第四十四話:帰る場所
旅の終わりが、湖畔の霧のように静かに迫っていた。
チェックアウトの時間が近づくにつれて、柚の胸に、微かな、しかし確かな緊張感が戻ってくるのを感じた。
都市の生活。過去の孤独。心を閉ざしていた日常。
この数日間、湊との透明な時間の中で忘れていた、かつての自分の姿が、遠くの街の灯のように、柚を呼んでいる。
柚は、荷物をまとめながら、ふと、湊の背中に向かって、つぶやくように言った。
「私…家に、帰りたくない」
その言葉は、拒絶でも、わがままでもなかった。それは、この温もりから離れたくないという、生まれたての愛の、素直な、か弱い願いだった。
湊は、振り返った。その顔に、驚きも、困惑もない。ただ、優しい静けさがあった。
彼は、柚の近くに歩み寄り、床に座り込み、犬のように柚の膝を見上げた。
「帰る家が、怖いですか?」
柚は、首を振ることができなかった。
家は、単なる建物ではない。それは、柚にとって、愛されなかった記憶を閉じ込めた、静かな檻だった。
「…ここで感じた温かさが、幻だったことになるのが、怖いです」と、柚は、震える声で告白した。
湊は、柚の膝に手を置き、優しく、しかし確かな重みで、柚の存在を支えた。
「大丈夫ですよ」
彼の声は、湖底から響く、澄んだ音だった。
「柚さんの帰る場所は、この場所じゃなくて、柚さんの心の中にできたんです」
彼は、そっと柚の胸を指さした。
「柚さんの心の温度が上がったから、もうどこにいても、柚さんは孤独じゃない」
そして、不器用で、まっすぐな湊らしい言葉が続いた。
「もし、また冷たい風が吹いて、柚さんの心が凍りそうになったら、いつでも僕のところに来てください。…ここが帰る場所でいい」
「ここ」とは、この民宿でも、この湖畔でもない。「湊の腕の中、湊の心の中」のことだ。
柚の目から、溢れるほどの涙が溢れた。
愛された記憶がないために、居場所がないと感じていた。しかし、湊は、物理的な居場所ではなく、魂の居場所を与えてくれたのだ。
彼女は、自分の内側に、根を下ろした木のような、揺るぎない安心感を感じた。




