三章 誰にだって隠しておきたい趣味の一つくらいはあるよねっ。
レストランでのデートの翌日。私は縁の家に行った。
縁のお母さんは純日本人といった顔立ちだが、口元が縁とよく似ている。物腰の柔からかな穏やかな人で、いつも通り私を歓迎してくれた。
リビングにあるやたら大きいテレビで映画を観る。
縁の奴が持ってきたのは、よりにもよって女同士のガチの同性愛がテーマの映画だった。ベッドシーンまである本格的な奴だ。
映画自体は確かに心を揺さぶる内容だったが、縁は尋常でないくらいの涙を流して泣き通した。
「あんたさ、ホントにガチ百合じゃないんだよね?」
「え? 当たり前やん」
泣き終わった縁はけろりとして言った。なんか一抹の不安を残しやがるな、こいつ。もういいや、これはこれでいつも通りだし。
この後、縁の部屋でぐだぐたして過ごした。あまりにぐたぐたしすぎたせいで帰るのが遅くなってしまう。やばいやばい。
花屋を手伝わなくなった今、『佐伯菜ノ花の家の手伝いに関する条約』によって私は家事をしなくてはいけなかった。
駆け足で花屋の中に入ると商品の手入れをしていた母と目が合ってしまう。母とはまだ気まずいままだ。
「こんな時間にお帰りとは結構なご身分で」
いきなり攻撃してくる。
最近は碌に口も利いていなかったのでこれは少し意外だった。まぁ、元々が強い人なんだし、いつまでもうじうじと避け合ってる状態なのは我慢がならないのかもしれない。そして今までどおり、力で支配してくるつもりに違いなかった。
とはいえ、今は私の方が悪い。
「悪かったよ、すぐにご飯作るから」
「もう久秀君がしてくれたよ。どこほっつき歩いてたのさ」
「別にどこでもいいでしょ?」
二人が分かり合えたと思ったのは幻想だったのだ。今となっては不用意に母に近寄るわけにはいかなかった。
家の中に入ろうとしたら母が遮ってきた。
「あんたがお店手伝わないからって、私は相変わらずあんたの母親なんだから」
「それは分かってるけど、いつまでも私を束縛しないで」
母が睨んできたが私も睨み返す。
「みっともなく泣き喚いた弱虫のくせに言うことはいっぱしだ」
「自分だって私に二回も泣かされてるくせに」
「あんたなんかには一度も泣かされてません~」
「また泣かすよ」
「こっちこそ泣かしてやる」
睨み合ううち、いい加減うんざりしてきた。
「ねぇ、母さん。私に干渉するのはホントにやめて。私達は分かり合えない母娘なんだから、お互い近寄らない方がいいんだよ。今回のことでそれがよく分かったんだ」
「なんでそんな酷いことが言えるんだよ。私はあんたの母親だ。あんたがいくら逆らおうが私の支配を脱することなんてできない」
両手を腰に当てて言い切った。
本当にどうしようもない。私達母娘は違いすぎるのに母はそれを認めずに不毛な圧力をかけてくる。
そんな圧力になんの意味もなかった。傷付きたくない私は母を受け入れるわけにはいかず、ただ反発するしかないのだ。
「いい加減にして! 私は母さんの所有物じゃないんだ!」
「生意気言うな! あんたは私の娘なんだ! 黙って私に従ってればいいんだよ!」
「どいてよ! あんたと話すことなんて何もないんだ!」
母を押し退けて脇を通ろうとしたら胸倉を掴まれた。視界がブレる。
「また殴ったね!」
頬にじわりと広がる痛みをこらえながら母を睨み付ける。彼女の表情は怒りよりも戸惑いの方が多く混じっているように見えた。
「生意気言うあんたが悪いんじゃない……」
手を離した母が一歩後ろに下がる。
「殴りたかったら好きなだけ殴ればいいよ。でも干渉してくるのはもうやめて!」
「まだそんな生意気言うのかよ! もういいっ! 好きにしろ! 好きにすればいいっ!」
「最初からそのつもりだよ!」
怒鳴るだけ怒鳴って家の中に飛び込んだ。
この先、母は私に干渉してこなくなった。
思えば四月以前の私達も対立していたが、その時にはなんだかんだで話だけはしていた。大抵いがみ合いだったが。
でも今はそのいがみ合いさえしなくなった。それが健全な状態ではないと分かっていたが、私は自分の態度を変える気にはなれなかった。母との対話はもう不可能なのだ。
数日経って、受験勉強のための参考書を買いに『小村書房』まで行った。
参考書を何冊か選んでカウンターの方を向くと、千明さんの姿が見えた。今日はバイトの日ではないらしく、髪を下ろしてロングスカートを穿いている。
向こうはこちらに気付いていないようで、カウンターで店員の響さんとやり取りをしている。邪魔しないように声はかけず私もカウンターまで行く。
「はい、加藤さん。ご注文通りか確認をお願いします」
そう言って響さんがカウンターに置いたのは十冊以上のマンガの束だった。
「多っ!」
思わず私が声を上げると、素早い動きで千明さんが振り向いた。感情をあまり表に出さない彼女には珍しく、口と目を大きく開けて驚きを露わにしている。メガネもズレていた。
「ち、違うのっ! これは違うのっ!」
「え? 何が違うんですか?」
「今日はたまたま、たまたまこんなに買うのよっ! たまたまなのよっ!」
「え? 今日は少ないくらいよ?」
響さんが顧客情報を漏洩した。
途端に千明さんは顔を赤くして情けない顔になった。今日に限ってやたら表情豊かだ。
と、そこへ小太りの男性がフロアに入ってきた。おもちゃ屋の店員にして響さんの彼氏たる西田さんだ。彼はオタクとしても商店街で広く知られている。
「あ、西田君、彼女が加藤さんよ」
なぜか千明さんを紹介した。
「ああ、君なんだ。君の百合の趣味はとてもいいって、前から思ってたんだよ」
「百合?」
「ええ、彼女、百合が出てくるマンガをよく注文して買ってくれるんだけど、その趣味がとてもいいらしいの、西田君曰く」
「そこの棚に取ってあるマンガの束を何回か見て、只者じゃないって感じてたんだ」
私の質問に対して響さんがまたも顧客情報を漏洩させ、西田さんが補足してくれた。
千明さんを見ると、耳まで真っ赤にしてうつむいてる。
「違う……、これは違うのよ……」
ぶつぶつと言い訳を試みているのが哀れを誘う。
そこへ現われたのは咲乃先輩。
「あ、加藤さんだ、久し振り~。うわ、すごい数のマンガだね。あいかわらずオタクやってるんだ? マンガもまだ描いてるの?」
「マンガ?」
響さんが首を傾げる。
「ええ、花がいっぱい咲いたみたいな女の子しか出てこないマンガを、授業中も熱心に描いてたんです。中学の私達のクラスではオタクとして名を轟かせていましたよ」
咲乃先輩が空気を読まずに止めを刺した。そうか同学年なんだ、この二人。
「あー、まぁ、私もマンガは見ますよ? バスケのとか、テニスのとか」
心優しい私がフォローする。と、千明さんがキッと顔を上げて私を睨み付けた。
「女オタが全員腐女子や思てんちゃうぞ、コラ!」
いきなり怒鳴られてしまった。なぜキレられたのかよく分からない。
「バスケとテニスは腐女子なんですか?」
「その辺のマンガは腐女子のネタによく使われてるんだよ。彼女は百合好きとしてのプライドがあるんだな」
私の代わりに咲乃さんが聞き、西田さんが解説した。
「そうや! 汚らわしい腐女子と一緒にすんな! 私はキレイな百合が好きなんやっ!」
「その辺のセレクトにはブレがないよな」
西田さんが一人納得したようにうなずく。
「で、どうする? 加藤さん」
「全部でいくらですか?」
響さんに言われて千明さんが財布を取り出した。あ、この状況でも結局買うんだ。
「菜ノ花さん、ちょっと話、いいかしら」
正気に戻ったらしい千明さんに声をかけられて、私は一緒に店を出た。
『小村書房』の裏手にある自動販売機の前に千明さんが屈み込んだ。その隣に私も。
「嗤うがいいわ」
千明さんが吐き捨てるように言った。
「いや、別に笑いはしませんけどね」
百合好きという性癖を持ったオタクというのはかなり体裁が悪いようにも思うが黙っておく。
「あなたには謝らないといけないことがあるの」
「はぁ」
「……あなたと縁さん」
「はぁ」
「妄想の餌食にしてました……」
「はぁぁぁ……」
ため息しか出てこなかった。どうりで私達の関係を誤解しっぱなしだったわけだよ。そっちの方が千明さんの好みなのだ。
その百合好きの千明さんは真っ赤にした顔を膝に埋めている。
「ま、まぁ、別に構いませんよ、妄想レベルなら」
「あ、でもあくまでキレイな百合だから。エグイのはないわ」
わたわたと手を振って弁解してくるが、それはなんの慰めにもならない。そもそもキレイな百合というのがよく分からなかった。
「このことは、他言無用でお願いします」
しゅんとなってしまう。
「私は言いませんけど、響さんは口が軽いですし、咲乃先輩はタチが悪いですからねぇ。そっちの方がヤバげですよ」
「しょせん、日陰の道か……」
暗くため息をつく千明さん。まぁ、その辺のことはよく分からないけど。
「あ、話はそれだけじゃないの」
そうだろうと思った。
「店長のことよ。彼女、しょっちゅう暗い顔でため息をついているわ」
「でもですねぇ、私はあの人に支配されるわけにはいかないんですよ」
「なんとか折り合いはつかないの? 見ていてつらそうよ、あなたも」
「え? 私もですか?」
「ええ、お店で店長と鉢合わせた時、あなたは無理に店長を避けるわ。その時の顔はとてもつらそうよ」
「そうなんですかねぇ……」
全然自覚がなかった。家に帰ったら母と花屋の中で出くわすが、私はできるだけ近付かないようにしてさっさと家の中に入った。その時どんな気持ちでいるのかなんて、考えないようにしていた。
「一度素直になって考えた方がいいと思うの。あなたたちはなんだかんだで仲がよかったんだし」
「まぁ、気が向いたらそうしてみますよ」
「それにね」
千明さんが私の方を向き、メガネを指で押し上げた。
「あなたがお店に出てこなくて私も寂しいの。あなたとまた一緒に仕事がしたいわ」
「はぁ、そう言ってもらえるとちょっとうれしいかも」
千明さんが微笑みを浮かべたので私も笑みを返した。
この後、二人で商店街まで出て一緒に帰る。千明さんの家は住宅街にあった。
それにしても紙袋に詰め込まれたマンガの重そうなこと。
「千明さんって、マンガは今でも描いてるんですか?」
「しーっ! しーっ! あれは中二の頃にありがちな気の迷いなんだからっ!」
また顔を真っ赤にした千明さんがこちらの口を塞いでくる。
これがいわゆる黒歴史ってやつか。
花屋が見えてきたところで中から背の高い女のお客が出てきた。あれは銀子さんだ。私達を見つけてその場で待っている。
今日は土曜日なので会社は休みなのか。迷彩のカーゴパンツがなんとなく元ヤンぽい。とりあえずあいさつを交わし、千明さんは自分の家へと帰っていった。
「君って、お店の手伝いやめたんだって?」
「ええ、まぁ、そうなんですよ」
「もったいないね。まぁ、いろいろ事情があるみたいだけど。店長に聞いたら浮かない顔してたし」
そうなのか、お客に心配されるなんて客商売失格じゃないのか?
「それで、君に助けてもらった鉢植えだけどね」
「あ、どうですか?」
「いいよ、いい感じ。菜ノ花ちゃんのおかげだよ。ホントにありがとね」
「いえいえ、私は花屋の仕事をしただけですし」
「それでもありがとう。感謝してるよ」
銀子さんが私の手を取ってぶんぶん振り回す握手をした。
そうやって素直に感謝を示されるとこちらもうれしくなってくる。自分が仕事をした証を感じることができた。
「どんな事情か知んないけどさ、早く復活しなよ。君、お花屋さんに向いてるっぽいんだし」
「はぁ、そうですねぇ」
「じゃ、復活したらまた君から買うからね!」
一方的に復帰すると決め付けて銀子さんが帰っていった。
花屋か……。
『Shirley poppy』と書かれた看板を見上げたまま、私は立ち尽くしてしまう。




