表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

なすびとシジミ

桜五分咲き

作者: 小田マキ

 すずらんレディースクリニックにプロジェクターを届けに行った桜子は、営業所を出る前に輪をかけておかしくなって帰ってきた。目が虚ろなことは相変わらずで、さらにどこか熱を帯びて潤んでいる。朝からひっきりなしの溜め息も、至極悩ましげで……ただの体調不良だろうと心配していた周囲も、心配を通り越して薄気味悪く感じ始めていた。

「ホント、何あったんだ?」

 山田は一足先に飲み会先の「和か竹」に向かうつもりで帰り支度をしながらも、後輩MRの異変が気になり、営業所を出て行くタイミングが掴めなかった。

「あら山田君、まだいたの?」

「……あ、茜さん」

 そんなところ、会議室の片付けをしていた彼女が戻ってくる。

「……桜子ちゃん、どうしちゃったんだろうね?」

 山田が事情を説明する前に桜子の惨状を目に留めた茜は、そう言って目を丸くした。

「心当たりないの? 昨日、一緒だったんでしょ?」

「ええ。でも、私と真田君、ちょっと飲んで帰っちゃったから」

「そりゃ、ひどいよ。昨日って、サクラ、誕生日だったでしょ。置き去りにされりゃショックだよ」

 首を振る彼女に、山田は眉を跳ね上げて言う。

「……だとしても、悪いのは桜子ちゃんよ」

「茜さん?」

 きっぱりと桜子の非を指摘した茜に、山田は首を傾げる。

「桜子ちゃん、真田君のことが本当は好きじゃないのに、全然気付いてないのよね」

「えっ……?」

「恋に恋してるってとこかな。真田君も気付いてて、相談されたのよ。それで、デート先に私がついてくことで、それとなく気付いてもらおうとしてたんだけど……桜子ちゃん、本当に鈍過ぎてねぇ」

 茜はそこまで話すと、溜め息を吐いた。

「いろいろ考えてたんだ、茜さん」

「いくら私でも、奢ってもらうためだけに、十二回も誘いを受けたりしないわよ。この先の関係もあるしね、あの二人が変にこじれて、こっちの仕事までやり辛くなると嫌じゃない?」

 そう答えてにっこり笑うと、茜は山田との話を切り上げて自分のデスクに向かった。

「これは、一肌脱げってこと?」

 無言の圧力をひしひしと感じた山田は、その背に向かって独り言のように問いかける。数ヶ月前にうっかり口説いたときから、自分に対して被っていた猫がすっかりはがれた彼女に、薄ら寒いものを感じながら。


 一方、桜子といえば、揶揄とともに投げかけられた増田の微笑みが頭から離れずに、二酸化炭素を大量生産していた。それを思い浮かべるだけで、顔は火照り、動悸は速くなるという無自覚症状が不思議でならない。

「はぁっ……」

 さらに溜め息を吐き、熱っぽい頬を両手で包んで途方に暮れていると、目の前のノートパソコンが新規メールの到着を告げる。見知らぬメールアドレスを不審に思うのも一瞬、桜子はタイトルを見て画面前に崩れ落ちる。


『よく撮れてる、受け取れ』


 何が巧く撮れているのかはメールを開くまでもなく、確信犯のシニカルな笑みを思い出して、桜子は激しい脱力感に襲われた。そのまま暫く頭を抱えていたが、もう一つ浅い息を吐くと、ノートパソコンをパタンと閉じ、繋いでいた電源やら何やらのコードを抜いて脇に抱え、隣の資料室へと向かう。

 人目を憚るように資料室に逃げ込んだ桜子は、もっとも奥のキャビネの前までやって来て、その足を止める。キャビネのガラス戸に背中がぶつからないよう注意しながらしゃがみ込むと、膝の上に載せたノートパソコンを開いた。一倉から届けられた一通の画像付きメール……できることならこのまま削除して、何もかもなかったことにしてしまいたい。

 でも、開かなければ何も始まらない。増田は言っていた。一倉はプロセスを楽しむのであって、写真をネタに脅す事を目的にしているのではないと。実際、増田も被害に遭っていながらも、その後も一倉との関係は十分良好に見えたし、問題ないとも言っていた。


『君のミニスカポリス姿、なかなか似合っていた。明日、良かったらもう一度見せてくれ』


 つい半日前に言われた、アイスマンらしくない軽口……その言葉は彼の笑顔を伴い、桜子の鼓動を早くする。

「……っ……私、どうしちゃったんだろ」

 一つ頭を振ると、桜子はその残像を振り切るようにメールの添付ファイルをクリックするが……。

「うわっ……」

 同時、桜子は瞠目した。

 画面いっぱい目の前に広がったのは、自分の会心の笑み。ミニスカポリスの格好をした自分の姿は、それは衝撃的だった。それ以上に、クラブ・ミモザのホステス達に囲まれ、本当に楽しそうに笑っている表情が、桜子にとっては驚きだった。笑うのは得意だ。女であること、長身であることをあからさまに揶揄する言葉を面と向かってぶつけられても、決して崩さない術を知っている……でも、こんな笑い方を、自分は知らない。

 何処までも穏やかで、それでいてすべてを曖昧にする。何かを諦め、そんな自分を皮肉ったような、他者に心の内を絶対に悟らせない。それが自分の笑い方。


『自分を曝け出さないで本気の恋なんてできるわけないだろ、バーカ』


 画像の下に、ただ一文が添えられている。

 そうか、そうだったんだ。茜の呆れた顔、真田の申し訳なさげな笑み……そのすべての理由が、今ようやくわかった。自分は相手を思い遣る振りをして、ずっと他者が心の中に踏み入ることを拒絶してきた。つまらない自分に気付いて、嫌われることが怖かったのだ。嫌われたくなければ、見せなければいい。ずっと笑っていればいい。何を要求されても頷く、だから自分の心には触れないでほしい。

 でも、相手のすべては知りたいし、愛してほしい。何て都合のいいことを考えて、今まで生きてきたんだろう……浅い関係しか築いてこなかった自分に、茜と真田はそれとなく気付かせてくれようとしていて、一倉に至ってはそれを完全に切り崩してくれたのだ。

 同時に気付いてしまった。自分は真田を異性として好いていたわけではない。真田とのデートにいつも茜がついて来ても邪魔だと感じることなく、真田と同じように接することができたのは、そのためだったのだ。不意に、ある人の面影が脳裏を過ぎる。


「……へぇ、可愛いじゃん」


「うわぁっ! せ、先輩っ?」

 まるで未知との遭遇のような自分自身との邂逅を果たしていた桜子は、頭上からした声に、弾かれたように顔を上げる。すると、常とは逆転した立ち位置で自分を見下ろす山田と、ばっちり視線がかち合ってしまった。

「みっ、みみみみみっ、見ましたっ……?」

 即座に蓋を閉じて胸に抱きしめながら、恐る恐る山田に尋ねる。

「そりゃ、ばっちりね。お前、目の前に来ても全然気付かないでぼーっと見入ってるから、じっくり拝ませてもらったよ」

 山田は至極にこやかな顔だ。桜子は一気に青褪め、次いで、これでもかというほどに赤面した。

「で、どこの店?」

「……え?」

 しかし、続けられた山田の言葉に、桜子は瞠目する。

「その子がいる店だよ」

 自分が胸に抱いたノートパソコンを指差しながら、山田は続けた。

「そっ……その子って?」

「真ん中の黒髪ストレートの子。お水みたいだけどすれてなさそうだし、どこか育ち良さそうでさ……婦人警官のコスプレってのも、得点高いよな。そういうの好きな先生いるんだ、来月ある説明会の後の慰労会、店どこにしようかって悩んでたんだよ」

 丁度良かったと笑う山田に、桜子は開いた口が塞がらなかった……完全に誤解している。普段の自分はとことんナチュラルメイクで、こんなバッチリメイクなどしたことがないんだから、それも当然か……そう思って、あることに気付く。

「先輩……誰か、本当にわからないんですか?」

「お前、嫌味かよ。サクラと違って俺個人に、そんなクラブ通いできる金なんてないよ。茜さんの胃袋満足させるだけでカツカツ……って、今のナシ! 聞かなかったことにして」

 聞きもしないことを喋って一人言い訳する山田を尻目に、桜子は固まっていたが……。


「でも……あの人は、気付いてくれた」


 そう独り言のように呟くと同時に、彼女はその名の通り頬を薄紅色に染め、ようやく胸に灯った微熱の正体に気付いた。


   * * *


 翌日、桜子は朝からそわそわしていた。誕生日の二日後のその日は奇しくもホワイトデー、特約店で顔を合わせた山田を筆頭に、周囲は浮き足立つ桜子を完全に誤解していた。きっと懲りずにまた真田を誘うのだろうと、彼女がバレンタインデーにチョコレートを渡していたのは、周知の事実だった……が、その日初めて皆の予想が外れる。

 定時を少し回った頃、まっすぐ社宅に戻らなかった桜子は、彼女には不釣り合いなとある場所にいた。件のクラブ・ミモザ……あの夜は貸し切りだったのと、この手の店に不馴れだったせいでわからなかったが、しっとりした夜の店というには随分健康的に賑わっている。女性一人での来店に緊張していた桜子だったが、そんな雰囲気に徐々に気持ちが解れていた。

「ご指名有難うございます、明菜です」

 そうこう思っている内に、目的のホステスがやって来る。

「どうも、先日はお世話になりました」

「あら貴女、一倉さんの……」

「はい、後輩で春野桜子です」

 ベテランの雰囲気を漂わせた彼女に、桜子は営業時のように深く頭を下げ、みずからの名刺を差し出す。

「あの夜は大変でしたね。でも、一倉さんも悪気があってじゃないんですよ。うちに連れてこられるのは、気に入っている人だけですから……最初の洗礼、まだお若い桜子さんには、ちょっと刺激的過ぎたでしょうけど」

 親しみさえ感じるカラッとした笑みを浮かべながら、明菜は言う。

「ええ、それは私も最近わかるようになりました。一倉さんには、いつも勉強させてもらってます」

「一昨日のことでしたら、私達も……」

「いえ、貴女達も信用してます。今日は別件で」

 桜子の真剣な表情に、対する明菜も表情を引き締めるが……。

「どうか、あのミニスカポリスのコスプレ衣装を貸してください。それと、あの日の化粧の仕方も教えて頂けませんか?」

 次に桜子が口にした言葉には、かつてこのクラブ・ミモザで五年連続ナンバー1の実績を持つ彼女の魅惑的な唇も、あんぐりと開いて暫し閉じる力を失っていた。


 先月発売の新薬の売り上げも上々、比較的問題なく営業を終えた増田は、多少定時を過ぎたものの、午後八時には社宅の自分の部屋で寛いでいた。今日は桜子と約束があったが、少し前に彼女から所用で少し遅れており、部屋に来るのは八時過ぎになると連絡が入っていた。巷はやれホワイトデーだ何だと浮かれ騒いでいて、桜子が横浜エリアの真田に想いを寄せているのは増田の耳にも入っている……別にのぞみ製薬は社内恋愛を禁止しているわけではないし、二人とも立派な大人だ。増田は、職務を離れたプライベートな交友関係に口を出すほど野暮な上司のつもりはなかった。

 彼女との本当の初対面は、本人より前に営業所へ送られてきたIDカードの顔写真だった。凹凸が少なく平坦な顔立ちに、ショートカットだったこともあって、民芸品のこけしに似ていると思った。あまり印象に残らないタイプで、明らかに名前負けしているとも……それが、いざ配属されてきた本人に会うと、見上げる身長に驚いた。所内の誰よりも長身で、スタミナもある。聞くところによると、学生時代はなかなかの強豪校のバレー部に所属していたらしい。そのお陰か、長幼の序もしっかり身についており、礼儀正しく、真田に次ぐ気配り上手だった。増田の後任としての引継ぎにおいても一切容赦せずに扱いたが、若さも女であることも言い訳にせず、最後まで耐え抜く根性を見せた。

 ただ、それでも随分と堪えていたようで、他の所員達とはプライベートでも親交を深めているようだが、自分とだけは仕事の話以外の軽口は聞かない。別にそれは彼女に限った話ではなく、他の若手MR達から影で「アイスマン」と呼ばれて敬遠されていることも知っている。仕事に支障が出るほどのことでもなかったので、無理に改善はしなかった。決して桜子が悪いわけではないが、彼女と同行時には必ず逆転した身長差を揶揄されることもあって、精神衛生的にもその方がよかったというのもあったのだが。

 この半年の桜子との付き合いを増田が反芻していると、玄関のインターフォンが鳴った。やっと来たな、と特に疑問を覚えることなく出迎えに向かい、扉を開けると……。

「遅くなってしまって、申し訳ありません!」

 増田の顔を見て、少々息を弾ませながら申し訳なさそうに謝意を告げる唇は、キラキラと濡れ光るピンク色。

「……っ、……春野君?」

 大口を開けた無様な間抜け面は晒さなかったものの、若干呼びかける声が遅くなってしまった。

「はい。……えっ、もしかして、化粧おかしいですか? うっそ、ちゃんと明菜さんに教えて貰った通りにやったのに」

 増田のやや見開かれた双眸に、桜子は鞄の中から携帯用の手鏡を取り出して、真剣な表情で覗き込む。


 こいつ、本気にしたのか?


 増田はそんな桜子の真面目な面持ちを見て、呆気にとられた。目の前に立つ桜子は、二日前よりもさらに磨きのかかったミニスカポリス姿だった。どうやら「所用」というのは、クラブ・ミモザの明菜に化粧指導を受けることだったらしい。ある意味素晴らしい行動力だが、これではまるで……。

「……いいカモだ」

「はい?」

「いい、早く入れ。こんなところ、誰かに見られたら、お互いのキャリアに致命的な傷がつく」

 不思議そうに小首を傾げる桜子に頭を振り、増田は早々に彼女を中へ招き入れた。

「済みません、失礼致します」

「……普通、気が付くものだと思ったのだがな」

 格好とは裏腹の行儀良さで言った桜子に、増田は溜め息混じりに吐き出す。

「何ですか?」

「あのときの言葉は冗談だ」

「あっ、多分そうじゃないかって思ってました」

 増田の言葉に、彼女はあっさり頷いた。

「……なに?」

「いえ、あの……半分だけ。だから、万一ってことも考えちゃって、どうせなら完璧にと」

 ストレートの長いかつらの髪を指に絡めて弄びながら、桜子は照れ笑いとともに弁明する。

「一倉さんがからかいたくなる気持ちもわかるな。君はもう少し、世間を知った方がいい」

 桜子の疑うことを知らない純粋な笑みを見つめながら、増田はふたたび溜め息を吐く。

「しかし、よく化けたな」

 こうやって改めて見ると、つくづく女は魔物だと思う。高過ぎる身長と語呂のいい名前に完全に負けていると思っていた桜子の顔は、化粧一つで随分華やかなものになっていた。

「はい、自分でもそう思います。でも、増田さんは二日前、よく私だってわかりましたね」

 確かに今思えば、自分もよくあの薄暗い社宅の廊下に倒れていた彼女が、部下の桜子だと気付いたものだ。仕事柄、観察眼と特徴把握力には自信があったが、今回さらに実感する。

「やめてください、一倉さん……そう、しきりに寝言を言っていたからな」

 そう返しながら、無遠慮も今更と彼女の姿を観察する。確か秋田出身だと言っていた彼女の肌は、まさに雪のようだ。女の白い肌は七難隠すというのは本当らしい。生まれついての素養か、ともすればけばけばしく見える化粧も下品にはならず、控えめな微笑みも、深窓の令嬢といった風情だ。実際、実家は業界大手の春野整形外科クリニックなのだから、その表現もあながち間違っていない。

 ミニスカポリス姿をポーズではなく、本当に気恥ずかしがっている姿はなかなか男心をそそるものだ……コスプレに特に興味はなかった増田だったが、そういう嗜好を持つ者達の気持ちをわずかに理解した。本当に高過ぎる身長が惜しい、ミニスカートから覗く筋肉質に引き締まった足は素晴らしいと思うが。

「あぁっ、だからですか! 山田先輩さえパッと見では気付かなかったのに、どうしてかなぁって、不思議に思ってたんですよ」

 合点がいったと言うような桜子の言葉に、増田の視線はふたたび彼女の顔に戻る。

「あいつにも見せたのか?」

 どこか落胆の色を含んだような微笑みを浮かべる彼女を訝しく思いながらも、壊滅的にうまが合わない部下の名前が出たことに、増田は眉間に皺を寄せた。

 真田ら入社三年目のMR達と同期の山田は、一年留年した上、薬学部を出ているために同期達より三歳年上だ。頭の回転が速く、処世術も他の同期達から一歩抜きん出ているために営業成績は上々、薬剤師の免許もあるので、いずれは学術マネージャーにとも期待されている。ただ、どうにも事務仕事が雑で、締め切り破りの常習犯だった。毎回のように経費精算書類の提出が遅れ、細々こまごまとしたミスも多いために、判をつく自分だけでなく、経理処理をする茜にも多大な迷惑をかけている。

 常々苦言を呈している彼女に対し、仕事の正確さを上げるわけではなく、食事を誘うなどのあざとい真似でフォローしているのも、癇に障った。向上心のない人間に未来はない。いかに外面がよかろうと、メッキはいずれ剥がれるものだ。問題が外部にまで発展する前に、いずれ徹底的に絞ってやらねばならない。

「あ、いえっ! 丁度パソコンに一倉さんから画像メールが届いたときにそばにいて、覗き込まれちゃったんです。周りに明菜さん達が映ってたから、先輩はホステスだって誤解しちゃって……その上、今度、慰労会で使いたいからどこの店か教えてくれって言われて、誤魔化すの本当に大変だったんですよ!」

 問題児な部下の話題に増田の機嫌は果てしなく急降下しかけたが、慌てて弁解してくる桜子のお陰で、我に返る。

「ははは、大変だったな」

 目の前の彼女は実に真剣に思い悩んでいる様子だったが、ミニスカポリスの格好とのギャップに、増田はつい声を立てて笑った。仕事を離れ、こうやって話してみると、桜子は本当にからかい甲斐がある……いい加減に見えて、その実好き嫌いの激しい一倉が気に入り、顔を合わせれば連れ回している気持ちが、この短い時間の中でも十分にわかった。背が高いくらいで勝手に苦手意識を抱いていたことを、増田はここにきて少し反省する。

「……増田リーダーが、笑った」

 そんな増田を前に、桜子は驚いたように瞠目し、何故か一気に頬を朱に染める。

「どういう意味だ、私だって人間だ。本当にアイスマンなわけじゃない」

 陰で呼ばれているあだ名を披露し、眉毛を跳ね上げてみせたものの、増田は別のことに気を取られていた。今時珍しいくらいの、桜子の初々しい反応に感心していたのだ。ここまでとは言わないが、その半分でも毎日化粧をしていたら、さぞや営業成績も伸びるだろう。学生時代には、なかなか名のある高校のバレー部で扱かれていたという桜子は、上下関係がしっかり身についていて、謝罪一つ満足にできない今時の若者とは違う。多少心許ないくらいの柔らかな物腰や、馬鹿がつくくらいの素直さは、保護欲をかき立てるらしく、年配の先生方からは実の孫のように可愛がられていた。

 増田自身も正直、才色兼備な完璧な女性より、少々粗忽でも三歩後ろを歩く従順なタイプの方が好みだ……自分の異性の趣味なぞ、今はどうでもいいことだったが。

「いえっ、そんなつもりじゃっ……あの、増田リーダー!」

「何だ?」

 ワタワタと口の中で言い訳を繰り返した後、意を決したように表情を引き締め、自分の名を呼んだ桜子に、増田は不可解そうに問う。


「好きです」


「……、……は?」

 斜め四十五度上から投下された言葉に、増田は今度こそ呆気に取られた無様な表情を晒し、間延びのした声を発してしまった。

「増田リーダーが好きなんです……昨日、貴方に向けられた笑顔に一目惚れしてしまいました!」


 ……笑顔? 一目惚れって何だ?


 増田には、桜子の話す言葉が、ついぞ訊いたことのない言語のように感じられ、言葉の意味がまるで脳に染み渡らない。

「大好きなんです、貴方のことしか考えられないんです。私、こんな気持ち初めてでっ……」

 告白しながら、自分の言葉に感極まってしまったらしく、桜子は通常比1.5倍の瞳からポロポロと涙を零れさせる。その姿は生まれて初めて本気で恋に落ち、その気持ちを持て余している乙女の恥じらいそのもの。男ならもれなく涙を拭い、震える肩を抱いてやりたいと思わせるものだった……が、しかし。

「冷静になれ、春野君。君は、真田が好きだったんじゃないのか。もしかして何か嫌がらせか、さすがに怒るぞ。就業時間外とはいえ、上司に対して悪ふざけが過ぎる」

 思わず出そうになった手を引っ込め、増田は努めて沈着冷静に聞こえる声音で言う。

「私は冷静ですっ! 真田君なんてどうだっていいんです、嫌がらせなんかじゃありません! ホントに、ホントにっ、ただ貴方が好きなんです! 本気です! ……何でわかってくれないんですかっ!」

 しかし、逆にスイッチが入ってしまったらしく、桜子は恋する内気な乙女から一変、至極アグレッシブに想いを投げつけてきた。涙で洗われた双眸も頬も、興奮していることやチークのためだけでなく、異常に赤く染まっている。クルクルと表情を変え、ひどく感情的になっている桜子の赤い顔に、増田の脳裏を一つの可能性が掠めた。

「春野君、……君はもしかして、飲んでるのか?」

「……え? あ、はい。明菜さんを指名しておいて、ただで化粧の仕方を教わるわけにはいきませんから、ドンペリ・ピンクを一本」

 それが何か? と、小首を傾げる彼女の顔は、丁度いい感じに酔いが回ってきた頃合いの赤さで……。

「……このっ、馬鹿者!」

 酒の上での悪乗りと判断した増田は、即行良く通る声で雷を落とそうとした……が、ビリビリと空気を震わせる怒声に大きく肩を揺らした桜子の姿に、次の言葉が出てこない。

「……このっ、知能犯がっ……」

「えっ……?」

 サイズはさておき、怯えた小動物のような潤んだ瞳で精一杯身体を小さく縮めている桜子に、増田はバツが悪そうに視線を逸らした。

「そんな格好でいつまでも泣くな、悪趣味なプレイでもしている気分になるだろうがっ……大体、プライベートと言えど、酒気を孕んだまま上司宅を訪ねるなぞ、悪乗りにもほどがあるぞ。まったくいつもの君らしくもない。顔を洗って出直してこい」

「悪乗りだなんてっ、そんなつもりありません!」

 やや抑えた声音で続けられた叱責に、桜子は目の色を変えて頭を振る。

「何がだ。そんな格好で社宅まで何の疑問もなく帰ってくるなんて、酒に呑まれている証拠だろう? それに、私も少し考えればわかることだったが……いい年をした大人が、あんな冗談を真に受けるなんて有り得ない」

「有り得なくても、これしか思いつかなかったんだから仕方ないでしょうっ? 貴方の言葉は冗談だったかもしれませんけど、私の気持ちは真剣です。酔いに任せた悪乗りなんかじゃありません」

 可愛らしい格好にもかかわらず、増田より五センチは背が高い桜子は、自分の全否定の言葉にすっかり酔いを飛ばしたらしい。

「お酒とか、上司とかそういうの関係なく、私はリーダー……いえ、伊織さんが、好きなんです」

 ああ、こいつ本気だな……冗談そのものの格好で自分への想いを告げてくる桜子に、増田はそう実感し、溜め息を吐いた。四十二までずっと独身できて、今も特定の相手はいない増田だったが、別段女嫌いでも、女慣れしていないわけでもない。二十年以上の営業で培った鋭い観察眼もある……だからこそ、桜子の気持ちが本物であることもわかった。

「……わかった」

「本当ですかっ?」

 増田のどこか疲労感のある言葉に、張り詰めていた桜子の表情が氷解する……が。

「気持ちはわかった……だが、ちゃんと現実が見えていない」

「現実……?」

 続けられた増田の言葉に、桜子はキョトンとした表情を晒す。

「仮に、あくまで仮にだが、君の気持ちに私が応えたとしよう。それから先のことを、君は考えているのか?」

「それから先って、とにかく貴方に私の気持ちを知ってほしくて、それからのことはっ……」

 彼女の勢いは失速し、言葉に詰まる。明らかに動揺していた。

「気持ちを伝えただけで満足といったところか……確かに気持ちは本物かもしれないが、薄いな。そんな薄っぺらな気持ちをぶつけられても、こちらは迷惑なだけだ」

 そんな桜子の様子を冷ややかな面持ちで見つめながら、増田はきっぱりと言い切った。

「麻疹と一緒だ、今は舞い上がっててわからないだけだ。私との付き合いは、君が想像してるような甘ったるいもんじゃない。今なら、今日の君の格好も言動もすべてなかったことにしてやる……だから、君も忘れろ」

「嫌ですっ!」

 最後の言葉に、桜子は大きく頭を振る。

「そんなの嫌です! 何でそんなこと言うんですかっ? こんなに好きなのにっ、忘れられるわけないじゃないですか!」

 止まっていた涙が、ふたたび頬を流れ落ちる。桜子は子供のように泣きじゃくり始めた。


 この、お子様がっ!


 その瞬間、増田の脳裏で、とても大切な糸が……プツリと切れた。

「……春野君、私も言い過ぎた。どうか、泣きやんでくれないか?」

 桜子との間を詰めた増田は、普段の彼を知る者には空恐ろしい満面の笑みを湛えて言い、彼女の涙を今度こそ指で拭ってやる。

「増田さんっ……」

 冷静な判断を下せない状況に陥っている桜子は、何の不自然さも覚えずに、増田の行為と微笑みにうっとりとしていた。

「桜子君、私が悪かった。いきなり忘れろと言われても、そんな簡単に忘れられるはずないな……君は、本気なんだから」

「増田さんっ……私の気持ち、わかってくれたんですね?」

 我ながら寒気がするような猫撫で声にも、桜子は何一つ異変を覚えず、感極まったように胸に手を当てて喜んでいた。完全に酒に呑まれ、冷静な判断力を失っている。

「ああ、もちろん。だから、君に現実を見せてあげるよ」

「はいっ……って、え? 現実って……痛っ!」

 勢い込んで頷いたはいいが、告げられた言葉の意味が理解できずに問い返そうとした桜子は、次の瞬間、玄関先の廊下に背中から倒れ込む。増田は笑顔のままに、その肩を突き飛ばしたのだ。フローリングには厚めの絨毯を敷いてあり、おあつらえ向きに警帽まで被っていたため、頭はそう打っていないはずだ。

「……今更、泣くなよ」

 そうして、不自然なほどに口角を吊り上げて言うと、増田は桜子の上に馬乗りになった。

「ちょっ、何? ……んんっ!」

 混乱を紡ぐ桜子の唇を己のもので塞ぐと、薄く開かれていたその隙間に舌を差し込んで歯列を割り、やや萎縮している舌を捕える。ようやく自身の置かれた状況を理解したらしい桜子の身体が、組み敷いた腕の下でひどく硬くなった。

「やっ……!」

 いくら自分よりも背が高かろうと、女は女……本能的に逃げを打つ身体を難なく押さえ込み、角度を変えながら口腔を存分に犯した後、増田はその唇を桜子の首筋に移した。


 のぞみ製薬株式会社神奈川営業所川崎エリアリーダー、増田伊織。嫌いなものは学習能力がないお子様と、泣けば許してもらえると思っている勘違い女。


 ワンツーコンボで迫ってきた桜子に対し、もともとそこまで強度がない増田の堪忍袋の緒は、呆気なくブチ切れていたのだ。

「こんなのはっ……嫌です!」

 両腕を拘束されて首筋にキスマークを刻まれ、物理的な抵抗のできない桜子は、弱々しく頭を振る。

「……現実、今度こそわかったか?」

 顔を上げた増田は、今まで自分が強いてきた行為とは不釣り合いな冷たい表情で、桜子を見下ろしていた。この一連の行動は、恋に溺れて周囲の見えなくなっていた桜子への戒め……彼女の感情は、一過性の衝動だ。恋愛音痴な桜子は、それを永続的な想いだと勘違いしているだけなのだ。

 そして、その手の人種は、一度痛い目を見ないとわからない。切れても冷静な増田は、桜子に現実を見せてやることにした。

「これに懲りたら、今度からはもっと慎重に行動することだな……君の想いは一時の気の迷いだ」

 いつもとは逆の、自分の下で声もなく涙を落とす桜子に、その効果は覿面……。


「違います!」


 効果は覿面……だったはずなのに、彼女は間髪入れずに否を唱える。涙でアイライナーが溶け出して周囲が真っ黒に染まり、付け睫毛も取れかかった双眸で、彼女は睨みつけるように増田を見上げていた。

「何ぃっ?」

 もはや色気もへったくれもない顔と、生意気な台詞に、増田の口端がヒクリと痙攣する……こいつは、まだ言うか。

「嫌なんだろう、私に抱かれるのは!」

「嫌なのはこの状況だけです!」

「はぁっ……?」

 増田は思ってもみなかった反論に、素っ頓狂な声を上げた。

「何のために、こんな格好して来たと思ってるんですか! 貴方好みの格好をして、あわよくばって、そりゃ狙ってますよ! でも、そんな鬼みたいな顔で迫られても、嬉しくなんてありませんっ!」

 そして、存外したたかな言葉を投げつけてきた眼下の桜子に、目眩を覚える……自分の行為は、まったくの逆効果だったのだ。

「もう分別があるふりをして泣くのは嫌なんですっ! お願いですから、私と付き合ってください……さもないと、無理矢理犯されそうになったって一倉さんに訴えますから!」

「何だとっ……?」

 さらに、とんでもない脅しをかけてきた彼女に瞠目する。

「実際、キスマークまで付けられてるし、物的証拠がありますもん!」

 それがさっきまで泣いていた奴の吐く言葉か、さてはあの厄介な男も一枚噛んでいるのかっ……増田は開いた口が塞がらない。

「それに伊織さん、そこまで私のこと嫌いじゃないですよね?」

「何を馬鹿な!」

「生理的に受けつけない相手にこんなことできませんよね、伊織さんはそんな一倉さんみたいに爛れた人じゃないです」

 丁度脳裏を過っていた人物を引き合いに出され、否定の言葉は一瞬喉につかえて出口を失う。

「でも、キスは暫くおあずけにしましょう?」

「はっ……?」

「増田さんは、まだ私を好きじゃないですから。心の通わない冷たいキスなんて、私は嫌です。キスも、その先のことも、これから二人でゆっくり考えていきましょう? 私、本当に伊織さんが好きなんです。さっきは取り乱して泣いたりして済みませんでした、脅すような台詞も……酔いはもう完全に覚めましたから」

 そう言った桜子の微笑みは、垂れ流し状態だった涙にすっかり化粧を洗い落とされたいつもの平面顔なのに、妙に綺麗に見えて……増田の荒療治が別の意味で功を奏し、人間としても女としても、一皮むけたらしい。


 何なんだ、この展開は……。


 増田はすっかり毒気を抜かれ、桜子の上で途方に暮れてしまう。

「ですから、そろそろ解放してもらってもいいですか?」

「……あっ、済まん」

 すっかりニュートラルな調子を取り戻した桜子の遠慮がちな言葉で、今更ながらに自分達の状況を思い出した増田は、慌てて桜子の上から飛び退いた。

「伊織さん、今日のところはひとまずお暇させて頂きますね。話を訊いてくれて、有難うございました」

「おい、何一人で自己完結しようとしてる! 私は君の気持ちに応えると言った覚えはないっ……というか、リーダーと呼べ、下の名で呼ぶな」

 立ち上がる気力もなくてそのまま立て膝を突いて座り込んでいた自分の前に、これまた三つ指突いて古風に頭を下げる桜子に、増田は大幅にトーンダウンしながらもそう確認を入れる。

「もちろん、ちゃんと公私はわけます。今は就業時間外、プライベートですよ……伊織さん、私は貴方が好きです。今夜、もっと好きになりました。貴方は自分の気持ちしか見えていなかった私とちゃんと向き合って、現実を教えてくれました。私、もう焦りません。伊織さんが応えてくれるまで、ちゃんと待ちます」

 化粧が崩れた桜子は、それでも笑顔で言葉を続ける。

「……そんなことは、絶対に有り得ない」

「それでも、私は待ってます……そうだ、今度、お互いを良く知るために一緒にお食事に行きましょう」

「何でそんなことしなくちゃならないんだっ……!」

 どんどん一人で話を進めていく桜子に、増田は声を荒げた。

「伊織さんに私を好きになってもらうためです。今度は絶対に、心の通ったキスをしてもらいますから」

 お食事、楽しみにしてますね……そう変わらぬ笑顔で言ってのけると、桜子は宣言通りに数メートルと離れていなかった玄関から出ていった。

 増田はというと、自信過剰な言葉とは裏腹に至極あっさり引き上げた桜子の今現在の人相風体(化けの皮が剥がれたミニスカポリス。なお、首筋には自分の付けたキスマーク)を注意することも忘れ、その場に座り込んだままだった。

 ひどく疲れた、まさに台風一過だ。一時間にも満たないこの短時間で、増田はその言葉の意味をいたく噛み締める……が。

「……っ、あいつ、絶対に確信犯だろ!」

 何気なく扉に注いでいた視線の端に映り込んだものに、眉が跳ね上がった。結局、またしても置いていかれたハイヒールと、足元に転がる片耳のイヤリング……残された痕跡は、今後、厄介な同期をブレーンにつけた桜子からのアプローチに悩まされる未来を暗示しているかのようだった。


 偶然と勘違いから始まった恋、最後に笑うのは誰?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ