やさしい猫
「猫」
弾む耳、揺れるスマートなしっぽ。くりくりした瞳。
赤い首輪に小さな鈴。栗色の柔らかい髪。
僕は犬。
名前はまだない。なんてかっこよく書き出してみる。
いや、やっぱり。
僕は野良犬。
名前はいらない。こっちの方がかっこいいかも。
そしてこの猫は飼い猫。名前はマオ。
夏休みの間だけ、実家の青森に避暑にきた飼い主さんに連れてこられたらしい。
猫はりんりんと鈴の足音を響かせると、物思いに耽っていた僕の顔を覗き込んできた。
「犬さん。大丈夫ですか?」
「え?何が」
僕が踏んだら折れてしまいそうな指を僕の手に彼はそっと乗せた。
「おしゃべりな犬さんが、急に黙っちゃうから」
「ぼ、僕っておしゃべりかな!?」
「少しだけね」
クスっと笑う姿は、とても可愛い。
さぞ飼い主に溺愛されてきたことだろう。
僕達は、一週間前に道端で出会った。
僕が森の入り口のガードレールの下でうたた寝しているところに猫がやってきた。
なんでも、僕が死んでいると思ったらしく、あの時の彼の声は切羽詰まっていた。
思い出すと少し笑ってしまう。
とにもかくにもそれから仲良くなった僕達は、毎日木陰で逢瀬を楽しんでいる。
彼は都会猫なので、たくさん面白い話をしてくれる。
でも、僕はと言えばなにも際立つ話をする事が出来ず、山の珍味や野良犬を迫害する人間の話とかをなんとか面白いように話した。
そうすると猫は、興味深いと相づちを打ってくれた。
やさしい猫であり、空気も読める猫である。
「今日は暑いですね」
猫は木陰から太陽を見上げながら言った。
僕も同じように太陽を見ながら答える。
「暑いね。でもトウキョウはもっと暑いんだよね?」
「暑いですよ。道を歩くと足の裏を火傷してしまうから、夏は外に出してくれないくらい」
「道を歩くだけで火傷!?」
「はい」
「僕は一生トウキョウで暮らせる自信が無いや」
「やめておいた方がいいですよ。東京なんて本当、暑いばっかりでいいことなんて何もないですから」
猫はそういうと視線を戻して毛繕いを始めた。
思わず見とれて、感想をもらす。
「猫は本当にきれいだね」
「そうかな。私は嫌い。女の子っぽいでしょう?私の見た目は」
思わぬ返答に、僕は焦った。
なんて返そうか……、少しの間迷う。
「女の子っぽいって、気にする必要無いと思うけど……」
「私は犬さんみたいにかっこよくなりたい」
「えっ!?ぼ、僕がかっこいい?」
反応するところを間違えた気がするが、彼がそれによって気分を害した様子もなく、むしろ彼は笑顔さえ浮かべた。
「かっこいいですよ。見かけももちろんワイルドですし、私みたいに人間に面倒を見てもらっているわけではなく、自分だけの力で生きているんです。とってもかっこいいです」
べた褒めされて、僕は赤面し、うつむいた。
あまりに真剣な表情で猫がそういうから、恥ずかしくて仕方が無い。
「でも、毛並みはぼさぼさだし、みすぼらしいし、決まった家もないし全然かっこよくないよ」
「かっこいいですよ」
「あ……ありがとう」
もう仕方ないので恥ずかしいけど素直に受け取ることにした。
猫は「あ、そろそろ帰らないと」と声を上げる。
「そうだね。お昼ご飯の時間だね」
僕はまたもう一度太陽を見て言う。
人間の作った時計というもので言えば、たしか一時くらいだろう。
猫はこの時間になると、いつも家に帰る。
「犬さん、ちゃんとご飯食べてね?」
彼は去り際にいつもそう言って僕の心配をしてくれる。
うれしい半面、申し訳なく思う。
彼に無駄な心配をさせてしまっているのが、自分の中でふがいない。
「じゃあまた明日、猫」
「うん、犬さん」
優雅な足取りで、猫は真っ赤に照りつける太陽の下を颯爽と歩いて行った。
翌日。
猫はいつもの木陰に現れなかった。
ご飯を食べるのも忘れて待てど暮らせど彼の姿はどこにも見当たらない。
トウキョウに帰ってしまったのだろうか。
それだったら一言あってもいいだろうに。
「また明日って。うん、って言ったじゃないか」
溜息といっしょに、独り言がもれた。
いや、もしかしたら、急きょ帰りが早まったのかもしれない。
昨日僕と居た時には、そのことを知らなかったのかもしれない。
彼を責めるのはやめよう。
この日の夜は、激しい雷と豪雨に見舞われた。
連日の猛暑に、空が風邪をこじらせたかのように。
僕だって飼い犬にあこがれたことが何度かあった。
まだ若いころ、拾ってくれた人間さえいた。
しかしやっぱり野良犬の方がいいと最終的には思ってしまう。
野良犬は野良犬として人間に捕まると殺されるという現実も知っている。
だがそれでも野良犬でいたい。そう思う。
理由は一つ。自由だからだ。
自由、といっても制限はあるが、少なくとも人間の都合で動く必要が無い。
僕にとって、人間に従うというのがやはりなにより我慢できないのだ。
人間がいなければ、僕はもっと猫と一緒にいられたのに……。
……僕は何を言っているんだろうね。
次の日も次の日も、そのまた次の日も猫は現れなかった。
本当にトウキョウに帰ってしまったのだろうか。
僕の心は風穴があいたようにスースーした。
夏なのに、涼しいとさえ感じられるほどに。
僕は猫と長い時間離れて気がついた。
僕は猫が好きなんだ。
好きになってしまったんだ。
離れるのが辛くて我慢できないと思うほどに。
猫がいなくなって、5日。
この日も大雨だった。
僕は木陰の近くで雨宿りをしながら猫を待った。
今日は日が出ていないから時間がわからない。
ただぼんやりと彼を待つ。
その時だった。ザーっと雨が地面を打つ雑音の中、聞き覚えのある鈴の音がこちらに向かって駆けてくるのが分かった。
僕はその音が鳴る方へ一目散に駆けだした。
「猫!」
「犬さん!」
猫は僕を見つけるとそのままの勢いで飛びついてきた。
茂みの中ごろごろと勢い余って2匹して転がる。
林にせき止められ、やっと動きが止まり僕たちは起き上がり見つめあった。
「帰ったのかと思った」
僕はぽつりと言った。
「ごめんね犬さん、本当にごめんね」
猫は謝ると雨と一緒に泣きだしてしまった。
ぶるぶると小さく震え、彼は言葉も紡げないくらい号泣する。
「なんで謝るの。僕は猫にまた会えてうれしいよ」
「私もうれしいよ……」
「じゃあなぜ泣くの?」
「分からない……自然に涙があふれて……」
猫はそう言いながら僕を見上げ、弱弱しく言った。
「どうしよう私、東京に帰りたくない……」
「……」
猫の口からあふれたのは、僕にとってはこの世にないくらいうれしい言葉だった。
僕だって帰したくない。
ずっと一緒に話していたい。今度はご飯だって食べたい。もっと遊びたい。こうやって戯れていたい。
彼が僕に対する感情が友情だってかまわない。
ただそばにいたい。
でも
『じゃあ一緒にいよう』
と言いだせないのは、喉元に引っ掛かる人間という存在のせいだ。
彼の、飼い主の存在だ。
いままで育ててくれた飼い主を捨てるなんて、この優しい猫には無理だろう。
きっと彼はのちに主人に別れを告げたのを後悔するだろう。
でもこのままでは、彼は飼い主のもとへ帰らないだろう。
僕は一介の野良犬だ。猫を養ってやることなんて出来ない。
大好きな大切な猫。
僕は君が大好きだよ。
「猫」
自分でも、驚くほど低い声が出た。
「犬さん?」
おびえる猫の瞳。
直視できない。
落ち着いて、息を整え、もう一度口を開く。
「僕は野良犬だ」
「うん」
「君は飼い猫」
「うん?」
「……僕は君みたいなのが大嫌いなんだ」
「え……?」
瞬間、時が止まる。
彼の傷ついた顔。新たにあふれだす真珠のような涙。
猫の細い腕を踏みつけ牙をむける。
痛みに顔をゆがめ、牙におびえ、泣きじゃくる。
「あ……あ……で、も……さっき会えてうれしいって……」
「エサが自分から戻ってきてくれたんだから、うれしいよ。しばらく何も食べてなかったんだ」
そう言いながら、彼の首筋に軽く歯を立てる。
彼が生唾を飲み込む。
ヒューヒューと気管支が乾いた音を上げている。かわいそうに。
さあ言うんだ。僕のことを嫌いだって。帰るって。
「ねえ……」
消え入りそうな声。
「犬さん」
なにを言おうとしてるんだ?
猫、そうじゃないよ。
「ちゃんとご飯食べてって言ったじゃない。ねえ、食べて?」
「……犬さん!」
「……」
「犬さん?」
「ちょっと懐かしいことを思い出したよ」
トウキョウ。僕たちは今トウキョウにいる。
end