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月の声を聴く夜  作者: 山川海雲
第一章:はじまりの静寂 ― 孤独という光
5/50

第五話:雨の予感

 翌日、空は重たかった。朝から雲が低く垂れ込め、街全体が深い水底に沈んだようだった。

 モデル撮影の予定だったが、午前中の湿度の高さと暗さで、現場には中止ムードが漂っていた。柚は、企画担当として、静かにスタッフに指示を出す。理性的な仮面は、今日も完璧に機能している。

 湊は、窓の外の曇天を見上げていた。彼の横顔に、昨日のカフェで見た無防備な透明感が、再び浮かんでいた。彼は、こういう自然の不可抗力に、腹を立てたり焦ったりする様子がなかった。ただ、世界を静かに受け入れている。

昼過ぎ、案の定、撮影中止が決定した。

「残念ですね」

 湊は、本当に残念そうな顔で、小さく呟いた。

「この曇りの光、逆に情緒的でいいかなと思ったんですけど。でも、モデルさんの肌のトーンは大事ですからね」

 柚は、「またスケジュール調整します」と事務的に答えた。

 外に出ると、空気の匂いが変わっていた。アスファルトの匂い、土の匂い。雨が、もうそこまで来ている。

「僕、事務所が近いので、ここからすぐの駅から電車で帰ります」

 湊が言った。彼は、大型のカメラバッグを肩にかけ、少し猫背になって立っている。

「柚さんは、傘、お持ちですか?」

 湊が尋ねた。柚は傘をもっていなかった。

 その瞬間、ポツリ、と雨粒が落ちてきた。アスファルトに、小さな丸い模様を作る。

「あっ」

 湊が慌てた。彼は、カメラバッグを濡らさないように、慌てて身体で庇う。その仕草は、自分自身よりも機材を守ろうとする、不器用な職人のようだった。

「僕、機材が大きいので、ちょっと大変で…」

 彼は困ったように笑い、そして、おもむろに自分のリュックから、一本の傘を取り出した。それは、地味な折り畳み傘だった。

「これ、どうぞ」

 湊は、柚にその傘を差し出した。

 柚は、戸惑った。彼の方が、大きな機材を抱えている。

「僕、このまま濡れても、どうせすぐ事務所なので。柚さんは、風邪引かないように…」

 柚は、彼の差し出す傘を、見つめた。

「風邪を引かないように」。その一言が、柚の胸の奥で、氷がチリンと解ける音をさせた。それは、愛の言葉ではない。恋の期待でもない。ただの、無防備な優しさだった。

 差し出された傘を受け取ろうと、柚が手を伸ばした瞬間、強い風が吹いた。そして、雨脚が急に強くなる。

 二人の指先が、傘の柄のところで、一瞬だけ、触れた。

 その触覚に、柚の鼓動が、雨音に紛れて跳ねた。それは、カフェの沈黙で感じた共鳴とは違う、もっと個人的で、切実な温度だった。

 柚は、自分の弱さ、つまり「愛されたい」という感情を、人に見せるのが怖かった。優しさに身を晒すことは、「濡れること」と同じで、防御を解くことだった。

 けれど、湊の指先の温度は、まるで「濡れてもいいよ」と許してくれているようだった。

 柚は、言葉にできない感情を飲み込み、彼の傘を手に取った。

「ありがとうございます」

 その声は、震えていたかもしれない。

 湊は、ホッとしたように笑った。

「一緒に駅まで使いましょう」

 柚は彼の傘を広げた。湊は少し驚いた顔で、赤くなりがら傘の下にはいった。

「ぼくが持ちますよ」

 彼は、水面に映る街の灯りのように、透明だった。その不器用で、まっすぐな優しさが、柚の心の氷を、少しずつ溶かしていく。

 雨音が、まるで二人の間の沈黙を包み込むように、優しく降り注いでいた。

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