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月の声を聴く夜  作者: 山川海雲
第一章:はじまりの静寂 ― 孤独という光
9/50

第九話:欠けた月

 朝から行われた大規模な撮影現場で、トラブルが発生した。柚が担当したデザイン発注の一部に、手違いがあったのだ。幸い大きな損害には至らなかったが、柚の心は、硬く冷たい石のように沈んだ。

(また、失敗した。私には、すべてを完璧にこなす能力なんてない)

 柚の心の中で、過去の自己否定の声が、また大きく響き始めた。幼い頃から、愛されるためには完璧でなければならないと、無意識に自分を律してきた。失敗は、即ち「愛される資格の剥奪」のように感じられた。

 休憩時間。柚は、人目を避けるように、撮影現場の裏手の非常階段に座り込んだ。喉の奥が熱くなり、涙がこみ上げてくるのを、必死で我慢する。

 涙は、弱さの証拠だった。誰にも見せてはいけない、最も個人的な孤独の形だった。

 足音が聞こえた。湊だった。彼は、何も言わずに柚の隣に座った。彼の手に、温かい缶コーヒーが二つある。彼は一つを柚の膝にそっと置いた。

「…大丈夫ですか」

 彼は、不安げに、そして優しく尋ねた。

 柚は、目を伏せたまま、首を横に振る。

「ごめんなさい。私のミスで、迷惑をかけました」

 その言葉を口にした瞬間、喉が詰まった。もう、涙腺のダムは決壊寸前だ。

「柚さんのミスじゃないですよ。これはチームの問題で…」

「でも、責任は私にあります」

 柚は、ほとんど囁くような声で言った。

「私は、いつもどこか、欠けている。大事なところで、すべてを台無しにしてしまう」

 湊は、柚の言葉に何も答えなかった。ただ、缶コーヒーを握ったまま、静かに空を見上げた。

 その沈黙の数秒が、柚には永遠のように感じられた。彼は今、柚の「欠け」を知り、失望したのだろうか。彼は、完璧な女性を望んでいたのだろうか。

 やがて、湊が、そっと口を開いた。

「今日、空を見ましたか」

「…見ていません」

 柚は、湊につられて顔を上げた。夕暮れが、灰色の空を、薄い紫とオレンジに染めている。

「今日、日が暮れてから、月が出ると思うんです」

 湊は言った。

 彼は、自分のカメラをそっと撫でながら、続けた。

「今日は、きっと欠けた月です。満月じゃない。形が不完全な、半月か、それ以下かもしれない」

 柚は、湊の横顔を見つめた。柔らかな夕陽が、彼の頬を淡く縁取っていた。

「でも、欠けているからこそ、光が当たらない部分があるからこそ、残った部分の輪郭も、はっきりする。その欠けさえも、空全体の一部として、きれいだって、僕は思うんです」

 彼の目は、遠い夜空に浮かぶ、まだ見ぬ月を見ているようだった。

「欠けてる月も、きれいですよ、柚さん」

 それは、柚の仕事の失敗や、過去の欠落を、否定しない言葉だった。無理に「あなたは完璧だ」と励ますのではなく、「欠けていたとしても、あなたは美しい」と、存在そのものを肯定する、無防備な優しさだった。

 柚の目から、堰を切ったように、熱い涙が溢れ出した。声は出さない。ただ、頬を伝う涙が、膝の上の冷たい缶コーヒーに、小さな水たまりを作った。

 この涙は、悲しみではない。それは、柚が抱えてきた自己否定の氷が、彼の言葉という静かな熱によって、ゆっくりと溶けていく音だった。

(欠けたままで、いい)

 初めて、そう思えた。自分の「欠け」を、世界の一部として、愛される喜び。それは、孤独が溶解し、赦しが生まれる瞬間だった。

 湊は、柚の涙には気づかないふりをして、ただ静かに隣に座っていた。彼は、柚の涙を「拭ってあげたい」という衝動と、「見守りたい」という尊厳の間で、静かに葛藤しているようだった。

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