第四十八話:別れの朝
夜が明け、冬の光が窓を白く染めていた。
今日は、湊が新たな撮影のために、数日間、遠方へ旅立つ日だった。
以前の柚ならば、この別れの瞬間を、心の底からの恐怖として迎えていただろう。愛する人が離れることは、愛を失うことと直結していたからだ。
だが、今朝の柚の心は、穏やかな静けさに包まれていた。
食卓には、柚が淹れた熱い紅茶の湯気が、白い息のように立ち上っている。
湊は、大きなリュックを背負い、いつものように照れた顔で、柚に向き直った。
「じゃあ…行ってきます」
彼は、心配そうな瞳で柚を見つめた。「寂しい」と柚が言えば、彼はきっと、その言葉を重く受け止めるだろう。
柚は、その湊の不安げな瞳を見て、微笑んだ。その微笑みは、作り物ではない、心の底からの、柔らかい光だった。
「行ってらっしゃい、湊」
柚はそう言って、一歩前に出て、彼のコートの襟を、そっと整えた。
指先が彼の首筋に触れる。その一瞬の体温の交換が、言葉以上の意味を持っていた。
「気をつけてね。無理しないで、湊らしい写真を撮ってきて」
彼女の言葉には、「早く帰ってきて」という依存の願いは、含まれていなかった。そこにあるのは、「あなたの存在を心から信頼している」という、成熟した愛の静かな肯定だった。
湊は、安堵と喜びが混ざったように、はにかむような笑顔を見せた。
「行ってきます。…すぐ戻りますから」
そして、彼は、柚の額に、光のような短いキスを落とした。
ドアが閉まる音。
沈黙が、部屋に戻ってきた。
しかし、その沈黙は、もはや孤独の音ではなかった。それは、信頼という名の、見えない糸が、柚と湊をしっかりと繋いでいることを示す、確かな鼓動だった。
柚は、彼の姿が見えなくなった玄関で、深呼吸をした。
(大丈夫。彼は、私の中にいる)
愛は、傍にいることではなく、信じ合っていることだと、柚は今、深く理解した。




