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十一章そして試練の時が終わる。

 約束の三ヶ月まではまだ数日を残していた。

 私は最後までやり遂げなくてはいけなかったので店に出たが、母と話す勇気は沸いてこなかった。母の方でも私と口を利く気はないらしく、私に用件がある時には父か千明さんを通して伝えてきた。


「いい加減、うんざりだわ」


 何度目かの伝言を終えて、千秋さんに言われてしまう。


「すみません、面倒かけてしまって……」


 謝るしか私にはできなかった。


「違うわ。あんなに弱ってる店長を見るのがうんざりなの。あんなのは私の知ってる店長じゃないわ」

「弱ってる? 怒ってるんですよ?」

「いいえ、目に見えて弱ってるわ。私がいなかった昨日に何があったの?」

「それは……」


 言葉にしたくなかった。恐怖が甦ってしまう。


「久秀さんも要領を得ないし、私だけ蚊帳の外?」


 苛立たしげに言われてしまう。

 千明さんの怒りももっともだが、私の口からはどうしても言うことができなかった。




 どうにか空元気で店の仕事はこなせていけた。小泉さんのデザイン事務所へいつものようにアレンジメントを配達する。


「あら、何かあったのね」


 精一杯明るく振る舞ったのに小泉さんは簡単に見破った。


「いや、別にその……」

「持ってきてもらったお花を見れば分かるわ。素人の私が見ても分かるくらい、これは身が入っていないわね」

「す、すみません、作り直してきます」


 自分でもいつものようには出来上がっていないと分かっていたのに持ってきてしまった。でもそんなのはすぐにバレるのだ。


「いいのよ。こういう佐伯さんの成長を見るのが私の楽しみなんだから」

「成長、ですか?」

「今までずっといい調子で来てたわよね。毎回いろんなチャレンジをしていたわ。正直、失敗しているかな、と思う時もあったけれど、それはそれで私は楽しんでいたの」

「は、はぁ……」


 失敗している時もあったのか。顔から火が出そうだ。


「商品なんだからその時の気分で出来が変わるのは恥だと私は思っているわ。でも、佐伯さんみたいな若い人の成長を見てみたかったの。私みたいに年を取ると、そういうのが眩しく思えるのね」

「いや、小泉さんが年ってことはないと思いますけど」

「あ、食い付くのそこなんだ? そうやって気を使われた時点でもう年なのよね」


 小泉さんが意地悪げな笑みを見せてきた。うー、からかわれている。


「どうやらあなたはつまずいたようね。それもまた成長だわ」

「でも、出来の悪いのを作ってしまいました。大きく後退ですよ」


 それどころか全部が駄目になってしまったように思う。


「後ろに下がったら下がったで、前は気付かなかった景色を見れたりして面白いものよ。あなたのこれからを楽しみにしているわ。次もよろしくね」

「あ、それなんですけど……。私、期限付きで花屋の手伝いをしてまして、それが明日で終わるんです。今までお世話になりました」


 精一杯の感謝を込めて頭を下げる。未熟だった私にアレンジメント作りを任せてくれた人なのだ。


「あら、そうなの? もったいないわ、続けたりはしないの?」

「いえ、明日で終わりです。そう約束になってるので」

「そうなのね、残念だけど仕方ないわ。じゃあ、今までありがとう」


 そう言って手を差し出してくれた。

 私がその手を握ると、予想以上に強い力で握り返してきた。


「今あなたは少し元気がないようだけど、きっとまた元気になって前へ進んでくれる。そう私は信じてるわ」

「ありがとうございます」


 少し涙が出そうになったけど、なんとかこらえた。




 そして最終日があっけなく終わった。

 最後、もう大方を察したらしい千明さんは、メガネのブリッジを中指で押し上げて「お疲れ様」とだけ言ってくれた。

 静かな夕飯の後、父が話を切り出す。


「今日までの三ヶ月、菜ノ花はよく頑張ってくれた。ちゃんと最後までやり遂げたと認めよう」

「ありがとう、父さん」

「文香さんもそれでいいね」


 母は答えなかった。


「これからは菜ノ花のやりたいようにやればいい。どうするかは決めているのか?」


 私はちらりと母を見てみた。向こうはこっちを見ようとしない。

 この三ヶ月間、私の中ではいろいろなことが起こった。

 最初はやる気がなかった。なんとかやり過ごすことだけを考えて、それで千明さんを怒らせたり。

 そのうち花屋の仕事に面白味を感じ始める。菊池さんの花束を作りきった時、私の心境は大きく変化した。

 それからは楽しかった。銀子さんとのトラブルでさえ、うまく乗り切った時には大きな喜びを与えてくれた。

 ここが私の居場所だ。自分に向いているし、愛着も感じる。そう思ってしまった。

 でも間違いだった。私に花屋は勤まらない。ここで働くのは無理だ。

 母は相変わらず私を見てくれない。

 ずっとタチの悪いことを仕掛けてきた。変なTシャツだったりネコ耳だったり。その度に私の頭や胃は痛くなった。

 でも、菊池さんが花束を受け取ってくれた時にはほめてくれた。小泉さんに納めるフラワー・アレンジメントを作るための特訓をしてくれた。銀子さんの鉢物を助けるために一緒に徹夜をしてくれた。

 少しは知ることができたと思った。照れ屋で不器用な人だった。そして、私を愛してくれていた。

 でも駄目だった。私と彼女の間にはどうしようもない落差があった。私はただの凡人で、彼女はなんでもやってのける力のある人だ。

 このまま花屋を継ぐとこの前と同じようなことがまた繰り返される。

 失敗するのが怖いのではなかった。母の強さに照らされるのが怖かった。

 確かに私は高校に入って店を手伝うかどうかで母と対立した。その時にも強引な母に悩まされたが、心を閉ざして相手を拒絶している限り心の奥の方はダメージを受けずに済んだ。

 しかし花屋を継ぐとなると話は違ってくる。心を開かないと母から教えを受けることができない。そしてそうやって母に無防備な心を晒してしまうと何かの拍子に心の奥に届く深い傷を負わされてしまうのだ。母にそのつもりがなくても私の弱い心は簡単にダメージを受けてしまう。

 私達は距離を取らないといけない。そうしないとこれから何度でも母は失望し、私は傷付く。距離を取らないと。


「私は縁と一緒の大学に行く。それで、大学の近くに部屋を借りて縁と住むよ」

「そうか」


 父の表情からは落胆の色が隠しきれなかった。でも仕方ないのだ、こうするしかない。

 突如母がこっちを向いた。その顔からは怒りが滲み出ている。


「あんた、ホントにそれでいいの?」


 強い調子で言われてしまう。

 本当にいいのか? 自分の生き甲斐になりそうだった花屋の仕事を諦めて本当にいいのか?

 そんなことは何度も自問した。正直今でも迷いがある。

 でも私はきっぱりとここで諦めて別の道に進まないといけない。

 私は心に鎧を着せて母の方を向いた。


「それでいいんだよ。もう母さんに振り回されるのはうんざりなんだ」

「それでホントにいいの? 菜ノ花、あんたは今、大切なものから手を離そうとしてるんだよ? もう見つからないかもしれない大切なものなんだよ?」


 母は教え諭すように言ってきた。

 そんなことは言われなくても分かっていた。

 ほんの三ヶ月だけど私は見つけた、見つけてしまった。花屋は天職だ。手放したくない。手放したくないに決まってるじゃない。


「でも無理なんだよ……。私はもう傷付きたくない。母さんに傷付けられたくないんだ……」


 私がうつむくと母はテーブルを殴り付けた。


「なんでそんなんなんだよ! 楽しいって言ってたろ! 花屋の仕事が好きなんだろ! 好きなんだったら、傷付いてでも、ずたぼろになってでも食らいつけよ!」

「だからそういうのが無理なんだよ! 私は母さんみたいに強くないんだ!」

「情けないことばっか言いやがって! あんたは店を継ぐんだ! 私が鍛え直してやる!」


 身を乗り出した母が私に向かって手を伸ばしたのを、父が掴んで食い止める。


「やめるんだ! 文香さん」

「離してっ! 離せって、久秀君! こいつは馬鹿なことやらかそうとしてるんだよ! なんだよ、ちょっとつまずいただけだろ? それで起き上がれないなんてどんなけ弱っちいんだよ! 今まで集めてきた大事なもの、全部放り捨てるなよ!」

「違うよ! 分かってないよ、母さん! 母さんは自分がどれだけ怖い人間か分かってないっ!」

「怖い? 怖いってなんだよ」


 私の方へ身を乗り出していた母が身体を引いてイスに腰を落とした。


「私は母さんが怖いんだ。母さんは私みたいな弱い人間のことが理解できない。私も母さんみたいに強い人が何考えてるか分からない。分からないのは恐怖だよ。なんで理解しようしてくれないだろ? なんでみんながみんな、自分と同じ強さを持ってるって思い込んでいるんだろ? 分からないよ。怖いよ……」


 身体が凍えてきたように思えて自分の身体を抱きしめる。


「何それ? あんたが何言ってるか分かんないよ」


 母は居心地悪そうに唇を指で掻いている。


「そりゃそうだよ、私達は分かり合えないんだから。なんで私達は母娘なんだろ? こんなに違うのに、違いすぎるのに……」

「分かり合えない? 何言ってんの、私達母娘でしょ? そりゃ、言い合いになることもあるけど、それだって仲が良いからじゃない」

「私もこの前母さんと話をして分かり合えたと思った。でもそんなの幻想だったんだ。母さんはプロポーズも商店街の復興も何でもかんでもやってのける強い人。今日まで花屋を経営してきたしね。でも私は何もできない何も持っていない弱い人間。気付いてしまえば当たり前のことだった。サバンナに君臨するライオンとただのネコは分かり合えない。見ている世界が違うんだ」

「そんなことない。そんなことないって」


 母がうつむいて頭を抱えた。


「ライオンに撫でられただけでネコは死んじゃう。私はそんなのごめんだよ。だから距離を取ろう? もし母さんが少しでも私のことを大事に思ってくれているなら」

「なんでそんなこと言うんだよ……。なんで……」


 私の言葉を受けて母は嗚咽を漏らし始めた。

 また彼女を傷付けてしまった。私を愛してくれているからこそこうして傷付くのだと分かってはいたが、私の恐れを理解してくれないことに虚しさを感じてしまう。


「ごめんね、母さん。こんな娘でごめん」


 下を向いたまましゃくり上げている母を置いて、私は自分の部屋へ続く階段を上っていった。




 私は自分の部屋にあるカレンダーの、今日の日付にバツ印を付けた。そこには赤で花丸が描かれてある。三ヶ月前に私が描いたものだ。

 そう、今日で終わり。全部終わり。明日からは花屋の仕事をしなくていい。

 明日から夏休みだ。バイトをしよう。バイトをしてお金を貯め、来年の春になったら縁と住む部屋を借りるのだ。

 カレンダーの横には『進路調査票』が貼ったままだった。

 さて、進路は決まった。ここに縁と一緒に行く大学の名前を書いて、父のハンコをもらえばいい。

 しかし何故だか私の手は『進路調査票』に伸びなかった。

 そうやってしばらくプリントを睨んだ後に気付いた。明日から夏休みだから急いで出さなくてもいいのだ。二学期が始まる時に出してしまおうか。そうしよう。

 そう決めてしまうとベッドに身体を投げ出した。ぼんやりと天井を眺めて時が過ぎていくのに任せる。

 そのうちに鼻をすすり始めた。目からの涙はずっと前から止まらなかった。考えまいとしても考えてしまういろいろが、次から次に沸きでて消えてくれなかった。

 口から漏れる声を罰のように聞き続けた。


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