九章 ホント、この女は素直じゃない。おかげでこっちは大変なんだ。
咲乃先輩と別れて家に戻ると花屋は閉店作業の最中だった。
店の外に出していた鉢物を中に運び込んでいる母を見る。
この人はずっと私の壁であり続けた。思えば、高校一年の部活を巡る抗争以前からだ。
中学の頃、私は花屋の仕事にやり甲斐を感じていたが、それでも時々疑問を感じることがあった。友達同士で遠くへ遊びにいくという話が出た時なんかだ。
私も参加したく思って母に店の手伝いを休ませてくれるよう頼むのだが、母は決してそれを許そうとしなかった。そして、後から話に入れず寂しい思いをするのだ。
それがあったから、高校に入った私は部活という新しいことに取り組みたいと思った。なのに母はそれを潰した。それがただの過保護だって?
しかしどうだろうか。このまま永久に母を恨み続けるのも違うと思うのだ。いつかは和解したい。母を謝らせることはできないにしても、お互い分かり合うことはできると思うのだ。
問題は、母の方で私と分かり合う気があるかどうかだ。
私が母の方に歩み寄りたくても向こうからも近寄ってきてくれないとお互い向き合うことができない。
そして、我が強すぎるあの人が近寄ってくれるとは思えなかった。
いいや、そこで諦めてはいけない。まずは私から近づくのだ。それが、私達が分かり合うために今必要なことに違いなかった。
よし。
母が私に気付いた。
「何、ぼさっと突っ立ってるのさ」
「私なりにいろいろと思うところがあってね」
「何気取ってるんだか。さっさと家の中入って夕食作りな。あんたの取り得はそれくらいしかないんだからね」
相変わらずの言い草だよ。でもここでふて腐れては今まで通りだ。まずは母の本音を引き出そう。
「そう言いながら、ホントは私の実力を認めてたりするんでしょ?」
「はぁ? 何言ってんだ」
作業を止めてこっちに近付いてきた。背を反らして見下ろすようにしたが、そうやって威嚇してくるのが逆にわざとらしい。
「咲乃先輩にはしゃいで自慢しまくったらしいじゃない。私が戦力になってるだとか花屋に向いてるだとか」
「あいつ……」
顔を赤らめた母が目を逸らす。
そう、母は私のことを認めてくれているようなのだ。しかしそれをただ伝聞だけで知るのは嫌だった。母からなんらかの言葉を引き出したい。そうやって母の私への思いを直接受け取るのだ。
「母さんがもうちょい素直なら、私だって素直に感謝するんだけど」
「感謝?」
「私、花屋の仕事にやり甲斐が出てきて楽しいの。それに気付かせてくれたのは母さんだから。ホントは感謝してるんだよ、ありがとう」
母が驚いたような顔を向けてきた。こういう間抜けな顔は初めて見た気がする。
さぁ、私は一歩前へ踏み出した。母はどう出てくれる? 胸が高鳴るのを抑えられない。
「ふ、ふーん、そうか。やっと母のありがたさが分かったか。だったら、これからは私のこと、『偉大なるお母様』と呼べ」
あーもー、またこういう態度だし。そんな呼び方して、恥かくのはあんただっての。
「あのさ、母さん。今、私かなり素直になって感謝の言葉を述べたよね。母さんももっと素直になってよ。ちゃんと私と向き合って。そうしたら私達は分かり合えて、今よりずっと仲良くなれるはずだよ?」
母が睨み付けるようにしてきた。私としては精一杯の球を投げたつもりだ。後は母が投げ返してくれればいい。
「はんっ! 素直もなにも、これが私だっての。私は1ミリだって揺るがない」
「もー、頼むよ本当に……」
駄目か。結局母の方では私と分かり合う気がないのだろうか。あくまで我の強いこの人は、私なんて眼中に入れることなく我が道を行くのだ。
暗い思いに囚われてしまった私は、母の脇を通り抜けて店の中に入っていった。
夕食の後、洗い物を終えた私が振り返ると、ダイニングには母だけが残って帳簿を付けていた。
今は母と話をする気になれないので、特に声もかけずに自分の部屋を目指す。
「おい、菜ノ花」
「何? 母さん」
振り返ると母さんがこっちを向いていた。
「花屋の仕事はホントに楽しい?」
「うん、楽しいよ」
「私に感謝してる?」
「してるよ」
母がにへらと笑みを浮かべた。
「よし、行っていいぞ」
「いや、母さんも言葉にしてよ」
「え? 何が?」
不意をつかれたように驚いた顔をする。
「私が花屋手伝ってるの、ホントはうれしいんでしょ?」
「花屋の娘が花屋を手伝うのは当然でしょ?」
「あのさぁ……」
私はテーブルまで戻り、母の向かいから身を乗り出す。
「なんでそんなんなの? 母さんがそんなんだから、私は部活やるのを潰されたのずっと恨みに思ってたし、その後もずっと反発してた。ホントは私のこと大事に思ってくれてるんでしょ? 心配してくれてるんでしょ? ちゃんと言ってよ、そういうの」
私の言葉にはどうしてもトゲが出てしまう。
しかし母は平然とした顔でこっちを見ながら心持ち首を傾げている。
「そんなの言わなくても分かるでしょ?」
「言ってくれなきゃ分かんないよ。いつものあの態度で分かれって方がおかしいって」
「そう言うけどね、これが私なんだ。今さらどうこうできないっての」
開き直った。
まぁ、その通りと言えばその通りなのだが。だからってこのままなのは嫌なのだ。母の本心を知りたかった。
「じゃあ、母さんはこのままでいいと思ってるの? 私は嫌。私はもっと母さんを近くに感じたい。それで母さんのことを好きになりたいんだよ」
「え? 今は好きじゃないの?」
母が目を見開いた。こんなにもしょっちゅういがみ合ってるのに、好かれてて当然だと思っていたのか、この人は。
「好きってわけじゃないかもね。嫌いでもないけど」
「あんた、酷いこと言うよね」
「だって、母さんの気持ちが分からないんだから。私のことなんて全然見ようともしないできつい態度ばっかりじゃない。好きになっていいのかもよく分かんないよ」
「いや、ちゃんと見てるよ、あんたのことは」
「伝わってこない。全然伝わってこないから、母さんの気持ちとか愛情とかそういうの」
「おかしいなぁ……」
うつむいて首を傾げる母。なんと言うのだろうか? 二人の間に大きな認識の隔たりがあるようだ。母は言わなくても全部通じているつもりでいるが、私は全然感じ取れていない。
今までは受け取る私の方にも問題があった。母と向き合おうとしていなかったのだし。でも今はなんとか母と向き合おうとしている。それなのに母は分かりにくい人のままだった。どうにかしてこっちを向いてはっきりとした意志を示して欲しい。
母が口の中で何やらぶつくさ言っているので、私は我慢強く彼女が言葉を向けてくれるのを待った。
「私だってさ……」
母がようやく聞き取れる声を出した。
「私だって、今みたいなのがいいとは思ってないよ? 菜ノ花は相変わらず反抗的だし、一緒に働いてる今が根性叩き直すいいチャンスなんだよ」
「それじゃあ、今までと同じ支配じゃない」
「違うって。あの分かってよ、私はこういう言い方しかできないんだよ」
顔を少し上げて、すねたみたいな顔で私を見てくる。
「それは知ってるけどさ。少しは伝える努力を見せてよ」
「そう言うけどなぁ……」
またうつむく。
「結局うれしいの?」
「何が?」
「私が花屋を手伝ってることだよ。うれしいの? どうでもいいことなの?」
「花屋の娘が花屋を手伝うのは当然でしょ?」
「そこでループかよ」
がっくりと肩を落としてしまう。母が本心でどう思っていようとも、それを伝えてくれないことには私の不安は解消されない。でもどうしようもないことなのかもしれない。この人からこれ以上言葉を引き出すなんてできないのだ。
「もういいや、お休み、母さん」
肩に重だるい疲れを感じながら母に背を向ける。
「ちょっと待って!」
母が叫んだので振り返る。
「ちょっとそこ座って」
言われたとおり母の前の席につく。しかし母はすぐに言葉を発しないでうつむいている。これは気長に待つしかないようだ。
「……うれしいよ」
ぽつりと母がこぼした。
「ホント?」
「ホント。経緯はどうあれお店で働く菜ノ花を見てるとうれしくなる」
「そうなんだ、よかったよ」
「菜ノ花のことはかわいく思ってるんだから。分かってて欲しいよ、そういうの」
「今までは分かりにくすぎたんだけどね。でも分かったよ、母さんはちゃんと私のことを愛してくれてるんだね」
「えっ!」
母が驚いた顔を上げる。
「う~ん、それはどうかなぁ~」
「あれ? 愛してくれてはいないんだ?」
「いやぁ……」
強ばった笑みを整った顔に貼り付ける母。
「その辺、ちゃんと言って欲しいんだけど」
「そんな小っ恥ずかしいこと、言えるわけないじゃん」
「まぁ……、それもそうか」
母を相手に欲張りすぎか。でもどうやら私のことを愛してくれてはいるようだ。どうにか伝わってきた。
「あんたとは仲良くやっていきたいと思ってる」
「私もだよ、母さん」
「駄目な子ほどかわいいもんなんだよ」
「そういう余計なのいいから」
「はぁ……難しいよ」
ため息をつく母をかわいらしく思ってしまう。この人なりにかなり頑張ったみたいだ。
「よかったよ。これでようやく母さんのことが好きになれそうだ。ごめんね、私も今まで母さんの方を向こうとしなくて」
「長い反抗期だったよね」
反抗期で済まされるのは少し釈然としないものを感じるのだが。目の前にいる人のキャラクターの影響も多分にあるのだと、今でも私は思っている。
「それでさ、前にも聞いたけど、私ってもう商品レベルのブーケ作れるんじゃないの?」
「作れるよ」
あっさり言いやがった、この女。
「じゃあ、なんでまだ認めてくれないのさ」
「かわいいあんたは特に目をかけてやってるんじゃん。感謝しなよ」
「だからそういうの伝わらないんだって。いい加減、認めてよ」
「うーん」
眉間に皺を寄せて考え込み始めた。
「じゃあ、審査してやるよ。お店に来な」
そうして閉じてある店内に二人して行った。
開店時には外へ出す苗なんかも取り込んである店内。照明を付けた母の後に続いて私も店に降りる。
「予算四千円。八畳間の食卓に置くブーケを作れ。下手に気負ったら駄目だから。いつもやるようにやれ」
「了解」
母に言われて予算で収まるように切り花を選んでいく。
ちょうど小さめのヒマワリが入ってきてたし使ってみるかな。ユリの中でも小ぶりなスイートメモリーも。葉物に鮮やかな色合いのアオキを使おうか。他にもいろいろと見繕っていく。
薄紫色のスイートメモリーと黄色いヒマワリは補色の関係にある。それをうまく使って引き立て合うよう配置していこうか。葉物をうまく混ぜ、他の花も添えていく。そして最後、アオキで底を覆うようにして花束を閉じる。
うん、こんなものか。
「じゃあ、よろしく」
花の束を母に渡す。これでいよいよ母に認めてもらえるかが決まってくる。ブーケを作っている間は何も感じなかったのに、今になって緊張が高まってきた。
右に回し、左に回し、母は入念にブーケを見ていった。
「私ならもう一本スイートメモリーを入れるね」
駄目か。なかなか壁は厚い。自分としてはうまくできたと思ったので、落胆は大きい。
「あんたは私に比べると大人しめにするんだよね。そういう作風ってことでいいんじゃないの?」
「え? いいの?」
「いいよ、これで問題なし。これからは私のチェックなしでお客さんに渡していいから」
ついに母が私の実力を認めた。今まで認められなくてずっと悔しい思いをしてきたのに、拍子抜けするほどあっさりと認めてくれた。
「これであんたも一人前だ。これからも『シャーレー・ポピー』の一員として頑張るように」
そう言って、母はにっこり微笑んだ。
一人前。初めて母がそう言ってくれた。今までずっとあった、自分を認めてくれないという鬱屈した思いが一気に溶けてなくなるのを感じる。
ここまで随分長い道のりだったような気がしてくる。実際は花屋の仕事に本気で取り組むようになってから一ヶ月くらいしか経っていないのだが。
自分の実力が一人前と呼ばれるレベルに達したこともうれしかったが、母に認められた喜びの方が大きかった。今までずっと壁だと思っていた人、認めてもらいたいと思っていた人に認められたのだ。こんなにうれしいことはなかった。
「じゃあ、最後まで仕上げて持ってこい」
と、母は先に家の中に上がっていった。
食卓に戻ると、その上には花瓶が置かれていた。母は私が作ったブーケを受け取ると、自分でそこに生けた。
「まぁ、悪くないかな」
母は顔をほころばせながら自分の席についた。
「これで私は一人前なんだ」
「まぁ、とっくの昔にちゃんとした戦力にはなってたんだけどね」
「戦力になってたってことは、花屋は私の居場所だってことだよね?」
「あんたがそう思うんだったらそうなんじゃないの?」
なんか、相変わらず引っかかる言い方するよな。
とにかく私は花屋の店員として立派な戦力になっていたらしい。店長たる母に認められたことで、花屋で働くことに喜びを感じている私はようやく自分の居場所を得ることができた。これからは花屋が私の居場所。そう思うと心が安らぐのを感じてしまう。
「何にやにやしてんのさ」
「まさか花屋が自分の居場所になるなんて、花屋の手伝いを始めた時には想像もしてなかったからね」
「私の娘だけあって花屋に向いてるんだからそれくらい当然だよ、言うまでもないことだけど」
「いや、そういうのを言って欲しかったんだけどね」
「言わなくても分かるでしょ?」
「私、自分に自信が持てないから、ちゃんと母さんに認めて欲しかったんだよ」
「面倒くさい子だよね」
「母さんほどじゃないけどね」
二人で苦笑しあう。
「他には? 他に言って欲しいことはないの?」
「いろいろある気がするけど、とりあえずはいいよ。ああ、私から言っておくことがあるんだ」
「何?」
「私、この花屋が好きだから」
「そんなの当たり前じゃん、自分の家なんだし」
だから今まではあんたが邪魔に思えてそういう気になれなかったんだってば。
まぁ、今さらいいか。私はこの花屋が好き。両親の結婚に関わり、私を今まで育んでくれた花屋。憎く思っていた時期も長くあったけど、今やっと何のためらいもなく好きと言えるようになった。
母と話し合えてよかった。こうして今ではわだかまりが消え、お互い素直な気持ちでいられるようになったのだ。
「じゃあ、明日からもよろしくね、母さん」
「おう、明日からまた鍛えてやる」
立ち上がった私に母が笑みを向けてきた。母もこうして話ができたのを喜んでいる。そのどこかほっとした顔を見て、私はそう感じ取った。
翌日、気分を新たに花屋のエプロンを付けた私は、気付かず叫んでしまって母にデコピンを食らった。




