第六話:指先の距離
その日の夜、柚は残業で一人、オフィスのパソコンに向かっていた。広告案件の撮影が近い。湊から送られてきた写真データの選定をしなければならない。
深夜のオフィスは、都市の喧騒から切り離された、別の静寂に包まれていた。デスクの上の蛍光灯だけが白く光り、その光が孤独を際立たせる。
ポン、と短い通知音が鳴った。湊からのメッセージだった。
「夜分遅くにすみません。データのことで、今から少しお邪魔しても大丈夫でしょうか?」
柚は、一瞬ためらった。夜。二人きり。けれど、撮影もクリティカルな段階だ。私情を挟む隙間はない。
「大丈夫です。どうぞ」と返信した。
数分後、湊が小さな音を立てて入ってきた。彼は、夜の空気と、雨の匂いをわずかに纏っていた。
「ありがとうございます。急にすみません」
彼は、また顔を赤くしている。その姿は、夜の緊張感を少しだけ緩ませた。
柚は、自分のノートパソコンを、彼のいる側に少しずらした。
「さっそくですが、このカットのトーンについて、相談したいことが」
二人は、並んで椅子に座る。身体が触れることはない。けれど、吐息の距離は近い。柚の鼻先に、彼の服から香る、風と石鹸の匂いが届いた。それは、静かで清潔な、無防備な匂いだった。
柚は、マウスを握り、画面上の写真をスクロールする。彼は、熱心に画面を覗き込む。彼の真剣な眼差しが、すぐ隣にある。
柚の指が、特定の写真で止まった。モデルの横顔に、光の粒が落ちている。柚が気に入っているカットだった。
「これ、すごくいいですね。この光の粒が、コンセプトに合っています」
柚が言うと、湊は小さく息を飲んだ。
「本当ですか。僕は、柚さんがこの写真を選ぶような気がしていました」
「どうして?」
「なんとなく。この光の粒は、孤独の中にある、見えない希望みたいに見えたので」
柚の背筋が、一瞬で凍る。彼は、柚の孤独を、無意識に言葉にした。彼にとってそれはただの感想かもしれないが、柚にとっては、心の核に触れられた感覚だった。
柚は、言葉を返すことができない。ただ、マウスを握りしめたまま、沈黙する。
その沈黙を破ったのは、湊だった。彼は、柚の隣から手を伸ばし、マウスの上に、自分の指先をそっと重ねた。
「もう少し、ここをズームして見てもらえませんか」
彼の指は、柚の指よりも少し大きかった。暖かかった。
指先が触れた場所に、世界が生まれた気がした。
柚の呼吸が、止まった。心臓の音だけが、耳元で激しく鳴っている。柚は、反射的に手を引こうとした。人に親密な距離感で触れられることは、愛された記憶の欠落を、痛みとして再認識させる行為だったからだ。
だが、湊は、柚の手を無理に押さえつけることはしなかった。ただ、一瞬だけ指を重ね、そして、すぐに離した。その動作は、あくまで写真を見せるための、自然な動きだった。
柚は、恐る恐る顔を上げた。
彼の耳は、赤く染まっていた。羞恥と、僅かな動揺。けれど、その瞳は、柚の身体ではなく、柚の顔を、柚の反応を、見つめていた。
「すみません、驚かせましたか」
湊は、蚊の鳴くような声で言った。
「…いえ」
柚は、かろうじて絞り出した。
彼の指先が触れた場所が、熱い。それは、電気的な快楽ではなく、信頼への一歩を、身体が初めて許可した、微かな温度の上昇だった。
「…そうだ。傘、ありがとうございました」
柚が戸惑う心を隠すためにそう言うと、湊も動揺を隠すためにその話題に身を寄せた。それはまるで心の現れを隠す傘にふたりで入ったように、隠しているようで、ふたりの心をさらけ出している空間だった。
愛されることを拒んできた柚の心の奥で、「この人になら、触れられてもいいのかもしれない」という、予期せぬ許しが生まれていた。




