第五十話:月の声を聴く夜
湊が旅立って、三日目の夜。
柚は自室のベランダに立っていた。あの運命的な一夜と同じ、真夜中の静寂が、都市を覆っている。
以前の柚にとって、夜は心を閉ざすためのシェルターであり、孤独の光が唯一自分を照らす時間だった。
だが、今の夜は違う。
夜は、沈黙の音を聴かせてくれる、静かな安息の場所になっていた。
遠くのビルの灯りが、地上の星のように瞬いている。
柚は、部屋に戻り、テーブルに置かれた湊のカメラを手に取った。液晶画面を立ち上げ、彼が旅先から送ってきたばかりの最新の写真を開く。
それは、湖畔の満月を写した一枚だった。
月は、水面に完璧な円を描き、その光は、写真全体を透明な、優しい空気で満たしている。
(ああ、きれい)
柚は、その月を見て、湊が以前呟いた言葉を思い出した。
「恋って、音みたいだね」
湊にとって、愛は、騒がしい言葉ではなく、世界に満ちる静かな共鳴だったのだ。
柚は、そっと目を閉じた。
夜の空気、遠い車の音、自分の呼吸、心臓の鼓動。
そして、その全てを超えて、月の声が聞こえるような気がした。
それは、柚の心の奥底で、ずっと前から響いていた、愛の音色だった。
愛された記憶がないと思っていたのは、間違いだった。
雨も、風も、月光も、夜の静寂も、全てが柚の存在を優しく肯定し、孤独の影を撫で続けていたのだ。湊は、その世界の愛を、彼の無防備な優しさというフィルターを通して、柚に思い出させてくれただけ。
柚の頬を、一筋の涙が伝った。
それは、痛みの涙ではなく、心の温度が、完璧な幸福に達したことを示す、静かな涙だった。
柚は、目を閉じたまま、心の中で湊に話しかける。
(もう、一人じゃないよ)
そして、彼女は、画面の中の月光に微笑みかけた。
愛された記憶は、誰かから与えられるのではなく、自分自身が、世界の美しさを信じることで取り戻される。
窓の外の夜風が、そっと柚の頬を拭っていく。
夜の沈黙は、もう、愛の不在を語らない。
それはただ、優しさの余韻を、永遠に響かせている。
夜の帳の奥で、すべての孤独は、優しさの音に還った。




