一章 とにかく商店街がウザすぎる。
商店街が見える。
それだけで私、佐伯菜ノ花は憂鬱な気分に沈み込んでしまう。
陸橋の上にある駅を東口から出ると、バスターミナルを挟んだ真正面に『上葛城商店街』と掲げられたアーチが目に入る。歩行者天国にはなっているものの、アーケードなどというご立派なものはない、実にしみったれた商店街だった。
今からあそこを通らないといけない。
バスターミナルをぐるりと迂回し、信用金庫のある角を曲がって歩行者天国に入る。
「あ、菜ノ花ちゃん、お帰りなさい」
いきなりだ。
本屋の娘さんに二階から声をかけられた。
「ただいまです、響さん」
手を振っているので振り返す。わざわざ二階から言ってこなくてもいいのに……。
こういうところだ。
私はこの商店街の、こういう馴れ馴れしいところがうんざりだった。ただ単に通るだけなんだし、そのまま黙って通して欲しい。
別に今の響さんが嫌いなわけではないし、私にも人並みの社交性というものは備わっている。ただ、私に商店街の連中と深く付き合うつもりがないだけだ。
なのに向こうは構ってくる。
ウザい。
そう、端的に言って、連中はウザかった。
そうして数軒先の八百屋からも声が飛ぶ。
「菜ノ花ちゃん、今日は大根が安いよ!」
「じゃあ、一本ください。後は玉ねぎがないんですけど、ちと高いですねぇ。『タカスギ』さんの方見てからにしようかな?」
「菜の花ちゃんには参ったなぁ。じゃあ、十五円引くよ!」
「よし、買った!」
やってしまった。まんまと商店街のペースにはまってしまった。
こういう自動的に発動される私の愛想のよさにはいつも歯がみさせられる……。
それはそれとして玉ねぎが安く手に入ったのはよかった。この商店街にはなぜか八百屋さんが二軒あるので、こうした駆け引きが可能なのだ。まぁ、私はもっぱらこの『八百森』さんの方を贔屓にしているのだが。
大根に玉ねぎ三つ、それに学校の鞄。結構重い。
一旦家に帰ってから出直せばいいようなものだが、ああして声をかけられたら応えてしまう。
それが私というお調子者だった。
「よっ、菜ノ花ちゃん、最近文香ちゃんに似て美人になってきたね!」
「え?」
振り返ったらアジをぶら下げた魚屋がいた。
はい、お買い上げです。
あーっ、くそっ、六匹も買わされた! ……大根を買っていたのがせめてもの救いと思おう。
ていうか、そもそもがおかしいのだ。
私の母は文香ちゃんだなんて呼ばれる年じゃあない。なのに子供の頃と変わらないような呼び方をし、未だに自分は若いと勘違いした四十六才を産みだすのだ。
夏なんてチューブトップの時だってある。さすがに後ろから蹴りを入れてたしなめるけど、あの女は決してやめようとはしないんだ。恥さらしもいいとこだって!
などと八つ当たりをしているうちにいい匂いを漂わすお好み焼き屋の前を通り過ぎた。
その隣。
『Shirley poppy』と書かれた忌々しい看板を見上げる。
「お帰り菜ノ花。何突っ立ってんの?」
土で汚れたエプロンを着ける「文香ちゃん」に声をかけられた。
「別に何でもないよ」
目を正面にやる。
手前に並んでいるのはパンジーとペチュニアの苗。そこからひな壇になっていてラベンダーやらチューリップやらなんだかんだが並んでいる。奥に入っていくと正面に五桁の値札がついた胡蝶蘭が置かれ、壁に沿ってはバラやガーベラといったブーケなんかに使う生け花が、それ用のバケツに生けてずらりと並べてあった。そのまま買っていける小さめのフラワー・アレンジメントもレジの周りに置いてある。
そう、ここは花屋。どうしようもなく花屋。『シャーレー・ポピー』、私の家だ。
「今日の夕飯、何?」
母が聞いてくる。
「アジの塩焼き」
「魚なぁ、一昨日もでしょ?」
腰に手を当て、伸びをしながら文句を垂れた。
「じゃあ、自分で作りなよ」
「はぁ? 見て分かんないの? 私は忙しいんだよ。暇なあんたがご飯作るのは当然でしょ?」
「へいへい」
言い合いになったら大抵負けるので早々に退散する。
「あ、そうだ。『進路調査票』ってそろそろくれるんでしょ?」
「何で知ってるの?」
実は今日もらったのだが、見せるのはできるだけ先延ばしにするつもりだったのだ。
「サキちゃんが言ってたの。そろそろくれるはずだけど、あんたは絶対出し渋るから注意しとけって」
咲乃センパーイ。
同じ高校の出身で二学年上の彼女は、なぜか母に心酔しているのだった。私だって忠実な後輩なのに、余裕で裏切りやがったか。
今、私の学生鞄に収まっている『進路調査票』は、今日のHRの時間に配られた。
高校三年の四月。
私もいよいよ進路という奴を決めないといけない時期なのだ。
別に今までサボっていたわけではない。宿題はちゃんとしてるし、試験前にはしっかり勉強している。その甲斐あって、学校では中程の成績だった。
そして今、大学、短大、専門学校、就職。様々な進路が私の前に広がっている。
さて、どうしたものか。途方に暮れているのが今の私だった。
「夕飯の後に出すから」
「逃げたら酷いよ?」
母はそれだけ言うと商品の手入れに戻った。
この母のことだ。いろいろ言ってくるんだろうなぁ。
店の中に入っていき、一番奥にある上がり口からようやく家の中に入り込めた。
何故この家は玄関が店の外にないのだろうか? 毎日店の中を通り抜けるたび、私はうんざりしてしまう。
さて、夕食を作らねば。
両親が店をしていて忙しいこともあり、取り決めによって家事の多くは私の役目となっていた。
家業は嫌いだが家族が嫌いなわけではないので、家事をするのはそんなに嫌ではない。最近では料理のサイトなんてチェックしながらそこそこ楽しんで作っている。
今日も無事に焦がさずアジを焼けた。よしよし。
母は文句を垂れ、父は美味しいと言ってくれ、少し騒がしいいつもの夕食を終える。
さーて、このまま逃げたいがそうもいかない。すでに母にはバレているのだ。
遅かれ早かれなので覚悟を決め、例のプリントを母に見せた。
「進路かー」
「進路なんだよ」
「何か考えてんの、あんた?」
何も考えていない。
一応、進路調査は二年の時にもあった。その時もやはり何も考えていなかったのだが、とりあえずで大学進学希望としておいた。
今回もそれを踏襲しましょう。
「大学に行こうかなって」
「何勉強するの?」
何だろう。
そもそも大学でどんな勉強ができるかすらよく知らない。まぁ、なんなとあるだろうと思うのだが、高校の授業を受けていても特に面白いと思えるような教科もなく、引き続き勉強したいことなんて何もなかった。
「まぁ、いろいろと?」
「全然駄目じゃない」
細身の身体をイスに預けて母がため息をついた。
この母は私よりスタイルが良かったりする。
かつて『商店街の虞美人草』などと呼ばれて君臨していた人に呆れられると、本当に自分が駄目人間に思えてくる。
「いや、娘を駄目呼ばわりはどうかと思うよ? そういう親の迂闊な一言で、子供は真っ直ぐ育たなくなるんだから」
精一杯の抵抗をしてみる。
「そういう年じゃないでしょうに。あんたは私が添え木を当ててしっかり真っ直ぐ育てましたから」
「添え木って言うか、懲罰だよね? 人権蹂躙の数々だよね?」
「結果的に真っ直ぐ育てばそれで万事オッケーだから」
さすが、思春期の十三才を一晩トイレに監禁した女は言うことが違う。
殴る蹴るこそないものの、母の懲罰はタチが悪かった。
売り物の菊を折ったからって、その菊の花びらの数だけ店の前でヒンズースクワットとか、十七才の女の子に何させるんだよ。しかも変な客寄せになって売上が伸びたとかゲラゲラ笑いやがって。
あの時は友達も写真を撮りにきたりで本当に最悪だった。
そんなのばっかりだ。
「何かさ、やりたいことはないの?」
背もたれに頬杖をついて母が聞いてきた。
「そういうのを大学に行って見付けるんだよ」
「今見付けなさいよ」
相変わらず強引というか何というか。力任せにガーッて押していく人だからなぁ。
誰でも彼でもそうできれば世話はない。
「私は母さんとは違うんだよ。そんな簡単には見付かんないって」
「またいじけるし。じゃあさ」
母がテーブルに身を乗せた。
にっこり笑いかけてくるのが嫌な予感をかき立てる。
「ここ継ぎなさい。それで万事解決だ」
「はぁ?」
それは最悪の未来だった。
最悪すぎて考えたくなかった未来である。
「いやいやいや、私が花屋を憎んでるって知ってるでしょ?」
「ただの反抗期でしょ? やってるうちに好きになるって」
「いや、ならないし。だいたい条約違反じゃない」
「去年締結された『佐伯菜ノ花の家の手伝いに関する条約』は、その名のとおり手伝い限定の話だって。お店継ぐのは仕事の話なんだから関係なし。お店継げ」
そうなのか?
去年結んだ条約によって、私は花屋の手伝いから永遠に解放され、代わりに家事の手伝いをすることになった。
あれ? 確かにあの条約は私の家の手伝いについて取り決められたものだ。花屋を継ぐとそれは仕事になるわけで、もはや手伝いとは言えない?
あれれ? 完全無欠と思っていた条約にこんな抜け道が?
何がなんだかよく分からなくなってきた。
首を傾げていると母がさらに言葉を投げてくる。
「商店街の娘が家業を継ぐのは当たり前でしょうに。『野乃屋』のみこちゃんを見習え」
「『野乃屋』のみこはどっかおかしいんだって。一緒にしないでよ」
私の家の斜め前にある和菓子屋『野乃屋』の一人娘は二才年下で、生まれる前から店を継ぐと決まっていたと自称している。
商店街に住む子供の鑑と言われているが、商店街が嫌いな私にしてみればただの目障りなチビだった。
「一緒にはしないよ。向こうの方が一億倍は親孝行だからね。やりたいこと一つないぐうたらは大人しくお店継げ。決定だね」
うう、おかしい。何かが絶対おかしい。
今また強引な母親に押し切られようとしている。
私はこの人のこういうところが苦手だ。
しかも若さ以外の全てにおいて私に勝るこの女は、いつだって私を屈服させてしまうのだ。
去年試験で山を外して赤点を取った時は、店に答案を貼り出すかネコ耳を着けて一曲踊るかの二択を迫ってきた。
そしてネコ耳で一曲踊ったら、いつの間にか録画していやがって、ネットで公開されたくなかったら言うこと聞け、と半年くらい脅され続けたのだ。
まぁ、友達に言わせると、その二択でネコ耳ダンスを選ぶ方がおかしいらしいのだが……。
でも録画するなんて思わないじゃない! 思わないよね?
とにかく万事この調子なのだ。
悪辣な母と間抜けな娘。勝負は見えていた。
いいや、だからと言って血と汗の染みこんだ条約を踏みにじられるのは我慢がならない。最後に祖母の力を借りたとはいえ、そこまで持っていくまでの私の苦闘は相当なものだったのだ。
精一杯抵抗してやる。
「いいや、花屋なんて継がない! 私は大学に行く。キャンパスライフを満喫するのっ!」
どんとテーブルを拳で叩いてみる。
そう、私は都会の大学に行って、シャレオツなカフェできゃっきゃうふふとランチとかするのだ。
……いや、女子大生の生活って、いまいちイメージ沸かないんだけどね。
しかし母は耳なんてほじりながら私の言うことは聞いていない様子。
「これってさぁ、保護者のハンコがいるよね?」
くっ、気付かれた!
というか、しっかりハンコ欄があるのだが。
保護者とよく相談して決めるようにと先生からしっかりと念押しされていた。
これは面倒なことになるなとは思っていたが、ここまで最悪な事態になるとまでは想像していなかった。
「ちゃんとしたやりたいことがないならお店継げ。遊びたいから大学だなんて、絶対ハンコを押してやんないから」
にやりと底意地の悪い笑みを見せてくる。顔が整ってるだけに余計に憎たらしい。
「じゃあいいよ、父さんに押してもらうから」
「駄目。菜ノ花の管轄は私。あんたの父さんが、妻と娘のどっちの言うこと聞くかは分かってるでしょ?」
ああ、分かっていますとも。
カカア天下と言う奴ですよ。
前から思ってたけどおかしくない? 普通、父親って娘を溺愛するものでしょ?
なのにうちの父は妻相手に頭を上げようとしない。そして私のおねだりはその大半を却下されるのだ。
ああ、分かっていますとも。
「ちょっと考えさせてよ」
母からプリントを奪い取る。
「よく考えるこった。お店はいつでもあんたを待ってるからね」
ヒラヒラと手を振ってみせた。
やばい、このままではあいつの思い通りだ。