第四十五話:風の祈り
帰路につく前、二人は再び湖畔に立った。
陽光は鋭く、湖面を千の光の破片に変えていた。空気は清澄で、都市の喧騒とは隔絶されている。
風が吹いた。
その風は、柚の髪を優しく撫で、コートの裾を翻した。その冷たさは、柚の奥深くにあった「愛されなかった記憶」の、微かな残滓を呼び起こした。
(私を誰も求めなかった、あの日の冷たさ)
(孤独に耐えるしかなかった、夜のベランダの風)
以前の柚であれば、この風が運んでくる過去の影に、身を硬くしていただろう。だが今、彼女の心臓は、力強く、温かい音を立てている。
柚は、目を閉じた。隣に、湊が立っている。彼は何も言わない。ただ、彼の存在そのものが、柚を打ち付けようとする冷気から守る、静かな壁になっていた。
柚は、体の中から全ての冷たさを、全ての恐怖を、愛への渇望を、そして愛されない自分への自己否定を、一点に集めた。
それは、彼女の魂の重い荷物だった。
彼女は、その重さを感じきった後、深く、深く、湖底の水を吸い上げるように息を吸い込んだ。
そして、祈るように、ゆっくりと、その全ての重荷を、白い息ととも吐き出した。
「さよなら」
誰にも聞こえない、魂だけの別れの言葉。
その瞬間、風が柚の吐息を受け止め、湖の向こうへ、遙か彼方へと運び去った。風は、彼女の過去の痛みを、審判することなく、ただ運ぶ。
彼女の胸の奥に、ぽっかりと空洞ができた。
長年、痛みで満たされていたその空間が、今、空っぽになったのだ。
空洞は、すぐに、朝の光と、湖の透明な静けさで満たされた。それは、湊の愛と、世界そのものの優しさの比喩だった。
柚は目を開けた。
視界に入る全てのものが、初めて見るかのように美しく見えた。光の粒、風の音、遠くの山の稜線。
世界は、ずっと柚を愛していたのだ。
湊は、柚の変化を静かに見守っていた。柚が目を開けると、彼はそっと、一歩だけ近づいた。
そして、犬のように、無防備に、しかし真剣な 眼差しで柚の手を自分の手のひらで包み込み、そっと額に触れるだけのキスをした。
それは、「よく頑張りました」という、柚の風への祈りの完了を承認する儀式だった。




