一章 手動転轍機《しゅどうてんてつき》がレールを切り替える。
私は自分の部屋の壁に掛けてあるカレンダーを眺めていた。それは五月のもので、一日から三十一日までの全てにマジックでバツが打たれてある。
私は勢いよくそのページを剥がす。
今日から六月。花屋の手伝いを再開してようやく一ヶ月半が経過した。残り一ヶ月半を乗り切れば、花屋を継げなどという母のたわ言を永久に封じることができる。
なのに何だろう? 最近感じる胸のざわめき。
私は相変わらず花屋の仕事にやる気を見せていない。そのはずなのに、ブーケを作っていると気持ちが沸き立ってしまう。花を買っていくお客の笑顔を見るとうれしくなる。配達に行ったら相手のお店に花が溶け込んでいるかチェックしてしまう。
私はおかしくなりつつある。そのことに戸惑いを感じずにはいられなかった。
カレンダーの横には相変わらず『進路調査票』が貼ってある。先生に事情を説明して提出期限を大幅に延ばしてもらったのだ。
一ヶ月半後、私はここに何と書くのだろうか?
改札正面の壁際に立っていると、ようやく縁の奴が現われた。今日は十三分の遅刻。まぁ、いつも通りだ。
「なのちゃ~ん、おはよ~」
こっちまで走ってくるが、息一つ切らしていない。ここに来るまではずっと歩いていやがったのだ。
抱き付こうとしたので胸元を押さえて食い止める。
「おはよ、縁。だが遅い」
「ん~、手ぇ退けてぇやぁ~。そして朝のキ・ス」
「するか」
そうして乗り込む電車は田舎なりの満員電車だ。一度乗り換えて県立秋篠高校までは四十分ほど。
今日から夏服なので、絡みついてくる縁の腕とは直に接することになる。
「どお? お店のお手伝い乗り切れそお?」
「まぁ、このペースなら大丈夫っぽいね。あの母親も最近はキツいことしてこないし」
「はぁ~、うちらの同棲生活が近付いてきたなぁ~」
「あれ? その話はポシャったんじゃなかったっけ?」
計画はすでに母に露見していたはずだ。黙って事を進めようした報復も縁は受けている。
「んなことあらへん。うち、メチャ頑張って文香姐さん説得するし」
「縁にそんな芸当ができるのかねぇ」
「なんや、やる気なさげやなぁ。うちと同棲したぁないん?」
口を尖らせて身体を揺する。満員電車で無闇に動くな。
「同棲っていうかルームシェアね。まぁ、それは私も楽しみだよ? 縁とそうやって面白おかしい大学生活送りたいから、今花屋の手伝いなんぞに励んでるんだし」
「そやけどなぁ、最近ちょお不安やねん……」
「何が?」
「なのちゃん、お手伝い楽しいなってきてへん?」
縁がこっちの目を覗き込んでくる。その視線はどことなく寂しげだった。
「そんなことないよ? 相変わらずやる気なしでやり過ごすだけだから」
「そやったらええねんけどなぁ……」
縁はいつまでも見つめてきた。
今日も学校から帰るとすぐに店の手伝いだ。相変わらず花の値段は覚えきれていないが、そこは愛想で適当に誤魔化す。
「いつになったら覚えるの?」
千明さんに冷たい視線で言われてしまう。私のことを嫌ってなくても腹が立つのには変わりがないようだ。
菊池さんが現われた。
この老婦人は花屋の常連で、二週間に一回くらいの割合で来店している。
そしてこの人こそ、私がこうして店を手伝う前の四月、店に誰もいないからと私の代わりに花束を自分で作ってしまった人である。ある意味、今やってる手伝いのきっかけとなった人だ。まぁ、それは八つ当たりか……。
「どうだ、そろそろマトモに働けるようになったかい?」
睨むような視線を私に向けてきた。
「いえいえまだまだ相変わらずの未熟者です」
と、愛想笑いの私。この人はおっかないので正直相手にしたくない。
菊池さんは、私が作っている最中のブーケをじっと見ている。とりあえずこっちは置いといて菊池さんの相手をするか……。
「それが終わったら、私の花束を作りな」
「え? 私がですか?」
いきなりのご指名だが、菊池さんは母が作ったものでも注文を付ける厳しいお客だ。私の腕では満足してもらえるものは到底作れない。
「いえ、いつも通り私がしますので」
と、菊池さんの後ろから母が声をかけた。しかし菊池さんは片手でそれを制する。
「私はこの子が作った花束が欲しいんだ。あんたは手出しするんじゃないよ」
「申し訳ありませんが、彼女はまだ商品としてそのままお出しできるものは作れないのです。必ず他の者が手を入れています」
「駄目。他の人間が手を入れては駄目だ。この子だけで仕上げたものが欲しいんだよ」
この間、菊池さんはずっと私を見ていた。居心地が悪いことこの上ない。
まぁとはいえ、商品の質にこだわる母が私に一任することはありえなかった。だから早くこの人を説得して! そして私を開放して!
しかしその母は黙り込んだままなぜか私を睨み付けてきた。余計に居心地が悪くなる。
「……分かりました。彼女に作らせます」
「はぁ? かあ……店長! そんなの無理だ……ですよ!」
「いいや、お客様のご要望だ、あんたが作れ。今やってるのは私が替わるから」
「さ、作るんだよ」
何考えてるの、この人等? この時点ですでに私は涙目だ。しかし菊池さんと母の二人は相変わらず私を睨み続けている。どうする? どうやって逃げる?
この時、心の奥の方から変な奴が浮かび上がってきた。そいつはヤバい奴なので、なんとしてでも食い止めなくてはならない。そいつは言いやがるのだ、「やってみたい」などと。
「分かりました。じゃあ、私がやります」
馬鹿野郎、口走ってしまったじゃないか。もう引き返せない、やるしかない。
私は今作っている最中のものを母に渡し、菊池さんと向かい合う。
「どんなふうにしましょうか?」
「そうだね、季節を感じさせながら涼しげなのにしておくれ。年寄り二人だけの家のリビングに置くからあんまりゴテゴテさせないように」
「じゃあ、花菖蒲とあじさいなんかで?」
「そうしとくれ」
青紫色の花菖蒲を数本まとめて花束の芯にする。花菖蒲はスッと背たけの伸びたところに美しさがある。茎までしっかり見えるよう高さを考えながら白いライラックや紫のスイートピーなどを入れていく。淡いめのカーネーションをうまくアクセントに使って。ゼラニウムの葉といった葉物を混ぜながらラベンダーも入れていこう。そうやってまずは花束の中心となる部分を作っていくのだ。
そこから花束を展開させる。あじさいはあまり上へやると全体が重い印象になる。この段階でやや下側に入れるのだ。色が少しずつ違う小さめのものを二、三本使う。さらに葉物を使って花束に広がりを出していく。一緒に青くて小さなブルースターをあしらって。
そして底部に面積の広い葉物を入れていき、花束の輪郭をはっきりさせる。これで花束が閉じた。
花菖蒲が凛と立っていれば成功だ。あじさいとのバランスも見ていく。重心もちゃんと安定している。よし、これで行こう。
「これでどうでしょうか?」
茎を縛る前に菊池さんの目で確認してもらう。彼女は睨むように見ていく。
私の胸の鼓動はどこまでも高まった。緊張だけではない。お客にそのまま出す花束を作るという初めての体験が、私を興奮させていた。
まずはイメージを展開していった。どんな形にしようか? 色彩は? 店にある切花を見て構成を考えていく。店の商品を把握していなかったことを恥じる気持ちが染み出てきた。いや、今は考えまい。
一本一本表情が違う花の中から自分の花束に合うものを選び出す。お前はどうだ? そんなふうに語りかけながら。
しっかりと花の束を掴みながら花を加えていく。差す位置に合せて束を持ち替えながら。こうした手さばきは褒められることが多い。中学の時にしっかりと仕込まれたのを身体が覚えているのかもしれない。少し感謝かな?
少しずつ形を現わす花束は、最初に抱いていたイメージを越える鮮烈な実在感でもって私に迫る。それに気圧されず、しかし抑え付けようとはせず、イメージを修正しながら作り上げていく。
こうした過程は私の心を昂ぶらせる。楽しい? そう楽しい。紛れもなく私は楽しんでいた。このままずっと作っていたいと思わせるほど楽しかった。
そうして出来上がった花束を、私は愛おしく感じた。私はやり遂げたんだ。
さあ、私は自分にできる全てを注ぎ込んだ。この花束を、菊池さんは気に入ってくれるだろうか? 私の胸は高鳴る一方だった。
「まだまだ未熟だね」
菊池さんはそう言った。
「でも一生懸命、丁寧に作ってくれた。気に入った、このまま仕上げておくれ」
「はいっ!」
そして私は花束を縛る作業に入る。
緊張から解き放たれた私はある感情に包まれていた。
その感情が何なのかすぐには分からなかった。これは達成感だ。もう随分長い間感じた事のない、達成感。前に感じたのはいつのことだろうか? 知っている、中学の頃だ。場所は今と同じ花屋。あの頃の私は、毎日店を閉じると今日もやり遂げたという達成感を得ていた。ああ、私はずっと長い間、大事なものから手を離し続けていたんだ。そう気付いて、少し涙が出そうになった。
最後ラッピングまで済ませた花束を、少し名残惜しく思いながら菊池さんに渡す。花屋が作る花束は、お客に渡して完成すると知ってはいるのだが。
「この調子で頑張りな」
菊池さんは最後に笑顔を向けてくれた。
菊池さんを見送りながら興奮が心地良く引いていくのを感じていると、急に頭を鷲づかみにされる。
「よくやった」
母が力任せに私の頭をかき回し、髪をくしゃくしゃにしてしまう。抗議してもやめようとしないので、そのまま好きなようにやらせておいた。
一日を終え、ベッドに横たわった私は両手を天井に向かって突き出す。手を握りしめ、また開く。そうやって未だ消えない感触を味わうのだ。手のひらから、そして胸の内から消えない感触を。
この日、私の中で何かがガチャリと切り替わった。