ここが楽園
そういうわけで私は今、暖炉の前のふかふかの椅子に丸まっている。
気づいたら私は溺れていた。ガチで。呼吸をしようとしたら水がどばっと口や鼻から入ってきて、本気で死ぬかと思った。嫌だ、死にたくなーい!! って本能的に思って、必死に水の上に顔を出そうと身体をひねったら軟らかい砂に足を取られて転倒して……自分が砂浜に倒れていたことに気づいた。溺れかけていたのは、打ち寄せる波が私の顔面を通過して行ったかららしい。
……良かった、とりあえずは生命の危機脱出…………出来たのか?
「ここ、どこ?」
そう、私は全く見たことのない場所に一人放りだされていたのだ。
とりあえず波のかからないところに行こうと思った私の目に飛び込んできたのは白い小さな教会だった。他に見当たるものも何もないし、私はそこに誰かがいますように、と念じながらそこを訪ねた。すると……運が良いことに、教会には一人の女の人――ラプタさんというらしい、が住んでいた。高校の制服のまま浜辺に倒れていた私は全身ずぶ濡れの砂まみれですごく酷い格好だったので、ラプタさんはすぐにお風呂を貸してくれ、着替えまで用意してくれ、今はこうしてふかふかの椅子に座らせてくれている。なんて良い人なんだろう……。世の中、鬼ばかりじゃないんだなあ、って他人事みたいにほっとした。
「カスミ、今日は疲れたでしょ。ハーブティー淹れてきたから飲んでちょうだい」
良い香りと共に、ラプタさんがやって来た。私はお礼を言ってカップを受け取って明るい色のお茶を一口すする……。
「美味しい……。」
素直な感想を口にすると、ラプタさんは笑って自分のカップに口をつけた。しばらく私たちの間に無言の間が広がる……。やがて湯気の向こうのラプタさんの方から声をかけてきた。
「……カスミは何も聞かないのね」
「え……?」
意味をとらえきれずラプタさんの方を見ると、彼女は困ったような笑みを浮かべていた。
「タカシにこういう目にあわされたのは別にカスミが初めてじゃないわ。他の人はみんな、ここはどこなのか、どうやって来たのか、帰れるのか、帰れるとしたらいつなのか、ってうんざりするぐらい聞いてきたものよ」
「あー。分かる~」
ラプタさんが心底困ったわ、という表情を浮かべたので、私つられても苦笑いを浮かべた。ついでに、タカシが杉本のことだって遅れて理解する。
「だって……ここにはきっと杉本のせいで飛ばされたんだろうし。質問するのもされるのも、嫌いなんだ。それに……。」
ラプタさんの話を聞いて、私はここに来てから自分が一度も「帰りたい」と思わなかったことに気づいてしまった。そして今も帰りたいとは思えそうにない自分に気づいてしまった。私は……。
「ねえ、ラプタさん。私、ずっとここにいても良いよね?」
お願いするようにそう言うと、ラプタさんは目を細めるようにして微笑みながら、ええ、好きなだけいて良いのよ、と言ってくれた。私にはそれで十分だった。……つまらない学校生活よりも、ここでラプタさんと一緒にいる方がずっと良い。……おかしいな、ラプタさんとはほんの数時間前に会ったばかりのはずなのに何故だかずっと一緒にいたる気がする。ラプタさんといると落ち着くんだ。ラプタさんはきっと、私のことを一番分かってくれている。……理由なんて無いけれど、それは確信に近いものだった。
こうして私は教会の一室を与えられ、ラプタさんとの共同生活を始めることになった。生活に必要なものはすべてラプタさんがくれた。……私は朝遅くまで寝て、ラプタさんが作ってくれた御飯を食べ、教会内をぶらぶら歩いて……とにかく好きなことだけを好きな時間にするという夢の生活を手に入れた。
ここにはラプタさんしかいないのに、教会はいつでもきちんと手入れされていた。私が知る限り、ラプタさんは教会の外に出たことが無かったのに、台所には常に食材が溢れていた。ただ……海産物だけは無かった。私は一度だけ、そのことをラプタさんに聞いてみたことがある。
「ラプタさん。ここは海が近いのに、魚とか貝とかって取れないの?」
その時私たちは夕ご飯を食べていた。今日のメニューは和食で、玄米ご飯にお味噌汁がついていた……いわゆるオーガニックな自然食、ってやつだ。和食の時にはいつもついてくるお味噌汁の具材はいつも野菜ばかりで、嫌いではないのだけれど、ワカメとかシジミとかって無いのかな……と考えているうちに、そういえば海の幸を全然目にしていないことに気づいたのだ。
ラプタさんは私の質問に、何故だか困った様な顔をして答えた。
「あの海からは魚も貝も、海藻も取れないのよ」
「ふーん、そうなんだ」
私は初めてこの世界に来たときに見た、あの海を思い描いてみる。溺れかけていたせいかもしれないけれど、なんとなく良いイメージの無い海。……ま、別にどうしても魚が食べたいわけじゃないし、どうでもいいっか。
晴れた日には私は教会の庭をラプタさんと一緒に散歩した。庭にはハーブ園があって、ラプタさんはよくそこでハーブを積んでお茶にしたりクッキーを焼いたりしていて、私もそれを手伝った。二人で庭に出したパラソルの下で出来たてのクッキーとお茶を頂く。……それはそれはとてもとても楽しいひと時だった。
こんなに楽しい生活を送っているのに、私は時々元の世界にいた時の夢を見た。……それは何回も何回も見続けている、あの時の場面だった。
――他に好きな人が出来たから。そう告げるリョウの顔が見えて、私は汗びっしょりで飛び起きた。暗闇で私が悪夢におびえて泣いていると、必ずラプタさんがハーブティーを持ってやってきてくれた。……どうして私が泣いている、って分かるの?ってラプタさんに聞いたら、カスミが泣いている時は海が荒れるからすぐ分かるのよ、って答えが返ってきた。確かに、ラプタさんに背中をさすってもらっている時、いつもより激しい波の音が聞こえている気がする……。
ラプタさんお手製のハーブティーを飲むと私はすぐにリラックスして再び眠りについた。そしてその後は夢の無い夜を過ごすことが出来るのだった……。




