第四話:沈黙のコーヒー
打ち合わせが終わり、周囲が片付けの音を立て始める。
柚は冷静な顔で資料をまとめていたが、胸の奥では鼓動が速いリズムを刻んでいた。湊が、すぐそこにいる。
「柚さん」
彼は、少し遠慮がちに声をかけてきた。いつもの同僚に対するトーンとは違う、親密さとも戸惑いとも取れる響きだった。
「あの、もしよければ、この近くで、少しお茶でもどうでしょうか。僕、さっきの話、もう少し聞きたいことがあって…」
彼の提案は、仕事の続きのように聞こえた。しかし、彼の頬が微かに赤らんでいるのを見て、柚はそれが彼の精一杯の「誘い」であると理解した。
断る理由を、柚はすぐに組み立てることができた。忙しい。会議がある。プライベートと仕事は分ける。
だが、口から出たのは、静かな肯定だった。
「…ええ。少しだけなら」
それは、柚の理性ではない、心の底で感じた「温度」への反応だった。
近くのカフェに入った。午後の柔らかな光が、ガラス窓を通り抜け、テーブルの上に光の粒を散らしている。柚はブラックコーヒー、湊はカモミールティーを選んだ。
席に着くと、湊は、やはり口下手だった。
「あの、さっきの、広告のトーンの話なんですけど…」
彼はそう切り出したが、言葉はすぐに途切れた。次に何を話すべきか迷っているように、彼はカップの縁を指でなぞる。
沈黙が続く。
柚は、いつもならこの「間」が苦手だった。相手との沈黙は、柚にとって孤独の音だったからだ。相手の興味が途切れた音。過去の恋人たちは、この沈黙を楽しまず、話題を変えた。
だが、湊の沈黙は違った。この「間」を沈黙とは感じさせなかった。柚の気持ちに寄り添おうと言葉を探している。
何かを埋めようと藻掻くのではなく、ただ、困ったように、カモミールティーの湯気を静かに見つめているだけだった。
柚は、自分の呼吸が、彼の呼吸と、不思議なほど合っていることに気づいた。
(この沈黙は、孤独じゃない)
心臓の鼓動だけが、テーブルの下で、確かだった。沈黙のあいだに、二人の間に漂う空気は、重くなるどころか、逆に透明になっていく。
やがて、湊が口を開いた。
「あの…すみません。僕、話すのが苦手で」
彼は申し訳なさそうに言った。柚は、反射的に首を横に振った。
「いいえ。私も、沈黙は嫌いじゃないです」
それは、本心だった。彼といる沈黙は、まるで夜の公園で感じた、風の音のようだった。余計な言葉がない分、空気そのものが生きていて、お互いの存在だけが、静かに共鳴し合っている。
湊は、その言葉を聞いて、少しだけ安堵したように、微かに微笑んだ。
「でも、打ち合わせではしっかりと話していたのに」
湊は、また少し困ったような顔をした。
「どうしてでしょうね。柚さんの前では苦手になるみたいです」
彼の不器用さが、柚の心の防御を無力化していた。無理に心を開かせようとしない、彼の無防備な性質が、柚に初めて安心を与えていた。
柚は、淹れたてのコーヒーの香りを深く吸い込んだ。
コーヒーの苦味の奥に、少しだけ甘い、孤独じゃない沈黙の温度が残った。それは、恋ではなく、遠い日の記憶の中にある、安らぎの感触だった。
この沈黙の中にいる間だけは、愛された記憶がなくても、呼吸を許されている気がした。




