第四十三話:言葉のいらない愛
朝食の準備を終え、二人は小さなテーブルに向かい合って座った。
昨日までの旅の記憶が、湖の水面のように静かに揺蕩っている。
会話は少ない。
しかし、その沈黙は、以前の柚が抱えていた「孤独の沈黙」とは、まったく性質が異なっていた。
過去の沈黙は、心の壁であり、言葉にできない孤独の叫びだった。しかし、今の沈黙は、心の満ち足りた状態を示す、完全な平和だった。
柚が味噌汁を啜る音。湊が卵焼きを皿に取る音。
その生活の微かな音が、二人の間に流れる確かな共鳴を、より際立たせていた。
柚は、湊を見た。
湊は、柚と目が合うと、いつものように少し照れたが、すぐにその目を逸らさず、まっすぐに見返した。
その瞳の奥には、「好き」や「愛している」という、具体的な言葉はなかった。
しかし、柚にはわかる。彼の瞳が語っているのは、言葉よりも深く、強固な「愛」そのものだ。
(もう、聞かなくてもいい)
(「私を愛していますか?」なんて、質問は、もう必要ない)
愛は、空間に満ちていた。
二人の間の空気、窓から入る光、朝食の湯気。そのすべてが、彼からの、そして世界からの、無条件の肯定だった。
柚は、自分の手の甲を、テーブルの下で、そっと湊の手の甲に重ねた。
湊は、そのまま静かに、柚の手に自分の体温を移すように、力を込めた。
会話は、もはや呼吸になっていた。
彼の息を吸い、彼女の息を吐く。その生命のやり取りが、そのまま愛の交信だった。
以前、柚は、愛された経験がないがゆえに、「愛の証明」を求めてきた。言葉、約束、行動。それらがないと、愛は幻だと感じてきた。
だが今、目の前にいる湊は、何も証明しようとはしない。ただ、そこにいる。そして、柚の存在を、その心臓の鼓動で肯定している。
湊の愛は、澄んだ月光のように、柚の内なる闇を照らし、消し去った。闇が消えれば、光を証明する必要はなくなる。
柚は、言葉の制約から解放された。
沈黙が、愛を歌っていた。
愛は、確認するものではなく、呼吸するものなのだった。




