第八話:ひとりごとの夜
夜十時。柚は帰宅し、冷えた部屋に一人だった。ジャケットを脱ぎ、キッチンで気温が冷ました水を飲む。今日の撮影での風の音、そして湊の「空気が生きてる」という声が、まだ耳の奥に残っていた。
彼の無防備な言葉は、いつも柚の強固な理性と防御壁を、気づかぬうちに迂回して、心の柔らかい場所に触れてくる。
テーブルの上に置いたスマホが光った。通知。
差出人は、湊だった。
メッセージを開く。
「今日はありがとうございました。風が強かったですね。でも、黒いジャケットが風に少し膨らんで、風の中にいる柚さんが、すごく綺麗でした」
柚は、メッセージを二度、三度と読み返した。
「綺麗でした」
そのたった一言が、柚の胸を、痛いほど締め付けた。
(綺麗?私が?)
柚は、自分の姿に「愛される価値」を上手く見出せないまま生きてきた。これまでの恋人たちも、「魅力的だ」とは言ったが、それは心からの言葉ではなかったような気がした。
湊が言う「綺麗」は、彼のカメラの視線を通して見た、世界の一部としての柚だった。風に煽られ、無防備で、少し寂しげな——そんな柚を、彼は「綺麗」だと言ったのだ。
柚は、立ち上がり、洗面所の鏡を見た。
鏡に映る自分は、疲れた顔をしている。風で少し乱れた髪。どこが綺麗だというのだろう。
「愛されたと思ったことがない。だから、愛される自分を想像できない」
これは、柚の心の奥底に染みついた、呪文のようなものだった。愛されることへの期待は、裏切られたときの痛みを伴う。だから柚は、期待をしないことで、自分を守ってきた。
しかし、湊のメッセージは、その自己防御を、静かに揺さぶる。
(この言葉を、信じてしまってもいいのだろうか?)
信じたら、また傷つくかもしれない。それが、柚の最初の防衛本能だった。
柚は、スマホを握りしめたまま、ベランダに出た。夜風が、冷たく頬を撫でる。
返信の画面には、まだ何も入力していない。
指が、何度もキーボードの上を彷徨う。「ありがとう」と打とうとする。けれど、その簡単な四文字に、柚の胸の奥から湧き出る、喜びと戸惑いが混ざった感情を収めることはできなかった。
(嘘じゃないのかもしれない)
彼の瞳に、偽りはなかった。彼の行動は、いつも不器用で、まっすぐだ。彼は、柚に何かを求めたりしていない。ただ、見たままを、感じたままを、伝えてきただけだ。
それは、柚の心にとって、初めての経験だった。
柚は、再びメッセージの画面を見つめた。返信は、やはりできなかった。
代わりに、柚の心の中で、小さな、ほとんど聞こえないほどの声が生まれた。
「愛されても、いいかもしれない」
それは、否定から受容への、微かな揺れだった。冷たい夜風の中で、柚の胸だけが、じん、と温かかった。その小さな温度の回復が、明日の予感へと繋がっていく。




