第三十九話:透明な体温
雨上がりの静けさの中で、二人はしばらくコーヒーを飲み続けていた。柚の指は、未だ湊の手にそっと重ねられたままだ。それは、愛の継続を確かめる、無言の約束だった。
やがて、柚はカップをテーブルに置いた。
彼女は、何かを言おうとする代わりに、ゆっくりと、湊の開いたシャツの襟元に指先を伸ばした。躊躇いはなかった。それは、情欲でも、好奇心でもない。
ただ、「彼の存在」を、確かめたかった。
柚の指先が、湊の鎖骨の柔らかな線に触れる。少し冷えた空気の中で、彼の肌だけが、確かな温もりを放っていた。
湊は、ぴくりとも動かない。まるで、柚の指が心の深部に触れるのを、じっと待っているようだった。
柚は、さらに指を滑らせ、彼の鼓動が響く、薄い胸板に掌を置いた。
湊の心臓は、静かに、規則正しいリズムを刻んでいる。それは、雨上がりの水音のように、揺るぎなく、穏やかだった。
柚は、目を閉じた。
(ここにある)
(この、温かい鼓動)
彼女が求めていたのは、愛の言葉や、行為による快楽ではなかった。
愛された記憶がないという孤独は、常に柚の存在そのものを「透明で、頼りないもの」にしてきた。しかし、今、掌に感じている湊の体温と鼓動は、「彼も私もここにいる」という、動かしがたい存在の実感だった。
そして、その存在が、自分を拒絶することなく、ただ受け入れているという事実。
それは、柚自身の存在を、透明な不安から、確かな実体へと変えていった。
彼の肌を通して感じる体温は、熱狂的なものではなく、むしろ透明に澄んでいた。彼の身体は、愛と信頼を映す、清らかな水面のようだった。
柚の指先が、「触れる」行為を超えて、「溶け合う」感覚に到達する。彼女の心の空洞は、彼の鼓動のリズムによって、ゆっくりと満たされていく。
湊は、静かに、柚の手を自分の胸に押し付けるように、上から、そっと手を重ねた。
その仕草は、「私はここにいます。嘘偽りなく、愛を、あなたに捧げています」という、不器用で、まっすぐな祈りだった。
柚は、彼の胸に額を寄せた。
聞こえてくるのは、彼の心臓の音だけではない。それは、世界が柚を抱きしめる音であった。




