第四十七話:ありがとうのかわりに
湖畔から戻り、二人は湊の部屋で夕食を共にした。
日常に戻ったはずなのに、部屋の空気は、以前よりもずっと密で、温かい静けさに満たされていた。
食事を終え、ソファに並んで座る。湊は、少し照れたように、膝を抱え、犬のように丸くなっている。その姿が、柚にはたまらなく愛おしかった。
この数ヶ月間、柚が湊から受け取ったのは、無条件の、惜しみない優しさだった。それは、愛された記憶がない柚が、「受け取っていいもの」だと、初めて信じられた光の贈り物だった。
(私は、この人に、何を返せるのだろう)
柚の心に、衝動的で、しかし静かな決意が湧き上がった。
彼女は、静かに身体を動かし、湊の膝から手を離させ、両手で彼の頬を包み込んだ。
湊は、突然の行動に目を丸くし、すぐに赤面した。その戸惑いが、彼の純粋さを証明していた。柚は、彼の柔らかい頬の感触を感じながら、ゆっくりと顔を近づけた。
そして、湊の頬に、そっと、唇を押し当てた。
それは、情熱的なキスではなかった。
過去の全ての感謝を込めた、静かで、確かな接触だった。
唇を離した柚は、湊の瞳を見つめた。彼の瞳は、湖面の波紋のように静かに揺れていた。
「ありがとう、湊」
今、口にした「ありがとう」は、「あなたを愛しています」という、感謝の形をした、愛の告白だった。
柚の手のひらから、愛された実感が、温かい電流のように湊の頬に流れ込んでいく。
愛を「受け取る」ことを知った柚が、今、初めて愛を「与える」ことを知った。
与える愛は、受け取る愛と同じくらい、魂を震わせる奇跡だった。
湊は、しばらく戸惑いを隠せないまま柚を見ていたが、やがて、喜びで目を細め、そっと柚の頬に、自分の頬を摺り寄せた。
それは、犬が主人に甘えるような、温かい仕草だった。
二人の間には、言葉は必要なかった。愛は、感謝と信頼の体温で、静かに交換されていた。




