005 赤頭巾と来訪者
白い壁が見えた。白いカーテンがひらひらゆれている部屋がある。母さんの声がした。母さんが泣いているようにも聞こえた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
やせ細った母さんが泣いている。ジェイクは、パズルをそろえても、母さんはもう二度と笑ってくれないんだと気づいた。
ユーリが、子供みたいに泣く母さんの背中をなでている。優しく、穏やかな顔で。何度も何度も優しく撫でている。
母さんがユーリに抱きついて泣いていた。
ユーリの手が母さんから離れていく。母さんの枕元にあった、真っ白な粉の入ったビンを手にして、ジェイクの肩を押す。入れ違いに、母さんの両親が入っていった。泣き声と、怒鳴り声がする。ジェイクは振り返った。背後に、真っ黒な服を着た人だかりが見えた。
ユーリはそこを振り返ったりしなかった。ジェイクは母さんにさよならも言えなかった。
いつの間にか瓶が手から消えている。ジェイクは誰もいないアパートの中にいた。窓の外から、街の喧騒が聞こえる。ここは、母さんが死んでから暮らしていたアパートだ。
扉がこじ開けられて、入ってきたのは武装した男達だった。銃を構えて椅子を蹴飛ばし、ソファーの隅にいたジェイクに銃を向けた。
クッキーの箱を持ったまま、ジェイクは驚いていた。部屋から抱えられるようにして連れ出され、車に乗せられ、わけがわからないまま連れて行かれた真っ白な部屋には中年の優しそうな女性がいた。
何日もほったらかされて、可哀想に。怖かったでしょう。という彼女がチョコレートとナッツのついたドーナッツを差し出したが、そればかりは食べられなかった。
「ジェイコブ・マゴット。君の協力が必要だ。」
低い声が抑揚なく、背後からした。振り返ると茶色の髪に青い目をした男がいた。地味な色のスーツを着ていて、冷たい表情だった。ジェイクはユーリを目で探した。けれど周りは知らない人だらけだった。親切そうな顔をした、民生委員の女、警察、スーツを着た男たち。
「グラスホッパーのゲイシーを捕まえるのに、協力してほしい。これが終われば君は父親と一緒に暮らせる。」
嘘だ。ジェイクは口の中で小さく呟いた。
耳元で携帯電話が鳴った。ジェイクは携帯電話を探して、間違えて枕元においているテディベアを掴み、それから携帯電話を掴んだ。メールが一件入っていた。
懐かしい夢だ。最近昔の夢ばかり見る。あの日チヨと一緒に会ったグラスホッパーのせいだ。ジェイクは眉間に皺が寄るのが自分でもわかった。
今さらどうして自分たちの前に現れるんだ。それも死人の姿を借りて。どこまでも無神経で嫌な奴らだ。バロウズが追い出してくれればいいのに。
胃の中がムカムカして怒りが爆発しそうになると、ジェイクは何かをぎゅっと握って落ち着くようにしている。ユーリの服の袖だったり、枕だったり。ユーリの袖の次に効果があるのはこのでテディベアだ。ユーリが昔買ってくれたシリアルナンバー入りのヌイグルミは、微笑んでいるような顔をしている。しばらく抱きついてからハンモックから降りてベッドを見ると、ユーリの背中はなかった。
久しぶりに胸のうちをぐるぐると黒いものが込み上げてくるのは、きっとユーリがいないからだ。ユーリがいなくなるのは、CWUに接触された時以来だ。
ジェイクは洗濯物を洗濯機の中に入れて、その間に顔を洗った。歯を磨いて鞄を用意して、服を着る。パソコンを立ち上げるとニュースが上がってきた。
洗濯物はすすぎも脱水も終わっているので、ベランダから干した。隣のアルの部屋は、すでに洗濯物が並んでいる。天気がよくて水平線までよく見えた。もうボードを抱えた観光客がいる。
この街は観光客が多くて、白い砂浜が自慢だから夏は一番人が多い。
ジェイクは朝食を食べにダイナーに向かった。朝食のセットはベーグルとコーヒーが基本で、それにサラダがついたり、ベーコンがついたりする。珈琲とブルーベリーベーグル一つ、半分のオレンジがジェイクがいつも頼むセットだ。小さなテレビが流す賞金首と、戦争、観光客向けのクーポン情報を聞きながら十五分で食べ終わる。アルがおかわりのコーヒーをそそいだ。
「お父さんは? 昨日から帰ってないみたいだけど。」
アルがミルクも添えながら言った。
「忙しいみたい。宝探ししてるのかも。」
ジェイクの言葉に、アルは微笑んだ。
「トムはまた帰ってこないのか? 」
店の奥にいた老人が、眼鏡のずれを直しながら言ったので、ジェイクは顔をあげて言った。
「子供じゃないんだから、帰ってこなくても平気だよ」
「お前みたいな小さな娘をほっておくのは良識のあるやつのすることとは思えんがね。」
ジェイクは小さくない、と言おうとしたが、アルが老人にコーヒーを差し出した。コーヒーを飲んでいれば黙ってくれる。だが、老人は手を振った。
「じゅうぶんもらったよ。」
杖をつきながら老人は出て行った。チップもしっかり残して。
「海賊王の一人が捕まったって聞いた? 」
アルは話を変えようとした
「ネットで見たよ。」
ジェイクはコーヒーをごくんと飲み込んだ。
「鮫に上半身食われてたところを海軍が拾っただけみたい。」
ジェイクはハンバーガー屋の宣伝をながめた。安っぽくて油っぽいハンバーガーに、大の大人が徒競走みたいにいっせいに走っていく、インパクトのある宣伝だった。
「その鮫をゲルニカが仕入れに行ってる。」
どうりで顔を見ないわけだ。ジェイクが渋い顔をすると、アルは笑った。
「スープにしたら旨い。不味かったら今日の昼飯は俺のおごり。」
机の上にアルが紙袋を置いた。中身は、ジェイクの好きなチーズとハムのサンドイッチと、ブルーベリーパイだ。
「大家さんが教えてくれた。」
何もかもアルには先回りされてしまう。ジェイクは紙袋を掴んで残ったコーヒーを飲み干した。
「ご馳走様。」
ジェイクはのどがつまったような声で言った。
「いってらっしゃい。ジェイク。」
アルが店の扉から手を振った。
アルの声を聞くと少しだけ胸の奥のイライラが治まった。機械で捻じ曲げた不気味な声のはずなのに、喋り方が優しいからか安心する。仕草も、身のこなしも、素早く油断がないのに、優しい。これはアルの魔法なのだろうか。自分にはかからないはずなのにと、イライラの代わりにもやもやとしたむずがゆい気持ちが込み上げる。不快ではないのだが、緊張感を削いでしまう。
海沿いの道に出ると、トロリーがやってくる。屋根はあるが、運転は荒っぽく窓はなくふきっさらしで防ぐものがない。景色を見たがる観光客が好んで使うので、今日も人がぎっしり乗っていた。ジェイクは一番後ろの席に座り込むと、のん気そうにカメラを持っている観光客を見た。
隣を見ると、ジェイクのそばに座った女の子が外を見たそうにしている。不安定なトロリーが揺れると、飛び出さんばかりに揺れるので、父親らしい中年の男が抑えていた。女の子は両手でしっかりと、ブラウンのふわふわの毛皮のテディベアを抱きしめていた。
「かわろうか? 」
ジェイクが言うと、小さな女の子が目をぱちくりさせた。言葉がわからないのだろうか。トロリーが停まりジェイクが立ち上がると、男が言った。
「ありがとう。」
この国の言葉だった。それも、訛りもないテレビで聞くような発音だった。
男の格好はどこから見ても観光客らしかった。焼けてない肌、薄い色のシャツと長いズボン。女の子も白い肌と袖なしのワンピース姿だった。ジェイクは軽く頭を下げると、トロリーを降りた。女の子が男と一緒に、窓から手を振った。ジェイクが振り返すと男は言った。
「ダーマー・ジュニアによろしく。」
ジェイクの手が固まった。トロリーはそのまま進んでいった。ジェイクは今の男を見たことなかった。けれど、今の男はジェイクを知っていたのだろう。それがいい意味なのか、悪い意味なのかはジェイクにはわからなかった。
回れ右をし、ジェイクは立派なホテルを見上げた。この町でも数えるほどしかない、広い庭と純白の外装をもつ金持ちしか泊まらないホテルだ。ジェイクは自分の格好が場違いだということはわかっていたが、抵抗なく入った。
ホテルのフロントは一瞬、ジェイクを見てぎょっとした。白い安物のシャツ、太ももの見える短いズボン、飾り気のないサンダル、不恰好な肩掛けカバン。ノーメイク。見るからに客とは思えない。フロントが駆けつけるその前に、スーツの男が来た。アインがいつもつれている赤毛の男だった。
フロント係が頭を下げ、スーツの男がジェイクのそばに歩いてきた。
「お嬢様、どうぞこちらへ。」
促されてジェイクは目を丸くしているフロントを眼の端で見た。
「こんな格好で来てごめんね。」
「お気になさらず。この前のワンピースも素敵でしたが。」
「それは忘れて。」
エレベーターが止まり、ジェイクが出ようとした時に目の前に二人男が立っていた。サングラスをつけた男のうち一人は着崩し、もう一人は対照的にネクタイまでぴしっと締めている。二人共まだ若い。
「あれ? お嬢様花柄ワンピは? 」
ネクタイを締めたほうが言った。見た目に反し軽い口調だった。
ジェイクは思わず赤毛の男を睨んだ。
「俺じゃないですよ。ぼっちゃまです。」
「とてもお似合いだったようで、お眼にかかれず残念です。」
着崩したほうが静かに言う。ジェイクは顔を背けた。
ひらひら手を振ってエレベーターに乗っていくが手を振り返す気も起きなかった。
赤い絨毯を歩き、キラキラしたシャンデリアの下を通り、案内された部屋にはこの前傘をさしていた老人がいた。プルプルしながらティーポットを高く掲げてお茶を注ぐ。
「いらっしゃいませお嬢様。」
声も心なしか震えているような気がいつもする。
「おぼっちゃまは急なお客人の対応で遅れております。しばしお待ちを。」
あそこまで震えているのに、カップの周りにお茶はこぼれていない。
「いただきます。」
あまずっぱいリンゴの匂いのするお茶にジェイクはアルの紅茶を思い出した。アルのお茶も美味しかったけれど、ここで飲むのもまた格別だ。
アインには七人の直属の部下がいる。ダーマー死後ウォーカー家に入るのはただ血の繋がりがあるだけでは認められず、そのために各地の魔法使いたちと縁を持ち、またウォーカーのボスだったアインの祖父を納得させなければならなかった。
その過程で手に入れたアインの部下たちは共通点があると言えば忠誠心くらいしかない。得に赤毛の男タンタルはアインのそばで秘書のようにスケジュールを管理し、公私共に片腕と言ってもいい。
お茶をいれるのが上手い老人、タングステンは代々ウォーカーに仕えてずっとお茶をいれている。彼にお茶をついでもらえるようになるのが、ウォーカーの者と認められた証拠だと、タンタルから聞いた。
お茶を下げる小さな背中を見ながら、ジェイクは天井を見た。高い。そして広い。ダイナーよりもまだ広い。落ち着かない。
「ミスター・ユーリはお嬢様にも何もおっしゃっていないのですか? 」
こくりとジェイクはうなづいた。
タンタルに限らず、アインの部下の七人はジェイクやユーリにも敬意を払う。アインが二人を大事に思っているからだと以前タンタルから聞いた。
「最近、一人で仕事に行くこともあるみたいだし。私足手まといだから置いてかれてる。」
ふむとタンタルが顎に手を置いた。
「ミスターにはあなたに見られたくないものがたくさんあるのでしょう。こう言ってはお嬢様に失礼かもしれませんが、あなたはこの街で一番キュートな殺し屋だといわれているくらい、力を持ちつつありますよ。」
「私この街に来てからまだ殺人はしていないんだけど。かろうじて。」
そんなあだ名が付いていたことは知らなかったが、誤解もいいところだ。
「お嬢様。あなたがバス停にいたとします。隣には同じバス待ちの男が一人、するとドコからともなく赤いフードの女の子が現れ、腰から抜いたナイフで男を脅すわけです。しかも、その仲間と思しき男は突然足から血を流して倒れた。一部始終見ていた者はあなたが魔法使いを制裁にきた殺し屋だと思いますよ。」
「あれは、隠れているほうをおびき出すためだし。油断するし。」
「ええ、この街の賞金首たちは女の子におびえていますよ。隣で恋人に電話をしている女の子が、突然蹴り上げてナイフを突きつけてくるのではないかと。若い女性への犯罪も減ったそうです。」
いいことなのに腑に落ちない。
「教え方がうまかっただけだよ。アインにも、色々教えてもらったし。」
「俺がどうした? 」
突然奥の部屋が開いてアインが出てきた。
「お嬢様がぼっちゃまに新しい技を教えてもらいたいと。」
タンタルが意味深に笑った。
「それはまた今度に。呼び出した上待たせてすまなかった。朝食は? 」
「食べた。アインは? 」
「コーヒーを飲んだ。」
いつもよりも素っ気無く、疲れている様子だった。ジェイクがタンタルを見ると、肩をすくめた。
宿泊客ではなく従業員用のエレベーターに乗り、タンタルがカードキーを入れると消えていた階層が現れた。ボタンをめちゃくちゃに押すと、エレベーターは下に下がった。暗号なのか、いつもボタンを押す順番が違う。
「私、やっぱりクビ? 」
ジェイクが言うと、アインは少し言いづらそうに言った。
「あの店は、たたむ。店主も歳だ。」
店主には悪いことになったと、ジェイクも反省した。
「ウルフヘッドのファミラの話はバロウズ兄さんから聞いたが、うちに来ていたとは。」
「知らなかったの? 」
アインがジェイクを眼の端で見た。
「知っていたのか? 」
「だって、いつもマスク付けて……あ。」
あのマスクごと幻覚だったとしたら、ジェイクにはおかしな男に見えるが、他の眼には普通の人間に見える。ゲルニカとメッシャー自体が異様なので気付かなかったが、一般客が受け入れていたのだからあのマスクはジェイクにしか見えなかったのだ。
「ごめん。てっきり知っているかと。」
「その男のことをユーリは知っているのか? 」
ジェイクは思い返したが、アルと顔を合わせたのはユーリがいない時だ。ユーリもダイナーを覗いていれば気付いただろうが、どうだろう。
「その男は俺が調べる。ないと思うが、一人で会うときは警戒を怠るな。」
すでに部屋に招きいれたことは決して知られてはいけないと思った。
「あの、店長は無事? 」
「無事だ。店から早々に逃げ出したのでジェイクの生死は確認していないと気に病んでいたから問題ないと言っておいた。」
アルがさっさと抱えて連れ出したのは見られなかったらしい。ほっとしながら、店長も無事でよかった。
「今朝、海賊王の下半身が見つかったのを見たか? 」
「見た。」
「そいつがダーマーの指輪を持っているらしい。ユーリからジェイクにも連絡がなかったのか? 」
「今日は帰れないかもしれない。また連絡するって。」
アインがため息をついた。
扉が開いてまっすぐにそのまま歩くと、小さな部屋に出た。棚には粉の入った瓶や、幾重にも呪文字の書かれた帯が巻きつけてある四角いものや、丸い楕円のものが並んでいた。ジェイクはその中に、安っぽい炭酸水のペットボトルを見つけた。この部屋に似つかわしくない、鮮やかな色をしている。ジェイクが手を伸ばしたとき、アインが手を掴んだ。
「試しに作った増幅薬だ。ジェイクは魔法が通じないが、使うのが難しい。制御しきれなくて周りも自分も巻きこむ。」
アインが作るものはいつも大惨事を招きそうな気がすると、ジェイクは思った。
薄暗い部屋のテーブルに何かが安置されている。ジェイクはよく見ようと近づいた。綺麗に並べられたのは、指輪や首飾りなどの宝石だった。
「海賊王ジョーイの胃の中身だ。」
「下半身しか見つかってないのに? 」
「上半身は港の物置にあった。」
ジェイクは察した。
「鮫じゃなくて、拷問されたんだ。」
「しかも部下に。ケチで有名なやつだったからな、一人で宝を小分けにして隠していたから、ありかを吐かせようとしたんだが、吐くまえに体が千切れた。」
ジェイクは気の毒そうに、宝石を見つめた。これを身に着ける勇気は、ジェイクにはない。
「あの人が昨日の夜、拷問に失敗してちぎれたところを見つけた。それから海賊の部下と一緒に宝を探しに行ったんだ。ジェイクのところには帰ってからにしろって言ったんだが。」
アインは苛立ったため息をついた。
「ダーマーのことになると子供みたいにはしゃぐよね。」
ジェイクは携帯電話を見てみた。着信はない。
「見当はつかないの? 」
「ここじゃなくて他の魔法使いの街なんだ。俺はともかく、ジェイクにだけは心配かけるような人じゃないから、連絡をしてくるだろう。何かあったら俺に教えてくれ。」
ユーリはその名を聞けば、魔法使いだろうと英雄だろうと、竜を飼っている城にこもりきって一生を終えようとするくらいの腕前だ。今も賞金首の中では三年ははしゃいで暮らせるほどの大金がかけられている。その男が、お菓子工場でマカダミアンナッツチョコレートの箱を積む速さを競う大会で優勝しているなど、ユーリの殺し屋時代の武勇伝を知る魔法使いは知りたくない。
バロウズはジェイクが自慢したとき、ソファーから転げ落ちるほど笑った。ジェイクが怒ると、チヨが頬をつねってくれた。少しバチバチしていた気もしないことはないが、そのくらいジェイクには腹立だしかった。
馬鹿にせず聞いてくれた中で一番若かったのはアインだ。アインはジェイクが得意げにユーリの賞状を見せると、笑ってすごいと言ってくれた。もしかしたら苦笑いかもしれないが、ユーリは殺し屋としても、友人としても、アインとはよく付き合っている。ダーマーの息子でなくてもそうなっただろうと、アインが言っていた。
ユーリは世界で一番大切なのは、ダーマーの命令だった。今は、その忘れ形見の指輪を集めるのに、夢中になっている。ダーマーが両手の指にはめていた黄金の指輪は、ユーリとダーマーの思い出だからだ。
「アインはすごいな。私、今すごく、かなり、心配だよ。」
落ち着いているアインを見て、ジェイクはぽつりと言った。
アインは他の魔法使いと肩を並べるくらい貫禄がある。表面上は馬鹿にしているけれど、ユーリも自分の次くらいにアインのことを頼りにしている。
「ジェイク、俺もできれば探しに行きたいくらい焦ってる。」
焦りを微塵も感じさせない口調でアインが言った。
「だけど、あの人はいつもこうなんだ。探しに行ったこっちが二次災害に巻き込まれて、本人は家でくつろいでいる、なんてことが多い。ジェイクにもそのうちわかる。」
「でも、グラスホッパーのことを突きに行ったんじゃない? 」
ジェイクの言葉にアインの顔が一瞬こわばった。
「グラスホッパーが兄さんに良く似た人を連れてきてたから。」
「ジェイク、それは……。」
アインが少し間を置いて言った。
「あれは、ジェイコブじゃない。」
きっぱりとアインが言った。
「それは、知ってる。あれは兄さんじゃない。兄さんは母さんと一緒にお墓の中だもん。」
ジェイクはまた胸の奥のイライラが沸きあがってきた。
「私がいやなのは、わざわざ兄さんの姿をして目の前に現れたってことだよ。」
アインの手が肩に触れた。抱き寄せて、こつっと額が当たる。
「ジェイク、魔法使いと関わる時は仕事だと思え。」
ジェイクは眼を閉じた。アインの額に自分の額を寄せる。
冷静さを欠けば死ぬと、ユーリはファミラの仕事をさせる前に言った。ナイフを渡す前に。どんなことがあっても、仕事中は気を抜くな。例え、俺が死んでも、お前は何事もなかったかのように仕事を続けろと言われた。
自信がない。とジェイクは言った。
今はそれでいい、俺がフォローできるうちは。とユーリは応えた。
「心配するのは無理もないが。」
アインが苦笑いした。
「俺がジェイクと同じ歳だった時は、あの人に振り回されっぱなしだった。」
少年みたいな笑顔だ。
「それに、ジェイクはまだいい方だ。俺は何度も娼館に置き去りにされた。」
酔って気が付いたらアインを忘れて帰ったことが何度もあったとユーリは話していたが、そんなところにも置き去りにされていたのかと気の毒だった。
「でも、兄さんの時は、長いこといなかったよ。」
ジェイクの胸に、思い苦い記憶が込み上げた。
ジェイコブが一人で留守番をしていた日、CWUがたずねて着た日、ユーリは帰ってこなかった。そのままジェイクの身柄は保護という形で家から連れ出された。
アインの手がぽんっとジェイクの頭を撫でた。
「あの人にとって大事なのはダーマーとジェイクしかないんだ。最悪酒がなくても、二人の内どちかかがいれば無人島でも生活できる。そういう人だ。ジェイクを一人ここに置いてどこかに行ったりはしない。」
アインが微笑んで言った。
「だけど、もしも万が一の時は、俺が必ずつれて帰る。ジェイクが探しに行って二次災害にあったら、帰ってきたあの人は間違いなく俺の上で死ぬまでタップダンスを踊る。」
タップダンスを踊るユーリが想像できなくて、ジェイクは思わず笑った。
「そういえば今日、アインの知り合いに会った。名前は名乗らなかったけど、ダーマー・ジュニアによろしくって。シルバーブロンドの青い目をした中年の男前。小さな女の子連れてきた。」
ダーマー・ジュニアとアインのことを呼ぶのは限られている。ダーマーを慕う魔法使いだけだ。
「いやなタイミングできたな。」
「誰? 」
「ミスター・ルージッカ。西の魔法使いだ。観光に来るって聞いていたけど、まさか今日来るとは。」
ジェイクは目をぱちくりさせた。
「どういう関係? 」
アインが人相手に苦手意識を持つのは珍しい。
「ダーマーの賭博仲間だ。いい勝負をして、最後にダイヤのエースが出なかったら、ユーリはルージッカの家の殺し屋になってた。」
ジェイクはその未来がさっぱり想像できないが、それほど古い付き合いなら気を使わなければならないだろう。
「ジェイク、今日の夜一緒に食事してくれ。」
「なんで私が? 」
自分は関係ない。ダーマーが死んだ後に生まれたんだから、共有するものがなにもない。
「相手はそのつもりだ。ユーリが目に入れても痛くないほど可愛がっている愛娘を見るついでに自分の愛娘も自慢する気だ。」
「夜は約束があるんだけど……。」
アインが上着の内側から銀色の懐中時計を出した。
魔法使いは皆と言っていいほど懐中時計を持っている。魔法使いの間ではそれが身分証や名刺、本人の価値を表す。
「ジャックリーン・ノートン。これを正式な依頼として受けてもらえるかな? 」
「……分かった。」
ここまでされればジェイクは承諾するしかなかった。
夕方からまた会う約束をして、ジェイクは海辺に行った。それから、海沿いの公園で昼食を食べた。ジェイクが思ったとおり、好物しか入っていない。今日はスープを食べに帰れないので、昼食代を払いに戻ろうと思った。戻ると、アルはいなかったが店主のゲルニカがいた。
「お帰り、ジェイク。」
ゲルニカの足元にいたメッシャーをジェイクはなでた。今日は泥遊びをした子供たちに絡まれたのだろう。白い背中やお尻に小さな手形がついている。
「ただいまメッシャー。でも、今日はまたすぐでないといけないんだ。お昼ごはん代払い戻っただけ。アルは? お昼立て替えてくれたんだ。」
ゲルニカがサイダーを飲み干し、瓶を投げてゴミ箱に入れた。
「ツーブロック先で野菜を買ってる。」
ゲルニカが店の中に入っていく。メッシャーは日向を名残惜しそうに振り返りながら、ゲルニカの後ろをついて行った。仕方なくジェイクも部屋に戻った。
日光が静かにさす部屋は、いつもよりがらんとして見えた。
携帯電話をハンモックの上において、上着を脱いだ。ジェイクはベッドよりハンモックの方が好きだ。寒いところではこんなものは使えないと誰かに言われ、一生ここで暮らす決意をした。テレビをつけながら、荷物を出した。遠くの町で、首のない死体が発見されたというニュースが流れる。政府は魔法使いが関与しているのではないかと推測しているらしいが、証拠はない。
カバンの中身を整理し、机の引き出しにしまったアルバムを見た。気持ちが沈むと癖のように、アルバムを見る。母さんの宝箱もここに入れている。宝箱には母さんが大事にしていた貝殻の形をした、シルバーのピアスが入っている。
母さんはピアスを片方どこかでなくしてしまったと、残念がっていた。あなたが大きくなったら、あげたかったのにと。
最近はほとんど増えないが、少し前に釣りに行った写真がある。ダイナーでゲルニカとメッシャーも一緒に撮った写真。チヨが久しぶりに遠出したと言って来てくれた時の写真だ。写真が増えると、思い出が増えていくようでジェイクは嬉しかった。
遡っていき、母さんとユーリと一緒に撮った写真が出てきた。母さんが入院してから、最近まで、ジェイクのアルバムには空白ができている。
写真の下には母さんの書いた文字があった。
ニライカナイの海。トム、エリン、ジェイコブ。日付は六年前だった。
ジェイクは写真を撫でてみた。眩しい浜辺で茜色のワンピースを着た母さん、ユーリは今より髭が濃くない。ジェイクは二人と手を繋いで笑っている。
眼を閉じてジェイクは思い出す。
昔ジェイクが極北の町で眠っていた時、ジェイコブのそばにずっといた時のことだ。
数年前、眼が覚めた時、真っ白なベッドの中にいた。頭がはっきりしなくて、ユーリが話すにはジェイクは産まれてから一度も眼を覚ましたことがなかったらしい。
身体はとても重くてしばらく動かなかった。頭もはっきりしなかった。けれどジェイクは会ったことのない母さんをはっきり覚えていたし、新聞を見れば自分の身に起きたことと同じニュースや事件が起きていた。
双子だから、繋がっていたんだろうとユーリは言った。
ジェイコブのそばで同じものを見て、同じことを体験して、だから覚えていると言われた。
だからジェイコブに起きた恐ろしい出来事も、ジェイクがはっきり覚えているのだろう。