表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

人魚の涙と一粒の輝石

作者: 松田 映美花

 水が跳ねる音が静かな暗闇に響いている。

 神聖と不気味の中間のような気分だった。


 人魚がいる、と言ったのは先日村を通りかかった商人だった。

 それを聞いた好奇心旺盛な村人たちは近くの湖へと向かったが、誰もその姿を確認出来なかったようだ。


「むしろ、居ない方がいいんだけどな…」


 彼は溜息交じりに呟き、湖へ近付く。

 恐れている訳ではなかったが、そんな異質な存在が居るかもしれないと思うと気味が悪い。


 ザアッと強い風が草木を揺らし、彼は顔を庇うように腕を上げた。


「へんなひと」


 自分以外の声がした。

 川のせせらぎのように穏やかな女の声だった。

 彼は辺りを見渡したが、その声の主を見つけられない。


「わたしはここよ」


 クスクスという笑い声と、彼を導く声。

 湖を照らす月明かりのお陰でぼんやりと浮かぶ人影がひとつ。


「…人魚、か…?」


「ええ。人魚よ」


 岸に身体を引き上げた彼女は、彼を見上げた。

 その肌は白く、月の光を反射してキラキラと輝いている。

 こんなにも美しく、幻想的な生き物が他に存在しているだろうか。

 彼は息を飲み、ただじっと彼女を見ていた。


「この前の満月の日、会った人とは違うのね」


 ふふっと柔らかく笑みながら、彼女は手招きをした。

 その隣に導かれるままに腰を降ろした彼は、それまで湖にいたはずの彼女がひとつも濡れていないことに気付いた。


「…どうして、」


「満月の夜にだけね、人魚はヒトになれるの。昔々、神様がその日だけは許してくれたから」


 彼女の言うとおり、バタバタと揺れているのは魚のような尾ひれではなく、足だ。

 ひらひらと身につけた白いドレスが足の動きに合わせて揺れる。


「ねえ、わたしを捜していたの?」


 ぼんやりと魅入る彼に彼女は尋ねた。

 彼は慌てて頷いたが、彼女は更に続けた。


「わたしを捕まえにきたの?」


 その表情がとても悲しげだった。

 捕まえるだなんてとんでもない、本当に人魚が存在するのか見にきただけなのだ。

 今度は首を横に振る彼に、彼女は安堵したようだ。


「人魚の伝説を、知っているでしょう?」


 彼女は歌い始めた。

 とても澄んだ、小鳥のように可憐な声だった。



 昔々、神が人間の世界へと姿を現した。

 神を呼んだのは一人の魔女だった。


 神と魔女の契約により、世界には平和が訪れた。


 魔女に渡されたのは神がもつ力の一部だった。

 物質に命を吹き込み、その意のままに自然を操ることが出来る力。

 次第にそれは、欲を持った人間に悪用されるようになった。


 神により護られているはずの平和だったが、それが人間によって壊されていく。

 それに怒った神は再び姿を現した。


 神は魔女の身体の半分を魚に変えた。

 そして彼女を自らの元へ、海へと還した。

 魔女は人魚となり、五百年もの時を生きた。



「人魚が死んだのは、なぜだか知っている?」


 穏やかな声で彼女は尋ねた。

 いつの間にかその歌は終わっていたのだが、聞き入っていた彼はそれまで気付かなかった。


「…恋に落ちたからだ」


「そう。男は人魚を連れて帰ろうとした。でも、神様が許してくれなかった。彼女が人間に利用されるのが許せなくて」


 そよ風が彼女の長い髪を揺らした。

 彼女はそれにまるで返事をするように、目を細める。


「…でも、人魚は神様との約束を破ったの。だから泡になって消えた。男はそれを嘆いて、海に身投げしたの」


 今なら彼にもその男の気持ちが分かるような気がした。

 目の前の人魚は、とても美しかった。

 あれほど不気味だと思っていたはずなのに、いつの間にか彼女のことしか考えられなくなった。


「憐れんだ神様は、満月の日だけは二人が一緒にいれるようにって、人魚をヒトにしてくれるの」


 彼女はそう言ってから黙り込んだ。

 しんとした暗闇に聞こえるのは、水と風の音だけだった。


「きみの名前は?」


 沈黙を破ったのは彼だった。


「…アイリーンよ。あなたは?」


「レグルス」


「星と同じ名前ね」


 レグルス、と彼の名前を呟き、彼女は空を見上げた。






 あの日以来、満月の日には必ず湖へとレグルスは足を運んだ。

 それはもちろん、アイリーンに会うためだった。


 ありがとう、と静かな声で言って、嬉しそうに笑う彼女が愛しかった。


「もう、朝になるわ。そろそろ帰らなきゃ」


 冷たい彼女の手がゆっくりと離れていく。

 もう少しだけ、何度もそう願ったが、叶うことはない。


「…アイリーン、僕は」


「ええ。言わなくっても、分かっているわ」


「…愛してるんだ、君を。アイリーン」


 想いが募るばかりの彼は、彼女を抱き寄せた。

 湖に住むはずの彼女からは甘い、花のような匂いがした。

 ゆっくりとその唇に自らのものを重ねた。


 まるで永遠のようにも感じる、ほんの一時だった。


「…さようなら、レグルス」


 儚く微笑んだ彼女の言葉の本当の意味が、まだ彼には分からずにいた。







「アイリーン…」


 始めて会ったあの日のように静かで、星が綺麗な夜だった。

 水が跳ねる音がした。


 名を呼んでも返事をせず、姿も見えないアイリーンに、レグルスは一抹の不安が過る。


「アイリーン?どこだ?」


 辺りを見渡す度、彼が抱いた不安が現実に近付く。

 早く姿を現して嘘だと言って笑ってほしかった。

 そしたらその時には、悪い冗談だと怒ってやるんだと思ったのに。


「アイリーン…そんな、まさか…」


 レグルスは立って居れずに膝をついた。

 なぜだ、どうしてだとそればかりしか考えられない。


 彼の目に入ったのは、湖の岸に落ちている白いドレスと真っ赤な石の欠片だった。

 それが誰の物かがすぐに分かった。


「嘘だ…アイリーン、早くここへ…」


 草の上に寝転んでいた姿が想像出来るような、白いドレスを引き寄せた。

 しかしそこには以前あったはずの彼女の身体がない。

 抱きしめたい、好きだと、愛してるともう一度だけでいいから伝えたかった。






 男は人魚に愛してると言いました。

 その名を呼び、口づけをしました。

 すると人魚は涙を流しました。


『ありがとう』


 彼女の身体は泡となり、消えてゆきました。

 その一粒の涙と、ドレスだけを遺して。


 男の愛が、人魚にかけられていた呪いを解いたのです。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ