003 赤頭巾と短髪のラプンツェル
座席に座って携帯電話を開くとメールを確認した。ジェイクに仕事が入っていた。指定された書物を手に入れ、時間までに届けるだけの簡単な仕事。ただ距離があるので帰るのは夕方になる。ユーリなら絶対引き受けない。
昨日の夜、ジェイクが寝てからユーリはどこかに行った。ジェイクには言えない仕事なのだろう。朝、別の仕事に行くと言っていたときはアインと一緒の仕事だと思っていた。内容を教えてくれなかったということは、ジェイクが足でまといになってしまうような仕事だ。
アインは秘書だと言ったけど、秘密があるうちは相棒でも秘書でもない。もっと色んなことを覚えて、相棒になりたい。そのためにはどんな仕事も完璧にこなさなければ。例えそれが、ユーリだったら眉間に皺を寄せて、他を当たれというような仕事でも、ジェイクには選り好みしているような暇はない。バスが着くまでのあいだ、ジェイクは入った仕事内容を反芻した。
ここより治安の良い街にある図書館は、学校が隣接されている。大きなキャンパスと緑の芝生がまぶしい。芝生ではしゃいでいる学生の声。ベンチでいちゃつくカップルもいる。ジェイクにはここは異世界に見えた。
ジェイクはそこで本を二冊返して、外国語の書架に行き本を何冊か借りてバスに乗った。
海の見える停留所で降りて、港沿いの店を見ながら歩いた。数分歩くと教会が見えてきた。今日も正午の鐘を鳴らしている。
海沿いの酒場でポーカーをする男達は皆腕が太く刺青を入れている。天気がいいので外のテーブルに座って、机の上は酒瓶と灰皿、カードで埋まっていた。そのうち一人がジェイクに気付き、わざとらしく言った。
「おい見ろよ、レッドフードだ。」
「一人で歩いちゃ危ないぜ。」
酔っ払ってろれつが回っていない。ジェイクは足を止めた。
「ボスにお使いか? 誰の代わりに来たんだ。」
立ち上がった男がジェイクのカバンの中身を見ようとする。
「雷が落ちてもいいなら、教えてあげる。」
ジェイクが睨むと男は酔いが覚めたような顔になった。
「そ、そうか。気をつけてな。」
一歩二歩と男が下った。ジェイクは再び歩き始めた。
ふっとジェイクの顔の周りに影ができた。顔を上げると、一羽の鳥が空を切って飛んでいく。ジェイクは本を抱えて、教会の脇の長い坂道を登った。大きな高い塔が見えてきて、登りきった広場で、たくさんの大型犬に囲まれている人影が見えた。黒い首輪をつけたゴールデンレトリバーで、十頭はいるだろうか。
「お使いありがとう、ジェイク。」
ゴールデンレトリバーに囲まれた人影が振り返った。短い黒い髪に金色の髪留め、黄色い花のかたちをしたピアスをつけている。白いワンピースに日に焼けた小麦色の肌がまぶしい、黒目がちの女性だった。顔立ちはこの国ではあまり見ない、丸みがあって優しい面立ちだ。
「これでいいかな。私、チヨの言葉は、まだよくわかんなくて。」
女性はジェイクから本を受け取ると、一冊一冊背表紙を見て、笑ってジェイクの頭をなでた。
「ちゃんとあってるじゃないか。ありがとう。」
女性はジェイクの手をとって、一緒に広場の木の陰に座った。ビニールシートがひかれて、お茶とお菓子が置いてある。女性が座ってジェイクの場所をならして座るように差し出した。
犬達は周りでのびのび昼寝をしている。こんなにたくさんの大型犬に囲まれたのは初めだ。
「お願いしたら作ってくれたんだ。私のお勧め、グリーンティー。」
女性がバスケットからコップにいれたアイスクリームを出して、ジェイクの頬に当てた。ひやっとした感触に目をぱちくりさせた。スプーンと一緒に差し出されジェイクは受け取る。
「お駄賃は今渡そうか? それとも口座に? 」
「手数料が勿体無いから今もらうよ。」
交通費とは別に入った中身を確認して、ジェイクは言った。
「もらいすぎだよ。」
「半分はお使い、半分は私の話し合い手の分。」
ウィンクされて言われると、返す気にはなれない。今度来る時にお土産を持ってこようと決めてジェイクはしまった。
チヨはこの港町を治める魔法使い、バロウズの所有物だ。バロウズの屋敷は大きな尖塔のある目立つ豪邸なので、観光客はなにかの名所と思って近づきたがり、ガイドは蒼白になって止めさせる。時々気付かず門の側まで来るが、気付いて走って逃げていく。港にはたくさんのボートを並べ、屋敷の中の調度品もどこから調達してきたのか、異国では国宝扱いのものまである。酒好きで派手なことはもっと好きで、怒らせると大暴れをし相手を屋敷ごと粉砕するたちの悪い魔法使いだ。
ユーリとバロウズは昔同じボスの元で働いていた。兄弟みたいなものなのだが、バロウズは年下なのに敬わないユーリを嫌い、ユーリは無遠慮で騒がしいバロウズを嫌っている、らしい。釣りに行く時は必ずバロウズの港に行くのに、本人達はそう言う。
「後サンドイッチも持ってきた。私の手作りなのでちょっと不恰好だけど。」
柔らかいライ麦のパンに野菜と卵、ツナとオニオンの入ったサンドイッチはとてもおいしそうだ。
「ミスター・バロウズはいいの? 」
「今日お客さんが来るから屋敷で待ってるんだ。一応、モーゼスの分も置いてきたけど。」
にっこり笑ったチヨの手に、金色の輪が光った。
チヨが身につけている金色の装飾は全部、バロウズから逃げられないようにするための魔法がかかっているらしい。
彼女はもともと魔法使い組織の幹部で、抗争により組織は壊滅その末に娼婦にまで身を落として、バロウズに買われた。
初めてバロウズの屋敷に行った時も、屋敷の中で一番警備の厳重な尖塔の中にチヨはいた。チヨの髪は異国のおとぎばなしの姫君のように長かった。尖塔に階段はなく、唯一の上の階に行くためのエレベーターはバロウズの指輪がないと動かなかった。
「チヨと外で二人きりって初めてだけど、ミスター・バロウズよく許してくれたね。」
ふふっとチヨは笑った。
「屋敷から見える範囲ならモーゼスにも見えるからね。」
チヨが振り返って背後の屋敷に手を振って見せた。どの部屋にいるのか、どこにいるのかジェイクには見えないが、バロウズも手を振り替えしているのだろうか。ユーリならきっと屋敷に向かって中指を立てるだろう。
「髪の毛、切っちゃったんだね。」
洗うのが大変そうではあったが、別人のように短くなった。
「外に出るときは邪魔だし、寝ていると絡むし、なによりモーゼスもこっちの方が似合うって言ってくれたから。」
少女のようにはにかんだ。
ジェイクはずっとチヨのそばにいるが、バロウズから逃げようという意思や束縛されて困っているという様子や、ましてや嫌いな男の所有物にされるなんておぞましいというような話は聞かず、この前新しい船でクルージングをした等の惚気話しか聞かない。エレベーターの乗り降りが面倒だから、塔じゃなくて屋敷のほうに部屋が移る日も近いだろう。
「おいしいかな? 」
「おいしい。初めての味。」
ジェイクが味わいながら食べると、チヨが微笑んだ。彼女もすくってアイスクリームを食べる。ジェイクは思い出して、カバンからブルーベリーベーグルを出した。
「温めて食べて。」
ジェイクが差し出すと、チヨは嬉しそうに受け取った。
「ジェイクのところのダイナー、料理もパンもなんでもおいしいな。今度私の国の料理も作って欲しい。」
「ゲルニカはチャレンジャーだからなんでも作ってくれるよ。この前、アインがからかって映画に出ていた料理を指差して頼んだら本当に作った。おいしかった。」
「それはすごい。楽しみだな。」
ジェイクははっと思い出して、尋ねた。
「狼のマスクかぶった魔法使いって知ってる? ファミラかも。」
チヨが少し考えてから言った。
「そうだな。一ヶ月前に聞いた話なんだけど、酔っ払ってたから本当かどうかちょっと疑わしいから話半分でよければ。」
ジェイクがうなづくと、チヨはアイスクリームを一すくい食べてから言った。
「ストリップバーで飲んでいたときなんだがな、斜め向かいの席で男たちが騒ぎ始めたんだって。そこに狼のマスクつけた男がいたらしい。ハロウィンでかぶるような、おもちゃ屋にありそうなマスクで、片目が外れていたって。」
アルだ。ジェイクが聞いていると、千代がサイダーを一口飲んで言った。
「それで五人いたけど一瞬で首をへし折って血を流させずに殺したって。モーゼスが雇いたいって言ってたけど、騒ぎに乗じて一瞬で消えたって。悔しがってたよ。」
ジェイクも空っぽになったコップを返して、サイダーを受け取った。甘さがすっと消え、のどに心地よい炭酸の感触がした。
「どうかしたの? 」
差し出されたサンドイッチを受け取って齧った。シンプルだけどとても美味しい。
「バリスタが狼のマスクかぶってるんだ。アインを殺しに来たのならどうしようかなって。」
チヨがくすくす笑った。
「ジェイクが殺さなくても大丈夫だよ。ミスター・ウォーカーには護衛がいるし、ブラッディー・フットマークもそばにいるし。」
ユーリの殺し屋時代の名前でチヨは呼んだ。
ユーリのあだ名は、その名のとおり殺害現場から足跡だけ残したことを象徴している。ユーリの殺し方は無駄がなく、組織のナンバー2になってからもその座に胡坐をかかず、彼の主人だったダーマーは部下の中で一番好んで可愛がったらしい。
「あの人。ダーマーのそばにいたときってよく笑ってた? 」
ダーマーほどの魔法使いでないと、ユーリの相棒になれないのだろうか。
「仕事中、笑っているところ見たことない。」
ジェイクが言うと、チヨがその頭をなでて、抱きしめた。
「ブラッディー・フットマークは、ジェイクのそばにいるときが一番幸せそうだよ。私は、ダーマーのそばにいたときのあの人を知っているけど、常に気を張り詰めていたな。とても怖くて、今みたいに声をかけられなかった。」
ふふっとチヨは笑った。
「今はジェイクとウォッカがあればなにもいらないって顔してるじゃないか。」
ジェイクはチヨの胸に頭を預けた。自分とは違い、顔の埋もれそうなほどふかふかの柔らかい温かい胸は、同性なのにいつまでも触っていたくなる魅力がある。
「私がもし男だったら、チヨと結婚したかったかも。」
「ありがとう。でもジェイクが男の子だったら、モーゼスがこんなふうに会わせてくれなかったな。」
くすくす笑ってチヨが頬ずりした。甘い香水の匂いがした。
「ブラッディー・フットマークがファミラになって、ジェイクにも仕事をさせているって聞いた時は驚いたな。いつも大事そうにして、モーゼスが撫でようとすると手垢がつくからやめろって怒った。」
なら見せにくるな、自慢か、と怒鳴った声と、それを見て微笑んだチヨの顔を覚えている。
サンドイッチを食べ終わり、千代と一緒に片づけをした。その時、レトリバーたちがいっせいに立ち止まり、どこか一点を見つめた。
レトリバーたちの唸り声でジェイクも顔を上げて見た。
チョコレートを食べる少年がいる。ひどく太っていた。目の下にクマがあり、顔も身体も丸かった。ジェイクをじっと見ている。ハニーブラウンの髪にハニーブランの眼をしていたが、濁って淀んだ眼だ。
犬が威嚇するが、少年はチョコレートをほおばりながら一歩一歩進んでくる。
チヨが立ち上がった。
「何か用かな? 」
少年はチョコレートをほおばった、かと思うとチヨの目の前に立っていた。走っていた、歩いていた、という姿は見えずに瞬きをしたときにはそばにいた。
チヨのこぶしが少年の顔にぶつかった。その瞬間、昼間なのに目の眩むほどの光が走った。雷が落ちたような凄まじさだ。あれではひとたまりもない。
魔法使いの力は元素の加護を受けると何倍にも発揮される。自然現象を扱える魔法使いは元々あった力だけでなく他から力を借りることができる。
チヨは雷神の加護があると魔法使いの間で有名だ。詠唱をしない代わりに何かを殴ったり蹴ると同時に発動する。それはチヨの攻撃力と感情に増幅されて、うっかりその美しさに眼が眩んだ男達は身を持って知らされた。
バロウズの部下たちもそれを知っているので、ボスに対する敬意と同等に触れたときの恐ろしさを考えチヨを軽んじる者はいない。歩く発電所の彼女をどうやって塔に閉じ込めたのか、ジェイクはいつも疑問に思った。
少年は地面を玉のように転がり、犬たちが噛み付こうとしたが、犬の悲鳴が上がった。少年が犬に噛み付いている。
チヨが駆け寄って少年を再び殴ろうとしたが、その前に誰かが叫んだ。老人の声がして顔を上げると、白髪の老人が少年に声をかけると少年は犬から口を離した。
「申し訳ない。この子が粗相を。」
少年は老人のそばに、うつろな目で寄る。
「グラスホッパーにしてはずいぶん危なっかしいものをつれているんだな。」
今まで聞いたことのない、厳しい口調だった。少年は老人の袖を掴んでその後ろに隠れるような仕草をした。
「本当に申し訳ない。お怪我はないですか? 」
チヨは少年が敵意をもっていないことを確認してから言った。
「こちらこそ、女の子を嘗め回すように見ながらチョコレートをほおばっていただけで殴ってすまない。怪我は? 」
「大丈夫です。この子はとても丈夫な子ですから。」
老人は何度も頭を下げながら、少年を連れて行った。チヨは犬をなでた。犬はすくっと立ち上がり、尻尾を振った。怪我はひどくないようだ。
「ジェイク? 」
少年をじっと見るジェイクにチヨが近づいて頬に触れた。
「あの、今の、兄さんに似ていて……。」
チヨの目の色が変わった。
チヨが荷物をまとめてリュックサックに背負うとジェイクの手をつないだ。携帯電話を取り出すと言った。
「私だ。すぐに車を。」
チヨはジェイクの肩を抱いた。ジェイクが振り返ると、よたよたと老人と一緒に歩く姿が見えた。
「気にしてはだめだ。同じ者のはずはない。」
「そう、だけど……。」
あまりに似ていて、ジェイクはもう一度振り返った。二人の後姿はもう見えなかった。
昔のことだった。母さんが病気で死んですぐ、ジェイクはユーリと一緒に寒い街に引っ越した。ユーリはいつも仕事をしていて家にいないことが多かった。何日も家を空けることが多くて、ジェイクはいつも近くの売店にあるジャンクフードを買って食べていた。そのせいで身体が丸くなった。不安や寂しさを紛らわすようにとにかくいつも何かを食べていた。
ある日ユーリがまた家を空けた。いつものことなのでクッキーをかじっておもしろくもないテレビを観ていた。すると誰かが扉を叩いた。
扉を叩く音は、あまりいい音ではない。民生委員のおばさんがネグレクトを疑ってきたり、わけのわからない勧誘だったり、子供相手でも容赦しない相手はいる。
ジェイクはテレビを消して部屋の奥に行った。やがて扉は大きな音を立て、無理矢理何かで外されるような音になった。
「ジェイク。」
肩をゆすられてはっと眼を覚ますとチヨの顔がそばにあった。
「大丈夫? うなされていた。」
額に手をあて熱がないか確認するチヨに、ジェイクは自分が転寝していたことに気付いた。
「大丈夫。寝てた。」
外を見ると炭鉱のそばだった。お礼を言ってジェイクが外に出ると泥だらけの作業着を着た男たちがジェイクを振り返る。防塵マスクをつけていた男が手を振ってこっちにくる。怪しい男だと思ったが、ジェイクはユーリだと気づいて近づいた。
「もぐったの? 」
ユーリがマスクをはずした。
「ちょっとだけな。なにかあったのか? 」
ツルハシをかけて、得意げに笑う。得意げにするところじゃない。ユーリはチヨの車を見つけて駆け寄った。二人が何か会話をしている。ユーリが目の色を変えてジェイクを振り返った。
「トムのお譲ちゃんか? 」
工夫が近寄ってきた。うなづくと、人の良さそうな顔で笑った。
「こりゃべっぴんのお嬢ちゃんだ。」
「おい、俺のだ。煤を付けたら穴倉に突き落とすぞ。」
ユーリが笑いながら言う。
「トム、今日は嬢ちゃんと一緒に帰ってやれ。嫁さんの誕生日なんだろ。」
作業着を着た男たちが言った。
「悪いな。すぐ着替えるから待ってろ。」
ジェイクは着替えに行くユーリを見送った。
「ジェイク、当分夜遊びは禁止してね。もともとしないだろうけど。」
チヨはジェイクの頭をなでて、頬にキスをして、帰って行った。
「あの、母さんの誕生日だってどうして知ってるの? 」
工夫に尋ねると煙草を吸いながら笑った。
「あいつがずいぶん前に写真を見せて自慢したんだ。美人だろってな。息子と一緒に映った美人のカミサンだった。」
ジェイクは目線を落とした。
「兄さんは、もういないんだ。事故で。」
言うと、男が気の毒そうな顔をした。
「悪かったな。」
戻ってきたユーリがカバンを持っていないほうの手を差し出したので、ジェイクは小さな子供のように、ユーリと手を繋いだ。
一言も言葉を交わさないまま、日が暮れた道を歩きながら手を繋いでもらったのは久しぶりだと思った。前はずっと手を繋いでいた。寝る時も一緒だった。そうしないとユーリのほうが不安そうだった。