006 赤頭巾とシンデレラの革靴
その年の秋からグラスホッパーが子供を誘拐し始めた。出身も人種もバラバラだが、共通点は魔法使いとしての素質だった。攫われた子供たちの全員の家系に、魔法使いとしての基本的な能力が備わっていた。
マゴット家も同じだった。けれど、家の中でその力を忌み隠そうとする傾向が強かった。
ジェイクは魔法使いの素質がまったくなかった。異常なまでにその素質が見受けられなかった。けれどグラスホッパーは必ずジェイクを攫うとCWUは予想した。ジェイクの母、エリン・マゴットが留学中にグラスホッパーの幹部と接触していたからだ。
エリンが留学していた時、大学の教授にグラスホッパー幹部ゲイシーはいた。周りの誰もが彼は優秀な教授で生徒思いだったと言った。
まさか反社会組織に関わっていたとは、と誰もが口を揃えた。
エリンは卒業後ゲイシーのアシスタントとして滞在していたが、突然いなくなり子供をつれて実家に戻った。その後彼女は未婚の母として息子を育て、病死するまでの間司書をしながら穏やかに静かに暮していた。その間魔法使いとは一切接触をとらなかった。唯一の不審人物がエリンの恋人、トム・スプリンガーだった。彼とエリンはジェイクと一緒に度々外で食事をしたり、遊園地に行ったりしていた。誰もが彼がジェイクの父親だと思っていた。
厳格なエリンの両親は、彼女の死後孫を引き取ることを拒否していた。
ジェイクがそれまでグラスホッパーに攫われずにすんだのは、トム・スプリンガーが住居を点々と変えていたためだろうとCWUは予想した。
トム・スプリンガーは職場から帰った後行方をくらました。同時に、ジェイクの家の付近でグラスホッパーの手下が発見された。トム・スプリンガーがジェイクを売ったのではないかという意見もあった。
CWUはこれ以上子供たちを殺させるわけにはいかなかった。ジェイコブ・マゴットには彼が死んで悲しむ家族も、彼の死を悲しむ友人もいなかった。グラスホッパーがこの餌に引っかかる可能性は半分ほどだったが、それでも決行した。
失敗するはずはなかった。ジェイクは車のトランクに入れられ、数時間後には無事保護されるはずだった。
七十二時間後、見つかった血まみれのトランクの中には、その日ジェイクが身につけていた服と、身体中に付けられた全ての発信機があった。臀部の下に埋め込まれたものも、ナイフで抉りだされていた。
CWUが再びジェイコブ・ノートンと接触したのは一年後だった。グラスホッパーの死体置き場にいた彼は、錯乱していて捜査員に襲い掛かった。彼は数人いた捜査員を行動不能状態に陥らせ、その場で頭を撃ちぬかれて射殺された。
爆発物が仕掛けられていたため、生存者を優先してCWUは避難し、死体はその場に放置された。倒壊した建物の下敷きになった数十体の遺体は掘り出されたが、下水に落ちたか爆破で粉々に吹き飛ばされたか、見つからず行方不明となった者も多い。その中に、ジェイコブ・ノートンの遺体も含まれる。
ジェイクはそのときのことを良く覚えている。頭が痛くなるほど、はっきりと思い出す。頭が撃ちぬかれた瞬間は頭に何かがぶつかったというのに近かった。背中をぶつけて倒れた。
それから後はいっさい音がしない。でも眼が見えていたので、周りで慌しく駆け回るCWUの捜査員の姿が見えた。指先一つ動かせないまま、眼だけ開けて周りを見ているとジェイクを置いてどこかに行く。
誰もいなくなった。視界が徐々に狭くなっていった時、誰かがジェイクに近づいてきた。ゆっくりかすれる視界の中に、一人の武装した捜査官の手が見える。彼がゴーグルを外すと出てきたのはユーリの顔だった。
そこで意識はなくなり、白い部屋で目覚める。
CWUの捜査官に扮して紛れ込んだユーリは、ジェイコブの遺体を回収して、遠い温かい場所に埋葬した。エリンの遺髪が入ったペンダントと一緒に。
それからジェイクは、その寒い北の土地で動けるようになるまで過ごした。そこには他にも人がいたが、ジェイクと関わることはなかった。皆ユーリのように色の白い人達だった。
ユーリはジェイクに銃の扱いや、魔法使いとの交渉の仕方を教えてくれた。ジェイクを兄のように魔法使いとは無縁の存在ではなく、魔法使いの中でも生きていけるようにした。守るだけではなくて闘う術を教えてくれた。
カバンの中から財布と銃とナイフを取り出し、底にあった写真を取り替えた。汚い酒場でユーリはバーボン、ジェイクはオレンジジュースを持っている写真、この前釣りに行ったときの写真に変えた。麦藁帽子と釣竿を持った二人の写真は、平凡で幸せな生活を送っているように見えた。
準備を整えていると、部屋を誰かが叩いた。
「帰ってきてる?」
アルの声にジェイクは驚いてドアを開けた。いいにおいがした。
「メッシャーから聞いた。今日の夜用事がはいったって。」
差し出されたのはマグカップだった。いい匂いのする、溶き卵の入ったスープだった。
「これ、鮫の? 」
「食べたらレジに置いてくれればいいから。」
スープを持たされたジェイクは、アルの袖を掴んだ。
「匂いで分かる。このスープ美味しい。」
ジェイクの出した代金を、アルは受け取った。
「トラブル? 」
アルが気にかけるように言った。
「まだ、わからない。」
ジェイクは素直に言った。
「何かあったら俺にも言ってほしい。助けるから。」
マスク越しにまっすぐにアルの視線を感じた。ジェイクはうなづいた。なぜだろう、アルはやはり殺し屋で、魔法使いで、硝煙のにおいやその動作からは大勢殺したことがうかがえるのに、ひどく優しい顔をしている気がする。
あの日、ジェイコブにもアルのような友達がいたら、CWUのところにはいかなかった。そう思うと、涙が浮かんだ。
「ジェイク? 」
「……なん、でもない。兄さんのこと、思い出しただけ。」
アルがそっと、ジェイクの肩に手を置いてから抱きしめた。
涙が止まった。頭の中が悲しみが追い出されて、驚きが何倍にも膨らんだ。
「ごめん。」
ぱっとアルが手を離した。ジェイクが硬直したのを、怖かったからだと勘違いしたように言った。
「妹が悲しんでいた時、抱きしめてあげると泣き止んでくれて。ごめん、その、うっかり。」
慌てて言う声が本当に自分でもついうっかりやってしまったという風だったので、ジェイクは笑った。
「でも、涙とまった。」
ジェイクは笑った。
「妹いるの? 」
「あー、うん。妹は俺みたいなのじゃなくて、普通の女の子だよ。このくらい。」
人さし指と親指で作った大きさなら、アルの顔よりも小さな女の子だ。
アルがダイナーに戻っていくと残してくれたスープにジェイクは口をつけた。ゲルニカの料理はおいしいだけじゃなく、体の中から温まる。この街は暖かいほうだけれど、ゲルニカの料理を食べると体がほっとする。ユーリと一緒にここを離れて、戻ってきてゲルニカのスープを飲むと、本当に帰ってきたと思った。
アルもそうなのかもしれない。ゲルニカは無口だけれど、作る料理はどれもおいしくて温かい。この町は暑いのに、みんなゲルニカの作る温かい料理が好きだ。難しい話をしにきた魔法使いたちも、ゲルニカの料理を食べている間は全員眉間のしわがゆるむ。
ユーリはジェイクが仕事を手伝うとき、この仕事では失敗や妥協をすればそこでおしまいだと言われた。失敗すれば死んでも償えない。依頼人に殺され、失敗したまま終わるしかない。辞めたくなったらいつでも辞めれる。自分の代わりは何人もいる、ハンバーガー屋の紙ナプキンみたいなものだ。
ジェイクはユーリと同じ道を選んだ。ゲルニカのように誇れる仕事をしていることが、うらやましいと思うこともあるけれど、ユーリと一緒にいられるなら、それがどんな場所でもよかった。
ジェイクはスープを食べ終わると、荷物を整理して部屋の鍵をしめた。一眠りして体力をためておく。ナイフはそばに置いたまま、携帯電話を握って、いつ着信があってもわかるようにした。
アインは赤いドレスを用意していた。首に大きなダイヤのネックレスもつける。ジェイクは値段は聞かないでおこうと思った。壊したらと思うと、動けなくなる値段だとはわかった。
「ルージッカのお嬢さんがジェイクを気に入っている。話し相手になってやってくれ。」
「私に子供のお守りは無理だよ。愛想ないの知ってるでしょ? 」
ジェイクが振り返ったので、メイクをしていたスタイリストが、ジェイクのあごを掴んだ。
「あの人もそう言った。子供のお守りは嫌だって。けれど俺の面倒みてくれた。」
ジェイクは、思い出は美化されると知っている。ユーリは酔っ払って十歳のアルをつれて、ストリップの店に置いて帰ったことが何度もあると言っていた。
「私といたって楽しくない。」
アインはいつもの暗い色のスーツに、青いシャツを着ていた。癖のついた髪が襟元にかかっているのだが、だらしない印象はなかった。
「あのお嬢さんは口数が少ない。ジェイクみたいなクールな年上のほうが好きなんだろう。」
スタイリストから解放され、ジェイクは立ち上がった。アインは満足そうにジェイクを見た。
「怒られるかもしれない。こんなに綺麗なジェイクの姿をみられないんだから。」
他の女性が聞いたら、失神するようなせりふと笑顔だったが、ユーリに対する嫌がらせが、強いことを知っている。アインは携帯電話に出るため、外に出た。ジェイクは鏡を見て、頬をぐいっと押してみる。こんなにまつげが元気のいい自分は、自分じゃないみたいだ。
「お世辞じゃなく綺麗ですよ、お譲さん。」
ジェイクは振り返る。アインと入れ違いに入ったのだろう、タンタルがいた。
「ミスター・ブラッディーフットマークが見たら、他の男の前に出したがらないでしょうね。」
ジェイクはタンタルのおしゃべりは嫌いじゃなかった。ユーリに敬意を払っているし、タンタルはウォーカーではなくアインに仕えているような気がした。もしアインに何かあって、ウォーカーの名前から外れることになっても、タンタルはきっとそばにいてくれると思った。
「今日会う人を知ってる? 」
「有名な雑貨商ですからね。こういう雑誌見たことないですか? 」
タンタルがビジネス雑誌を出した。二、三枚めくると、トロリーにいた美丈夫がでてきた。その記事の半分は、ブラウンの髪をした美しいキャリアウーマンが写っている。
「綺麗な奥さんだね。」
「怖い人ですよ。夫婦喧嘩に散弾銃を持ち出してくる人ですから。」
女性はきりっとした顔つきだが、顔立ちが今朝会った小さな女の子そっくりだ。
「こんなに綺麗な人を怒らせるようなことするんだ。」
「娘の誕生日より仕事をとったとか、そういう理由だったらしいです。母は怖いですね。」
アインが戻ってきて、二人は一緒にホテルのエレベーターに乗った。フロント係はジェイクだと気づきもしなかった。一階のレストランに行くと昼間の紳士がいた。濃いグレーのスーツにストライプのシャツを着ていて、彼の足元には幼い女の子がいた。不思議な形のドレスで、異国の民族衣装みたいだった。裾にはふわふわのフリルがつき、背中で蝶の形に結んである。
「こんばんは、ユーリは相変わらず遅刻かい? 」
「相変わらずです。いつもは猫みたいに無関心なのに、あの指輪になると犬みたいに一目散に走っていく。」
アインと握手して、紳士は笑った。アインのジョークが気に入ったのだろう。アインは女の子と目線を合わせるために腰をおとした。女の子は紳士の足の後ろをぎゅっと掴んだ。
「私よりも妻に似たせいかな、親指姫みたいに小さい。」
女の子はアインの後ろにいるジェイクを見た。昼間見たときとは格好も違うし、化粧もしているのだが、彼女はジェイクだとすぐに気づいたようだった。にこっと笑った顔が可愛い。
「無口な子供は、その分賢いそうですよ。考えてから話そうとするから。」
ジェイクはそう言いながら、女の子に近づいた。テディベアのリボンに書かれたつづりと、ナンバーを確認した。
「恋人の名前はジョー? 」
女の子の持っているテディベアと握手すると、女の子がにこっと笑った。
紳士が異国の言葉で何か説明すると、女の子は紳士を見てから、ジェイクを見た。ジェイクとアインの名前が出てきたので、紹介していたのだろう。女の子はジェイクの手を握った。
「ラクシュミーがなつくのは珍しい。」
ジェイクはアインを振り返った。
「私、女の子が喜んでくれるようなことをし続けられる自信ない。」
「謙遜しなくていい。自信を持って。」
なにをどう自信をもてばいいのか、ジェイクにはさっぱりだった。
ラクシュミーには父親たちの話には退屈だったらしく、デザートのアイスクリームを食べ終わるとジェイクにヌイグルミを見せていた。かまってほしいらしい。ジェイクが残ったアイスクリームを一口でばくりと食べると、ラクシュミーは目を大きく開いた。こんな下品な食べ方をする女性は、見たことなかったのだろう。
「せっかくなので露店を見せてあげていいですか? お嬢さんには今後の世界情勢や市場の話は、明日の天気より興味がないでしょうから。」
ルージッカが噴出した。アインは正直なジェイクの言葉に、力なく笑った。
「ユーリの言葉を思い出すよ。」
経済回復や発展途上国の支援を議論しても、結局は自分が貧乏人になるのは嫌だからスルーするんだろ。そんなことよりさっさとそのバーボンを開けてくれ。
ジェイクはこの前の酒の席で、ユーリが言っていたのを思い出した。お嬢さんはジェイクが立ち上がったことにより、何かが変わるのだと思って目を輝かせた。ジェイクが手を差し伸べると、笑顔を浮かべた。
ジェイクがレストランを出たとき、軍人かと思うほど背丈と肩幅が広いスーツの男たちがついてきたが、ラクシュミーの護衛だとわかったのでそのまま連れて行くことにした。ホテルを出た瞬間、並んだ店の鮮やかな看板がラクシュミーの目をちかちかさせた。クッキーの店や小さなカフェ、アイスクリーム屋、アクセサリー屋、ブランドの店もまだ明るい。ラクシュミーが右を見たり、左を見たりしている。
オウムを肩に乗せた老人が近づいてきたが、護衛に気づいて迂回して通り過ぎていった。占い師がこっちに寄りかけたが、護衛を見てやはり迂回した。ラクシュミーが大きな赤と青のオウムを見て目を輝かせて、通り過ぎる背中を見ていた。観光客をカモにしている商売人も、自分たちにはかかわらないほうがいいと気づいたのだろう。
ラクシュミーはアクセサリーの店にぶら下がっている、キーホルダーをじっくり見て、隣の服屋でハイビスカス柄のワンピースの前で動かなくなった。彼女の着ているドレスのフリルくらいの価値しかない、安物だ。ラクシュミーのテディベアの半分もしないワンピースだった。ラクシュミーは、肩からさげていたポシェットから、携帯電話を取り出した。さっきのキャリアウーマンがすっぴんで、ラクシュミーと頬をくっつけあってケーキを作っている写真が出てきた。つりあがった目じりが下がり、睨みつけるようだった眼差しが草食動物のように優しい。人の顔はここまで変わるものなのかと、驚いた。
携帯電話の中の写真を見てから、ワンピースを見た。写真のワンピースと同じ柄だった。けれど、ラクシュミーには少し大きい。
「おじさん、布地ある? 」
ジェイクは店の店主を呼んだ。店主は布地を出し、ラクシュミーは店主が切ってくれるのを嬉しそうに見ていた。渡された布を、護衛じゃなく自分で持ちたがった。
大事そうにテディベアと布を両方持とうとするが、うまく持てない。ジェイクがヌイグルミを持つことにした。ラクシュミーはどうしても布を持ちたいようだったので、満足したように布を抱きしめた。
向かいのホテルに戻ろうとしたときだった。高いブレーキ音がして汚れた車がホテルに突進した。車が炎を噴出した。玄関の壁にぶつかり、柱を折った。ラクシュミーが驚いて目と口を開けていた。護衛がラクシュミーを挟み、ジェイクはヌイグルミをラクシュミーの腕の間に挟むと走った。
「ここにいて。」
車は広い廊下を走る。レストランの中まで入っていくが、ジェイクは先回りした。茂みを横切り、飛び越え、腰から抜いた銃を車のタイヤに向かって撃った。タイヤがはじけ、スピードが緩んだ瞬間、ジェイクは飛び乗った。運転席にあった顔を蹴り、もう一人が銃を構えたがハイヒールを投げつける。銃に当たって弾がそれた。車の上に飛び乗り飛びかかった。男が口の開けるとのどの奥で炎が見えた。ジェイクはとっさに男の顔を殴る。炎が運転席にめがけて飛んでいった。
車が壁にぶつかり、ジェイクは飛び出した。受身をとって一回転し、目を開けるとアインの靴が見えた。
「スリットの深いドレスにしてよかった。」
あきれたアインの顔が見えた。ジェイクに魔法がきかないとこを知っているが、立たせて怪我がないか確認する。火を吐いた男は動かなかったが、運転席は生きていた。這い出すと、アインめがけて走ってきた。男の周りで放電が起きている。アインは一歩踏み出すと、次の瞬間は刃を握っていた。光の刃が運転手を切り捨てた。一瞬、放電が大きくなり周りは光に包まれたが、男は黒焦げになって倒れていた。
「便利だな、召喚できる剣は。」
アインの手には銀色の剣があったが、一瞬光ったかと思うと消えた。
「疲れます。」
男がアインの部下にはがいじめされている。護衛にはさまれるようにしてやってきたラクシュミーは、それでも布を自分で持っていた。クマは護衛が抱えていた。ルージッカが布ごと娘を抱き上げて、怪我がないことを確認する。
アインは車のトランクを見ていた。ジェイクも覗き込むと、生臭いにおいがした。中は血まみれで、死体が詰め込まれ、一番上に小さな男物の靴が落ちていた。右片方だけだった。ジェイクはその靴を見たことがあった。
アインが連れて行かれた男たちの後を追うように、早歩きで行った。ジェイクは靴をつまみあげた。
「シンデレラ? 」
ラクシュミーが尋ねた。
「うん、いい歳だけどね。」
ルージッカは、この靴をどこでトランクに入れたか問いただしに行ったアインを振り返り、靴を持っているジェイクを見た。
「ユーリのものなのか? 」
「多分。こんなに小さな足をしたおっさん、あの人しかいないでしょ。」
淡々と言うジェイクを見て、ルージッカは気の毒そうな顔をした。
「大丈夫か? 」
ジェイクは手の震えがばれないように、力をこめた。
「うん。仕方ないよ。とりあえずこれ持って帰る。警察に聞きに行くときこの片方を持っていったほうが、話が早くできそうだし。」
ラクシュミーは笑って、何かを言った。ルージッカは苦笑いをした。
「魔法が解けたシンデレラは家に戻ると言っている。」
ジェイクはラクシュミーを見た。ラクシュミーがにこっと笑う。
ルージッカが家の近くまでリムジンで送った。ラクシュミーと手を振って別れ、階段を上っていると知らない女性が廊下にいた。明るいブラウンの髪で、知的な顔立ちだった。着ているものも、白いズボンと桃色のシャツで、シルバーアクセサリーのネックレスもシンプルで気品がある。
アルの部屋から出てくるところだった。アルと親しげに顔を寄せ合って、何かを話していた。映画のワンシーンのように、綺麗な横顔だ。ジェイクは思わずぼーと見てしまった。
女性はジェイクに気づいて振り返った。こんなボロアパートに不似合いな、赤いドレスの女に驚いたのだろう。アルも驚いていた。ジェイクも化粧をして会ったのは、初めてだった。汗と埃で汚れていたが。
ジェイクは不躾にじろじろ見ていたことを恥ずかしく思った。回れ右して逃げ出したいほどに。けれど、自分の家はアルの部屋を通り過ぎた場所にある。
「こんばんは。美人の恋人だね。」
それだけ言って自分の部屋に逃げ込んだ。こんなにすばやく鍵をかけ、チェーンをかけることができたのは、普段の防犯意識のおかげかもしれない。入ったところで何かにつまづいてこけた。脱力して、そのまま倒れた。
ユーリの靴が目の前に転がっていた。この持ち主はどこに行ってしまったんだろう。自分を置いて、どこかに消えてしまった。ジェイクは薄暗い部屋の中で、電気もつけずに靴を見つめた。
こんな形でユーリは自分を置いていってしまうのか。いつか来るとは思っていたが、今日だったのか。
ジェイクはのろのろ起き上がった。今までここが自分の家だと思ったのに、今はこの場所がジェイクにそっぽを向いているように思えた。ジェイクを異物だと思うように、冷たく寒々しい。ジェイクは靴を拾い上げた。靴は左片方だった。
ジェイクはベッドを振り返った。シーツが盛り上がっている。部屋の明かりを点けて、シーツの上から体当たりした。うめき声がした。
「なにやってんの? 」
シーツの下にある顔に、ジェイクは尋ねた。うめき声がしばらくして、答えた。
「あのな、俺は昨日から寝てない。携帯は壊れるし、海賊に死体と一緒にトランクに詰め込まれた。おかげで靴を片方失くした。もう寝たいんだ。」
ジェイクは抱きしめられ、あやすように背中を叩かれた。
「悪かった。だが生きて戻ったぞ。」
ジェイクは抱きしめられたまま、携帯電話のボタンを押した。しばらくして、恐ろしいぐらい静かな声のアインが出た。電動のこぎりを動かしているような甲高いモーター音がしていた。
「アイン、ミスター・ルージッカのお嬢さんは正しい。魔法が解けたシンデレラは自分から家に戻ってくる。」
ジェイクは携帯電話をユーリの耳に当てた。
「もう耳を切り落としましたよ。」
怒鳴り声にユーリがびくっと震えた。ジェイクは開放され、ベッドの脇に置かれた机を見た。指輪が置いてある。
「わめくな。」
「わめきたくもなるだろう。ホテルの玄関は壊され、お前さんは死体のつまったトランクの中に靴を置いていったんだぞ? 」
アインの次に出たのはミスター・ルージッカだった。ユーリが目をぱちくりさせる。
「来る前に連絡くれよ。なんだ、また一人か? 嫁さんの目を盗んで遊びに来たんだろう。それともついに離婚したのか。」
ユーリの会話する声を聞きながら、ジェイクは顔を洗い、メイクを落とすとシャワーを浴びた。それからハンモックに乗った。疲れがどっと出て、目を閉じた瞬間に意識が消えた。