表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月の声を聴く夜  作者: 山川海雲
第四章 月の声 ― 魂の交わり
39/50

第三十九話:透明な体温

 雨上がりの静けさの中で、二人はしばらくコーヒーを飲み続けていた。柚の指は、未だ湊の手にそっと重ねられたままだ。それは、愛の継続を確かめる、無言の約束だった。

 やがて、柚はカップをテーブルに置いた。

 彼女は、何かを言おうとする代わりに、ゆっくりと、湊の開いたシャツの襟元に指先を伸ばした。躊躇いはなかった。それは、情欲でも、好奇心でもない。

 ただ、「彼の存在」を、確かめたかった。

 柚の指先が、湊の鎖骨の柔らかな線に触れる。少し冷えた空気の中で、彼の肌だけが、確かな温もりを放っていた。

 湊は、ぴくりとも動かない。まるで、柚の指が心の深部に触れるのを、じっと待っているようだった。

 柚は、さらに指を滑らせ、彼の鼓動が響く、薄い胸板に掌を置いた。

 湊の心臓は、静かに、規則正しいリズムを刻んでいる。それは、雨上がりの水音のように、揺るぎなく、穏やかだった。

 柚は、目を閉じた。

(ここにある)

(この、温かい鼓動)

 彼女が求めていたのは、愛の言葉や、行為による快楽ではなかった。

 愛された記憶がないという孤独は、常に柚の存在そのものを「透明で、頼りないもの」にしてきた。しかし、今、掌に感じている湊の体温と鼓動は、「彼も私もここにいる」という、動かしがたい存在の実感だった。

 そして、その存在が、自分を拒絶することなく、ただ受け入れているという事実。

 それは、柚自身の存在を、透明な不安から、確かな実体へと変えていった。

 彼の肌を通して感じる体温は、熱狂的なものではなく、むしろ透明に澄んでいた。彼の身体は、愛と信頼を映す、清らかな水面のようだった。

 柚の指先が、「触れる」行為を超えて、「溶け合う」感覚に到達する。彼女の心の空洞は、彼の鼓動のリズムによって、ゆっくりと満たされていく。

 湊は、静かに、柚の手を自分の胸に押し付けるように、上から、そっと手を重ねた。

 その仕草は、「私はここにいます。嘘偽りなく、愛を、あなたに捧げています」という、不器用で、まっすぐな祈りだった。

 柚は、彼の胸に額を寄せた。

 聞こえてくるのは、彼の心臓の音だけではない。それは、世界が柚を抱きしめる音であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ