五章 クレームが来たら、基本父に投げます。
私にとって花屋とは?
仕事をする中で充実感や達成感を得ることもあるけれど、私はまだ少し花屋に向かって踏み込めないでいた。店を継ぐと結論付けるのにはまだためらいがある。
その理由を知ってはいたが、それと向き合える気がしないのが現状だ。
でも、以前と比べればずっと前向きな気持ちで仕事に取り組めている。
一度やる気になると吸収力という奴は大きく向上し、最初の頃にしていたようなヘマはほとんどしなくなった。
ブーケやアレンジメントの製作では相変わらず最後母達の手が入ったが、その修正は徐々に減っていった。
苦手な商品の提案も、お客の身になって一生懸命考えていってどうにか乗り切れていると思う。
筋肉痛もほとんどなくなったし、手間のかかる花の世話は元々苦にならない。身体の方はすっかり花屋の店員だ。
よし、少しずつ前へ進もう!
「あれ? 君、ネコ耳メイドはやめたの?」
OLらしい若い女性客に言われてしまう。
「はい、昨日ようやく呪いが解けたんですよ」
「残念、かわいかったのに」
「だったらやってみます、ネコ耳メイド?」
「十年若けりゃあねぇ……」
などと顔をしかめられる。いや、年齢関係なしにネコ耳メイドはあり得ないんですよ。
そうこうするうち閉店が近付く。
「ねぇ、ネコちゃん」
ふいに後ろから声をかけられる。だから、もうネコじゃねぇんだよ。でもお客かもしれないので愛想良く振り返る。
声をかけてきたのはやはりOLらしき若い女性客だった。背が高くブリーチした髪をアップにしているこの人は前にも来店している。
「私ですか?」
婉曲な、もうネコじゃねぇんだよアピール。
「君しかいないじゃん、ネコちゃんは」
「はぁ……。それで、どうかされましたか?」
「あのさ、先々週ネコちゃんから買った鉢植えがもう枯れたんだけど」
「え? アメリカンブルーですよね? あれは普通に世話してたら秋まで咲くんですが」
「でも枯れたんだよ。先月メガネ君から買った奴も駄目になったし」
「先月お客様が買われたのはペチュニアですよね? あれも育てやすい花なんですが」
いつの間にか隣にいた千明さんが、例によってメガネを中指で押し上げながら言う。
「でも枯れたんだよ。君ら、すぐに駄目になるようなの売り物にしてるの?」
「いえいえ、そんなことないですよ。ちゃんと管理された丈夫なものばかり並べていますから」
その辺りの管理はかなり厳しい水準でしていると思う。
この花屋で仕入れる花は値段より第一に品質を優先する。それでも生きた花をまとまった数を仕入れるのだから質には多少のばらつきが出る。なので店に並べる前に全て母がチェックし、彼女の基準を満たしていないものは撥ねてしまう。父が手を入れて商品レベルにすることもあったが、それも無理な場合は店の負担で廃棄だ。
店に出した後の管理も父がきちんとしている。温度、日照、水、養分。店に並べてお客に見てもらう都合上完璧な環境にはなり得ないのだが、そうした中で可能な限り最良な状態になるよう配慮されている。
どこの花屋でもやっていることなのかもしれないが、この花屋がいい加減な商品は売っていないというのは確かだ。
「花屋にしたら適当に枯れてくれた方が、新しいの買ってもらえていいのかもしれないけどさぁ。買わされる客は堪ったものじゃないよ」
「いいえ、当店はそんないい加減な商売はしていませんので」
そうお客に言い返したのは千明さんだ。
花屋愛の強い彼女は花屋の悪口を言われてカチンときたようだ。自分よりずっと背の高い相手を睨むようにして見上げている。いや、相手お客なんですが。
「まぁまぁ千明さん。でもお客さん、先々週お売りしたアメリカンブルーにしても丈夫な鉢でしたよ。すぐに枯れるとは考えにくいんですが」
「でも枯れたんだよ」
「ちなみにどんな世話してました?」
「私が枯らしたって言うの?」
私より背の高いお客が上から迫ってきた。前から思ってたけど、この人は絶対に元ヤンだ。
「いえいえいえ、参考までに」
千明さんを盾にしながら一歩二歩下がる私。
「普通に日に当てて水あげてたよ。こっちはちゃんと世話したのに勝手に枯れたんだ。それでこの店は私が枯らしたみたいに言うんだ? たいしたお店だよねぇ、『シャーレー・ポピー』さんは」
「いえいえ、そうは言ってません、言ってません」
「当店は間違いなくしっかりとした花を提供いたしましたっ。それでもご不満でしたら返金いたしますが、それでよろしいですかっ」
千明さんが背伸びして、今度は確実にお客を睨み付けた。お客相手に喧嘩売ってるよ、この人。花屋の悪口言うのは千明さん的にそこまで地雷なの? 私も結構言ってた気がするんですが。
「ああ? 金の問題ちゃうんじゃ、チビ」
はい、お客様、地が出ました。
ああ……、こんな時に限って父も母もいないんだよ。どうしよ、私。
「ではどうしろと? 枯らしてしまった花は当店でもどうにもできませんのでっ」
「枯らしたんちゃうわ、枯れたんじゃ。お前が売った花の始末は自分で付けろや、コラ」
「すみませーん、ちょっと待ってくださーい」
上下で睨み合っている二人の間に割って入る。胃が痛い。
「なんや、ネコ耳」
「お客さん、とりあえずカタギに戻りましょう」
「うっ!」
ド鋭い目付きだったヤンキー客が顔を赤らめてOL客に戻った。助かった。
「すみません、うちの店員が失礼な態度を取りまして」
「本当だよ、ちゃんと教育しといてよね」
「ぐぐっ!」
「申し訳ないです、まったく」
何か言いたそうな千明さんの頭を抑え付けながらまずは平身低頭する。
「それで、ですね。一度お客さんのお家にお邪魔してもいいですかね? 一度実際の鉢を見てみたいんですが」
両手を合せてちょっとかわいこぶってお願いをする。
「なにそれ? 私の言うこと疑ってるの?」
「いえいえ、後学のためにどうなってるか参考にしようかな的な」
「むー、でもホントは言うこと信じてないでしょ?」
「いえいえ~」
いつもより八割増しした愛想笑い。
「まぁいいや、あんたの顔見てたら怒る気になれないよ。いいよ、今から来る?」
「ホントですか? じゃあ、今から一緒に行きましょう。千明さん、後ヨロで~」
ふぅー、とりあえずの危機は脱した。
店を出ると、お客は駅とは反対方向に歩き始めた。花屋は商店街の端近くにあるので、向かうのはこの先にある住宅街のようだ。
住宅街は、三十六年前に駅、商店街と同時期に作られた。駅に近い方から徐々に拡張されていって、今ではほとんど開発は終わっているはずだ。
小学校、中学校の校区が商店街と同じなので、住宅街には同級生が多く住んでいる。このまま真っ直ぐ行くとある児童公園でみんなして遊んだものだ。
私は小さい頃の記憶があんまりないのだが、その公園で咲乃先輩が男子と決闘をした時の光景はまざまざと覚えている。あの人、日傘を差したまま相手をストレート一発で泣かしたんだよな。
「私、真鍋銀子。銀子でいいよ」
横に並ぶ私にお客が名乗った。
「あ、私、佐伯菜ノ花です。ネコではありませんので」
このままネコちゃん呼ばわりは勘弁なのでしっかり強調する。
「でも君、ネコっぽいじゃない」
「え? そうなんですかね?」
「いいよねぇ、かわいいとああいう格好も似合っちゃってさ。一方の私はOLの皮を被ったヤンキーですよ」
「はぁまぁ、あれはうちの店員が悪かったですよ。彼女、あの花屋が好きすぎるんです」
「ああ、だったら悪いこと言ったね。自分のイライラを人にぶつけちゃった。反省してたって言っといて」
「イライラって、やっぱりお仕事が大変なんですか?」
「プラス、遠恋の彼氏に浮気された」
「うわっ。ああ……、なんて言っていいのやら」
色恋沙汰に疎すぎる私はこういう時どうしたらいいのか分からない。
「彼氏が遠くへ転勤して、なんか寂しかったから生まれて初めて花でも買ってみようって気になったんだ。実際きれいに咲く花見てたら心が和んだし」
「ですよね、花はいいです。それで枯れたら怒りたくもなりますよね」
「うーん、でもなんで枯れたんだろ? あんなに水も一杯あげてたのに」
「まぁ、見てみないことにはなんとも」
「あ、ここだよ」
そこは住宅街の外れにあるワンルームマンションだった。三階建ての三階が銀子さんの部屋。
「キタナッ!」
服とか雑誌が散乱しているのはともかくとして、ゴミを詰めた袋がいくつも転がっているのが理解不能だった。いや、捨てろよ。
「菜ノ花ちゃん、正直だよね。花はちゃんとベランダに避難させてあるから大丈夫」
「はぁ……」
ゴミ袋に触れないよう細心の注意を払いつつベランダに向かう。一応、南向きなんだけどな。
「ほら、ちゃんと水はあげてるんだよ」
「ああ、なるほど……」
ベランダには確かに鉢が二つ並んで置いてある。しかしそれぞれの鉢にはちょろちょろと絶え間なく水を流すホースが突っ込んであった。試しに土を押してみると水が滲み出てくる。明らかに水のやり過ぎだ。
すぐにホースの水を止めたが、鉢の受け皿からは水があふれてしまっている。中はおそらく水浸しだ。
うーん、どうしよう……。
「銀子さん、アメリカンブルー売る時に、簡単に世話の仕方を言いましたよね、私」
「水をたっぷりあげるんだよね」
「土が乾いていたら、ですよ?」
「多い方がいいじゃない。その方がきっといっぱい咲くよ」
「うーん、どうにも多すぎたんですよ。鉢の中は多分水浸しです。それで根が窒息死してしまったんです」
「じゃあ、私が悪いって言うの?」
「ええ、まぁ、非常に言いにくいことですが、あなたが駄目にしました」
「そっかーっ」
座り込んで頭を抱える銀子さん。頭を抱えたいのはこっちである。苦労して育ったであろう花がこんな枯れ方をするとは。うーん。
いやしかし。
「でも、まだ生きてるっぽいところもありますから、それを助け出しましょう」
「え? う、うん」
全部が枯れたわけではなく、まだいくらか花を残している部分もあった。枯れた部分を除けて、生きてる部分だけを植え直せないだろうか。
とりあえず持って帰るためにこぼれる水を受けるコンビニ袋をもらう。そこに鉢を入れ、一つを私が、もう一つを銀子さんが持って花屋に引き返す。
「ごめんね……、私が馬鹿でごめんね……」
そう鉢に話しかける銀子を見ていたら、強いことは何も言えなくなってしまった。
責任を感じている銀子さんには帰ってもらって、建屋の裏にある倉庫に鉢を並べる。
「あーあ」
私の後ろで母がため息をついた。
母は花や観葉植物が大好きだ。売り物にならなくてそうしたものを廃棄する時にはほんの少しだけつらそうな表情を見せる。それに気付いたのはつい最近のことだ。
その母にしてみれば、この惨状は見るに耐えないだろう。
「やり方知ってる?」
母が聞いてくる。
ここでうなずければいいのだが、根腐れした鉢物の処置の仕方を私は知らなかった。
別に父に教えてもらってもよかった。ネットで調べれば何か見付かるかもしれない。でも、私は一番面倒な手を選ぼうと思った。
最近気付いたのだ、今の私にはやらないといけない大切なことがあると。敵を知り味方を知れば……違うな、敵じゃないかもしれない。目の前に立ちはだかる奴が何なのか、私はもっと知らないといけなかった。
立っている母を見上げる。
「教えてよ、母さん」
「いいよ、でも徹夜だよ」
「テスト前にはいつもしてるから慣れてるよ」
「そんなんだから上位に行けないんだよ」
頭に軽くげんこつを落とした後、母が私の横に屈み込んだ。
「教えるけど、やるのはあんただからね」
「分かってる」
「じゃあ、中を全部出して生きてる根を探していこうか」
いつの頃からだろうか。私はまともに母と話をしなくなった。
いわゆる日常会話は毎日していた。私がご飯を作る時にはあれやこれやとリクエストを付けてくる。私はそれに応じたりはね除けたり。
でも私は母と本当の会話は交わしていなかった。
高校に入って私が花屋の仕事を拒否したから? もっと前からかもしれない。部活を巡って大きな行き違いが生まれたのは、その頃すでに会話がなかったからだ。そう気付いたのも最近のことだ。
母のあのタチの悪い性格が災いしている気がする。でも、私の方にも問題があったのでは?
確かに若さ以外勝てるものが何もない。押しが強すぎるし、平気でどこでも踏み込んでくるし、そうやって自分を押し通さないと気が済まない人だ。
でもだからって、逃げていい相手ではないのだ。なのに私は逃げ続けた。目は前に付いているのだから、背を向けて逃げている限り相手を見ることはできない。
私は向かい合わないといけなかった。このタチの悪い女と向かい合うのだ。
そうでないと私は何も見つけられないだろう。私は花屋で何かを掴みかけているのに、その花屋『シャーレー・ポピー』はこの忌々しい女抜きでは成り立たないのだから。
そして一晩を母と過ごして私は何を得ただろうか。
母はいつも通りの母で、私は一晩中罵倒され続けた。何回も心をへし折られかけた。
しかし最後に母は言った。
「よし、上出来だ、我が娘」
必ず十才以上若く見られる元『商店街の虞美人草』の笑顔を見て、私は本当に、本当に久し振りに母の顔を目の当たりにしたような気がした。
「じゃあ、今日から三日間和牛のステーキな。お代は菜ノ花の小遣いから引いとくし」
「はぁ? いやいやいや、これは花屋の仕事をしただけじゃん」
「あんたが独走しただけだし。あーあ、尻拭いに付き合わされて、私大迷惑」
「はぁ? 和牛ステーキはあんまりだって!」
「結果が出たんだから、それくらい当然だっての。さ、シャワーしてから市場行ってくるわ。あんたも学校サボるなよ」
さっさと家の中に引っ込みやがった。
やっぱりあいつと分かり合うとか無理でしょ?
そしてすぐに登校の時間。なんとか学校に行くことはできたが、授業中はほとんど寝て過ごす。まぁ、それでなんとか復活できた。今日も花屋で仕事だ!
銀子さんがOLにしては早い時間にやってきた。
「銀子さん、無事生きてる奴を救い出せましたから」
「ありがとう、菜ノ花ちゃん!」
重い重い、あんたの図体で抱き付いてくるな。
この後、元ヤンらしく仁義を重んじる銀子さんが千明さんに詫びを入れた。客商売らしからぬ態度を取ってしまったと、実はかなりヘコんでいたらしい千明さんも詫びて二人は和解。
そして私と銀子さんで鉢を彼女の家まで運んだ。
「これ。花の世話の仕方を書いときましたから」
「ありがとう。もう失敗しないよ」
アメリカンブルーとペチュニアの育て方をメモした紙を手渡すと、銀子さんはそれを早速ベランダに面したガラス戸に貼った。
今まで花と接する機会が全くなかったばっかりに、よかれと思って大失敗をしてしまった銀子さん。これからはきっと大事に花を育ててくれるだろう。こんなにも花を好いてくれるのだから。
そういう人がいてくれるとうれしくなってくる。花屋冥利につきると言う奴か?
この後、汚すぎる部屋から脱出し、自動販売機でジュースを奢ってもらった。
「あれ? 菜ノ花ちゃんって店長の娘さんだよね? お店手伝ってるのにお店は継がないんだ?」
「まぁ、まだ決めてないんですよ」
「こんなに花が好きなのにねぇ。好きなものを扱える仕事をするって素敵だと思うよ。お花屋さんで働く君は輝いて見えたし」
「輝いて? 私が、ですか?」
「でないと菜ノ花ちゃんから買おうって思わないよ。そして私の目に狂いはなかったわけだ」
「へぇ」
そうなんだ、花屋で働く私は輝いているんだ。
照れくさいけど、徹夜の疲れなんて簡単に吹っ飛ぶうれしい言葉だった。