から行なわれる話し合い。それで何がどうなるのかなんて分からない。でも、今までの人生の中で最も重要な時間になるという予感がした。
今から母が来る。とりあえず掃除でもしといた方がいいのだろうか? いや、たかが母相手にそんな準備をするのもおかしい気がする。さっきから部屋の中をうろうろしている自分に気付いた。
父が勝手にセッティングした話し合いだが、これはいいきっかけに違いなかった。今の異常な状態はなんとかしないといけないはずなのだ。事ここに至ったからには前向きにこの機会を生かすべきだった。
「開けて」
扉の向こうから声がしたので覚悟を固めて開けると、一リットルのペットボトルとコップをお盆に載せた母が突っ立っていた。
「入っていいよ」
「ここは私の家だ」
テーブルを挟んで向かい合い、まずはそれぞれが自分のコップに烏龍茶を注いだ。
沈黙。
うなじを掻いたり落ち着かない様子の母。私だって自分の部屋なのにずっと居心地が悪い。
向こうの様子をうかがっていると目が合ってしまった。お互い慌てて逸らす。
こんな調子でやっていても時間の浪費だ。それは分かっていたが、こっちから話を切り出すのは気が進まない。
壁に掛った時計の秒針の音がやたらと大きく聞こえる。
深いため息の後、ようやく母が口を開いた。
「今から三十六年前のことだけど」
「え? そんな昔の話から?」
いきなり不意をつかれた。
「順番に話してくんだよ。とにかく三十六年前、ここ『上葛城商店街』ができた年。それは『洋服の赤木』ができた年でもある。それは知ってるね?」
「まだ生まれてないけどね」
「当時私は小学四年だった。生まれた神戸から引っ越すことになって私は大いに不満だったのを覚えてるよ」
「そういえば神戸出身って言ってたね」
「山の手にある、今思えばなかなかの高級住宅地だったよ。それがホントになんにもないド田舎に移り住むことになったんだから、気に入らないのも当然だよね」
その時の気分を思い出したのか顔をしかめた。
「とにかく素人がいきなりお店を開くんだから大変だった。私も駆り出されたし」
「ちょっと待ってよ! そうやって店の手伝いさせられる苦労を知ってて私にも強要してきたの?」
「そうだよ。結果的に私は服屋の仕事が気に入ったし、あんたもそうなるって思ったんだよ」
「そんな都合よくはいかなかったけどね」
「家がお店をやってたらその手伝いをするのは当然だって考えは、この時の経験があったからなわけだ。そうやって過去は今につながってくるんだよ。恨むんなら私をそう仕込んだあんたのお祖母さんを恨みな」
とんでもない責任転嫁をしてきやがった。
服屋の娘として過ごしてきた母の経験がそのまま私への態度に反映されるにしても、だったらだったで過去の反省を生かして私への待遇が改善されてもよさそうなものだ。
「結局服屋を軌道に乗せるまでには何年もかかった。そしてその頃になると私は『商店街の虞美人草』としての名を不動のものにしてたね」
「自慢話ですか。何才くらい?」
「あれは本屋の奴が言い出したんだよね。元ネタの小説は読んだことないけど。中学一年の頃か」
「早っ!」
「単に美人なだけじゃなく、気が強くて謀略好きってので目立ってたからね、私」
ああ、自分のことを美人と言いますか。この自信がうらやましい。
「高校に入るくらいには私目当ての男どもが服屋に群がるありさまだった。そうやって私を餌にしやがったんだよ、あのハハは」
「やりかねないね、あのお祖母さんなら」
「それがあまりにもウザいから、親衛隊を作らせて商店街の若い衆を丸ごと管理下に置いたんだ。外から来るしつこい男を追い払わせたりいろいろ便利に使えたよ」
そしてその伝統は今でも引き継がれてるわけだ。
「とにかく私は何でも自分の思いのままにできた。その気になれば欲しいものを男どもに貢がせることもできた。あんまり高いのは買わせなかったけど」
「女王様だ」
「かもね。そんな時出会ったのが久秀君なんだよ」
「どこで出会ったの?」
確か父の方が六歳上だったはずだ。学校の知り合いではない。
「花屋。大学の近くにあったんだよ」
「ああ、そこで花屋が出てくるんだ」
「そう。何度か話をしているうちに気に入って、向こうから交際を申し込むように仕組んでいったんだ」
「ちょっと待って。自分の方が好きになったのに、向こうに告白させるの?」
「私は『虞美人草』なんだよ? 自分から告白なんてみっともなくてできるわけないよ。と、当時の私は考えたわけだ」
「はぁ」
歪んでるなぁ、当時の母。
「でも久秀君はちっとも乗ってこなかった。そうなったらこっちも意地だよ。あの手この手で私を意識するように仕向けた」
「面倒臭い人だね」
「でもやっぱり駄目だったんだ。私は意地になって、腹が立って、それから焦ってきた。最後には不安になった。自分にかしずかない男なんているわけないって思ってたのに、その自信が揺らいだんだよ。で、私の方が折れて自分から告白したんだ」
「それで付き合うようになったと」
「ううん、私を振りやがったんだ、久秀君」
「いけ好かない女だから気に入らなかったんだ?」
「自分の母親のこと悪く言うよね」
実際そんなかんじだ。女子からは嫌われていたに違いなかった。
「久秀君がなびかないのには理由があったんだ。他に好きな女の人がいたんだよ」
「へぇ」
堅物なようでちゃんと恋をしていたのか、これは意外だった。
「久秀君が働いてた花屋の店長。それが好きな人」
「どんな人?」
「ちょっとだけ美人。ていうか、その辺はたいした問題じゃなかった。その店長はとっくに結婚してたんだよ」
「ん? それって、最初から終わってない?」
「そうだよね。なのに当時の久秀君はしぶとく恋心を抱き続けた」
「へぇ」
意外に情熱があるんだ。でも不毛だよな。
「私は久秀君の恋心を挫くためにありとあらゆる手を使った。店長にもとっくにバレてたから裏で助けてもらったりもしたよ。でも駄目だった。私は『虞美人草』のはずなのに、男一人振り向かせることができないんだ。プライドズタズタ」
「プライド高そうだよね」
「自分の寄って立つところが崩れた時の人間てのは悲惨だからね。しかもやさぐれたりすると嫌われちゃうから体面だけは保ち続けないといけないんだ。一時期は文字通り毎晩泣いて過ごしたよ」
「いい加減諦めなよ」
「諦めたらあんたが生まれてこなくなるんだけどね。つまり私は諦めなかった。そして花屋を先に開いて久秀君を引っ張り込む手を思い付いたんだよ」
「花屋を先に開いて? 結婚して二人で花屋を作ったんじゃないの?」
母がしたプロポーズに花屋が関わっているという話は聞いていた。結婚して二人で花屋をやろうっていうプロポーズをしたのだと思っていたのだが。
「違うよ。先に私一人で花屋を開いたんだ。そうやって花屋を開いておきながら、バイトも雇わないし運転資金もカツカツ、私一人じゃどうにもならない状態にしておいたわけ。そしてプロポーズ。今すぐ結婚して花屋を一緒にやらないと、私は路頭に迷うんだぞって言ったんだ」
「それって脅迫だよね。滅茶苦茶だよ」
人生レベルのことでもここまでタチが悪いのか。それでうまくいかなかったらどうするつもりだったんだよ。あまりにも一か八かすぎる。
「なんでさ、結果的にうまくいったんだから、何の問題もないじゃない。久秀君は店長も好きだけど花屋の仕事も好きだったんだ。自分でも花屋をやりたいって気持ちが少しだけあったからそこを突破口にしたの。我ながらうまくいったよ」
確かに結果オーライだが、つまり父は別に母が好きだったわけじゃない?
「父さんは最後までその店長さんが好きなままだったんじゃないの?」
「そんなんで結婚するわけないじゃん。久秀君にしても自分の恋の不毛を知ってたよ。ただ、あまりに長い間横恋慕をこじらせてたから自分でもどうしようもなくなってたんだよね。そこをどうにか諦めさせて私を受け入れさせたんだ。諦めきる決心を付けさせるためのプロポーズは今思い返しても壮絶だったよ。一週間久秀君ちに泊まり込んで正面から説得し続けたんだからね。できたての花屋をいきなり一週間も休ませたんだから後からが大変だった。でも、久秀君と並んでお店を再開させた時の晴れがましい気持ちったらなかったね」
「あのさ、確か母さんってどうしても花屋がやりたいからって、お祖母さんに二千万円払って服屋を飛び出したんだよね?」
「そうだよ」
「その、『どうしても』が父さんを口説くことだったの?」
「そうだよ」
すげぇ、この人すげぇわ。いくら好きだからってそこまでするのかよ。
「まぁ、結果オーライか」
「そうだよ。私も久秀君を追いかけて同じ花屋でバイトして、やっぱり花屋の仕事が好きになったんだ。それで今があるんだから、結果オーライ」
ああ、花屋にまで押しかけたんだ。それって店内で三角関係が繰り広げられてたってことだよね? なんか居づらそうな花屋だな。
「あ、私はその店長も好きだったから。普通にいい人だったし。まぁ、そうやって私は自分の欲しいものを手に入れたんだよ」
「そんな経緯がねぇ。やっぱり母さんは何でもできる人なんだ」
時間がかかったものの、父さんを振り向かせることができたのだ。私にはここまでの馬力はない。やっぱり私達は違いすぎる二人だ。
「ここからが問題なんだ。確かに私はやりたいようにやってきたし、欲しいものは必ず手に入れてきた。でも、どうしても思い通りにならないものが現われたんだ」
「何それ?」
「あんただよ、菜ノ花」
テーブルに両肘をついていた母が私を指さした。




