八章 先輩と親友が出くわすと、大抵私が割を食う。
私と咲乃先輩がお話ししているといきなり怒鳴り声が。
「森田、何してんねん!」
階段を上りきったところで縁の奴がトレーを持って仁王立ちをしていた。
「あんたさぁ、何十分遅刻したら気が済むんだよ。それと、先輩を呼び捨てにするな」
「そんなん、なのちゃんと会うのに三十分なんか全然足らへんもん」
今日の縁はデニム地のジャンパースカート。これは多分初めて見る奴だ。
「いや、そこらにある普段着でいいじゃん。それに三十分後で了承したし、あんた」
「そんなん、はよ会いたかってんもん。メチャ頑張ってんもん」
「そんで三十分遅刻かよ。まぁいいや、こっち来なよ」
しかし縁は身動きしない。じっと咲乃先輩を睨んでいる。
一方咲乃先輩はにこやかに手を振ったりしていた。これは多分、挑発だ。
縁は先輩を見、私を見、自分が持つトレーを見た。
いいとこのお嬢さんたる縁は食べ物を粗末にできない。自分が持つトレーの上のポテトとジュースを、ごみ箱に捨てて帰るという選択肢は彼女にはなかった。
しかし咲乃先輩と同席するのはとてつもなく嫌な様子。
まぁ、カウンターに行けばテイクアウトさせてくれるのだろうが、そこまで知恵は回らないようだ。
「いいからこっち来なよ」
私の言葉にうなずいて、縁の奴はようやく近付いてきた。そして二人掛けのシートにいる私の隣に収まる。
距離が近いので私が少しずれると、奴は追いかけてきてぴったりくっついてきやがった。そして腕を絡ませる。
早々に諦めた私は、隣でぶんむくれている美少女ランキング二位の機嫌を取ってみた。
「かわいい顔が台無しだよ? 縁」
「なんでこいつ、おんのん?」
目の前の三年連続ランキング一位を睨む。
「先輩をこいつ呼ばわりするな。たまたま会ったんだよ」
「ガチ百合の相手を一人でするのは勘弁だってさ」
にこやかに攻撃を開始する咲乃先輩。
「な? こういう奴やねん。イケズとかそういうレベルちゃうねん」
涙目で訴えてくる。ていうか、顔が近い。
「菜ノ花はお店継ぐ方向で動き始めてるんだよ、橘君」
「んなわけあらへんっ! なのちゃんはうちと同じ大学行くんやっ!」
「そうそう、いつの間にそんな話になったんですか? ついさっき、母の思惑には屈しないって話したとこじゃないですか」
「でも菜ノ花はすでに仕事が面白くなり始めてるんだから。そうなったら自分を止められないよ? 口では嫌だとか言ってても、身体は花屋を求めるようになるんだって」
「そんなことないですって。あの母の軍門に降るのだけは嫌ですから」
「そやそやっ!」
「でも菜ノ花、よく考えなって。目の前に充実した日々を与えてくれる何かがあるんだよ? こんなチャンス、人生の中でそう何度もあるわけじゃないんだよ?」
真剣な表情で、咲乃先輩は言ってくれる。
もしかするとそうかもしれない。母の思惑に屈するのは腹立たしいが、ブーケ作りを通して花屋の仕事に面白味を感じ始めている自分もいるようなのだ。自分は何か大きなチャンスを、手にしかかっている?
「なのちゃんあかんで、こないな悪魔の囁きなんか聞いたらあかんで。うちと一緒の大学行こ? そんだけ考えよ?」
縁も真剣な顔を近付けてくる。近すぎるけど。
そう、私は縁と同じ大学に行くと決めている。初志貫徹。揺らいだら駄目だ。
「やっぱり花屋は継ぎませんよ、先輩。あの母に屈するのは絶対に嫌ですから」
「文香の姐御のことは一旦脇に置いときなよ。今の菜ノ花にとって一番大事なのは、自分のやりたいことを見付けることじゃないの? 橘君と同じ大学行ってさ、そりゃ面白おかしいかもしんないけど、絶対物足りなくなるよ? そん時後悔しても遅いんだよ?」
「そないなことあらへん! 被服の勉強も面白いっ!」
「橘君にとってはそうかもしんないけどさぁ、人には向き不向きってのがあって、菜ノ花は花屋に向いてるんだよ。『ポピー』こそ菜ノ花の居場所なんだから。君も友達だったら、菜ノ花の幸せ考えたげなよ」
「なのちゃんの幸せはうちと一緒にいることやっ!」
「それ傲慢だよ、橘君!」
咲乃先輩がテーブルを両手で叩いて音を出す。怯んだ縁が身を強ばらす。
「自分のわがままに親友巻き込むとか、何考えてんの、君?」
「そんなん……、そんなん……」
縁が半泣きになってしまう。
「先輩、別に縁のわがままじゃないですよ。私だって、縁とはずっと一緒にいたいですから」
「なのちゃ~ん!」
縁が私の胸にしがみついてきた。その頭を優しく撫でてやる。こいつとずっと一緒にいたい。それは紛れもない私の思いだ。
「情に流されちゃ駄目だよ、菜ノ花。橘君とはいつでも会えるけど、お店継ぐチャンスは今の一回きりなんだから。もし菜ノ花が継がないってなれば、別の人が跡継ぐことになっちゃうんだよ?」
「まぁ、そうかもしれませんよね。それでいいんじゃないですか?」
「本当にそれでいいの? 菜ノ花にとって『ポピー』って何なの? 今までずっとそこで育ってきて、何の愛着もないってことはないでしょ?」
咲乃先輩が睨むようにして真剣な顔を突き出してくる。
私にとっての『シャーレー・ポピー』? 私はあの花屋が嫌いなはずだ。なのに一ヶ月働いてみて感じた懐かしい感覚。昔店を手伝っていた時にあったような、安心感……?
「あの……、ひとつだけ確認してもいいですか?」
「何?」
「今回も、あの母の差し金ってことは……ないですよね?」
「それがあるんだよ。文香の姐御に言われて説得してるんだ、実は」
しれっと言ってきた。
「はぁ?」
咲乃先輩が自分のシートに座り直す。にこにこしている。
「そろそろ菜ノ花の心に隙ができてる頃合いだから、そこをうまく突いてお店継ぐよう説得してくれって、さっき電話があったの」
「はぁぁぁ……」
ため息しか出ない。
「ほらほらほらほら見てみ、なのちゃん! こいつはとんでもない悪魔なんやっ!」
悪魔は言い過ぎだが、この人が何を考えているのかさっぱり分からない。
「ていうか、なんで毎回ネタばらしするんですか?」
「かわいい後輩の菜ノ花には嘘を付きたくないからだよ。だからホントのことしか言わないし、たまに嘘付いても後でちゃんと教えたげるわけ」
「嘘じゃないけど、真実でもないんですよね?」
「結果的に菜ノ花のためになれば、それが菜ノ花にとっての真実だって!」
などとウインク。悪びれる様子はこれっぽっちもない。
「でも、私が言ったのはホントのことだよ? 一回ちゃんと考えた方がいいって」
「うーん。そうですねぇ」
「アカンッ! なのちゃん!」
首に抱きついてきた縁を受け止める。
「後、そのガチ百合は菜ノ花にとって害悪にしかなんないよ?」
「うち、ガチ百合ちゃうもん!」
縁が先輩を睨み付ける。
「いや、害悪は言い過ぎですよ、先輩」
「でもホントにそう思うもの。菜ノ花、自分で気付いてないかもしんないけど、そこのガチ百合にかなり汚染されてるよ?」
「汚染! うちを毒物みたいに言わんとってっ! 後、ガチ百合ちゃうわっ!」
「実際そうだもの。今だってナチュラルに抱き合ってるけど、友達同士でそんなん異常だからね?」
「異常ちゃうもん! 愛する者同士が抱き合うて何が悪いねんっ!」
「いや、男女の恋人同士でも公共の場じゃそんなのしないし」
愛する者同士かは置いといて、こうやって抱き合ってるのはおかしいの?
「でも、女子同士がじゃれ合いでくっつくとかよくあるじゃないですか」
「そんなにべったり抱き合ったりはしないよ。しかも君ら、普通にキスもしてるよね?」
「それもじゃれ合いの範疇では?」
「君ら、口同士だと何回くらいキスしてんの?」
「さあ? いちいち数えてませんけど」
ファーストキスを奪われたのは中一のゴールデンウィークだというのは覚えているが。
縁の家へお泊まりに行ったら寝起きにしてきやがったのだ。
「三十二回やで」
「え? そんなにしてるっけ?」
「うち、ちゃんとメモってんもん」
「ほら、メモってる時点でおかしいじゃない」
「確かに……」
今のは少し引いてしまった……。
「え? でも二人の記念やんっ!」
「恋人同士でもそんなんしないよ。君ら、ただの友達なんでしょ?」
「そうですよ? あれ? 友達同士で三十二回は多いんですか?」
「多いよ。てか、異常な数値だよ」
そうなのか……。なんかそんな気がしてきた……。
「なのちゃん、丸め込まれたらあかんで? うちら愛し合うてんねんから三十二回は少ないくらいや!」
「え? 君ら愛し合ってんの?」
「え? そんなことないですよ? 愛なんてないですよ?」
「嘘ぉっ!」
縁はこの世の終わりみたいな顔をしているが……。
「私達の間にあるのは友情でしょ?」
「愛やて!」
「いや、別にさ、世の中にはいろんな人がいるから性的嗜好が人と違ってても別にいいと思うよ?」
「性的嗜好とか言わんとって! 生々しぃやん!」
「でもさ、そこのガチ百合は自分と性的嗜好が違う人間を洗脳して、自分側に引っ張り込もうとしてるんだ。なし崩しに既成事実を積み重ねて、純粋な菜ノ花を騙くらかしてるんだよ。親友のふりしてさ」
「そんなんちゃうもん! なんなん、こいつ、言うこと酷すぎやろ?」
もう縁はボロボロと涙をこぼし始めている。すっかり混乱しきって、何がなんだか分からなくなっているようだ。
「どうせ、胸とか揉みまくってハァハァしてんでしょ? 不潔だよねぇ」
「おっぱいは揉んでへんもん!」
「あ、それはホントですよ。胸は揉んでこないです」
せいぜい抱き付いてキスなのだ。
「ああ、それこそガチだわ。自制できる自信がないから胸は自重してるんだよ。何かの拍子に理性が決壊したらスゴイよぉ~。ガチで襲ってくるから」
「そ、そんなんせぇへんもん!」
「ホントにしないよね?」
「なのちゃん、なんでそんな心配げな目付きなん? 親友にそんなんするわけないやん!」
「菜ノ花、何かあったら警察行くんだよ?」
「そんなん言うん、やめてぇやぁっ!」
すっかり涙まみれの縁が叫ぶ。まぁ、警察は言い過ぎである。
「先輩、その辺で勘弁してやってくださいよ」
「全部ホントのことだからねぇ。これでも橘君の涙には毎度心を痛めてるんだよ?」
などと憂い顔だが嘘っぽい。
「マジで勘弁してやってください」
「分かった分かった。じゃあ最後に言わせてもらうとさ、今みたいに膝の上に跨がって抱き合ってるとか、普通はベッドの上でやることだからね。ただのガチ百合に留まらず、とんでもなく破廉恥なんだよ、その女」
「うええええええん!」
ついに縁がガン泣きした。
「おーよし、おーよし。泣くな~、縁~」
私の膝の上で泣いている親友の頭を撫でてやる。
でも、確かにこの体勢は公衆の面前では恥ずかしいのかもしれない。めくれてしまっている縁のスカートを引っ張ってやる。
「うち、破廉恥なんかやないも~ん!」
「は~い、違うよ~、縁は貞淑なレディだよ~」
「菜ノ花はイロイロと考えないとねぇ。あっ、もうこんな時間だ、彼氏待たしてるよ。じゃ、橘君、ガチ百合も大概にしときなよ。菜ノ花、後ヨロでね」
「そうやって毎回最後、私に丸投げするのやめてくださいよ」
「バイバ~イ」
私の抗議は無視して、艶やかないい笑顔で咲乃先輩が去っていく。
はぁぁぁ……。
「ねぇ縁、商店街に棲まう一匹の悪魔は去ったよ。もう泣き止んで?」
「うち、ガチで襲ったりとかせぇへんも~ん!」
「知ってる知ってる、縁はそんな子じゃないよ?」
縁はハンカチを取り出すと、それで自分の目を拭き始めた。ハンカチはすぐに化粧まみれになる。こいつ、ちょっとお喋りするだけなのに化粧までしてきたのかよ。遅刻するわけだ。
「うちら、清い交際やんな?」
「ていうか、普通の親友同士なんだけどね。私達の関係は異常なんかじゃないって。私はそう思ってるよ?」
「ホンマ?」
「ホンマ。だからとりあえず膝から退いて?」
「もうちょっと……」
などときつく抱き付いてくる。もういいや、しばらくこのままで。
でもこれっておかしいのか? 今までこれくらい普通だと思ってたんだけど。
「なぁ、なのちゃん……」
「何? 縁」
「キスして?」
「またかよ~~~!」
毎回これなんだよ。
「ええやん、愛あるキスして?」
「いや、愛はないから。あくまで友情だから。そこだけは納得して?」
「ええ~」
身体を起こすと、身をよじって嫌々をする。
「私達、親友でしょ?」
「まぁ、そおやけど。うん、分かった。うち聞き分ける」
「よかったよ。じゃあ、退いて?」
「友情のキ・スの後で」
「分かってねぇよ、この女~~~!」
「キ・ス」
目を閉じて、唇を向けてきた。無防備なランキング二位の美形がすぐ側にある。
「はいはい、分かりましたよ」
こっちも目を閉じて、軽く触れるだけのキスをしてやる。
相変わらず縁の唇は柔らかく、温かかった。