第七話:風の音
次の撮影は、都市のビル群が一望できる、少し開けた場所で行われた。空は高く、前日の雨が嘘のように、乾いた風が吹き抜けていく。
モデルの指示出しをする柚の髪が、風に煽られて顔にかかった。柚は、慣れた手つきで髪を押さえる。
そのとき、湊がそっと近づいてきた。彼は、カメラのレンズを覗くのを中断し、柚の横に立つ。
風が、強めに吹いた。柚の髪だけでなく、柚の着ていた薄手のジャケットまでが、ふわりと持ち上がる。
湊は、反射的に、柚の髪が顔にかかるのを避けるように、手のひらを柚の頬の横にそっとかざした。触れるか触れないか、その絶妙な距離。
柚の呼吸が、再び浅くなる。昨夜の指先の記憶が、蘇った。
「す、すみません」
湊はすぐに手を引っ込め、彼の頬は、風で冷えているはずなのに、紅潮していた。彼は、まるで自分の行動に驚いているかのように、目を泳がせる。
「…大丈夫です」
柚が答える。その瞬間、彼の不器用な優しさが、柚の硬い理性を、また少し削り取った。
「あの…」湊は、また口を開く。「僕、風が好きなんです」
唐突な言葉だった。柚は、彼を静かに見つめた。
「風って、いつもそこにいるのに、形がないでしょう。でも、こうやって髪を揺らしたり、服を膨らませたり。空気が生きている感じがするんです」
彼は、柚ではなく、遠くの地平線を見ながら、ゆっくりと語った。彼の言葉には、誰かに聞かせようとする意図や、柚を口説こうとする企みは一切感じられなかった。ただ、世界に対する、純粋な愛があるだけだった。
「風は、誰に対しても平等で、ただ、過ぎ去るだけ。それが、すごく、優しいなと思うんです」
柚は、自分の心臓が、微かに、そして確かに、その言葉に共鳴したのを感じた。
(生きている)
愛された記憶がない柚にとって、「生きている」という実感は、常に孤独と同義だった。息を吸うのも、物を食べるのも、仕事をするのも、すべては自分一人で完結する行為だった。
しかし、今、この瞬間に吹いている風は、柚の髪を揺らし、湊のシャツも微かに膨らませている。二人の間に、ひとつの生命が、確かに流れている。
「空気が生きてる感じがする」
その言葉が、柚の胸の奥に深く響いた。それは、柚が長い間、無意識のうちに拒否してきた、「生」の再認識だった。
柚は、愛を信じていない。しかし、世界の美しさは、否定できない。
この強く吹く風も、肌に当たる冷たさも、そして隣に立つ湊の静かな熱も、すべては世界そのものからの愛の比喩のように感じられた。
世界が、少しだけ、美しく見える瞬間。
その美しさは、柚の孤独を否定しなかった。むしろ、孤独の中にある柚を、風に乗せてそっと持ち上げてくれるかのようだった。
柚は、目を閉じた。風の音が、遠い記憶の扉を叩いた。それは、痛みの記憶ではなく、ただ、自分が存在しているという、確かな音だった。
「…そう、ですね」
柚は、微かな声で答えた。その声は、風の音に紛れて、消えていったかもしれない。だが、湊は、しっかりと柚の方を向き、その沈黙の続きを、静かに受け止めていた。




