第三十八話:夜明けの水音
柚が目を覚ますと、外は雨が上がっていた。
窓の外からは、水滴が葉を伝い、地面に落ちる、静かで規則的な「水音」が聞こえてくる。昨日までの激しい心の波が嘘のように、世界は穏やかで、澄んだ空気に満ちていた。
湊は、もう起きていた。彼は、民宿の共用スペースにあるキッチンで、二杯のコーヒーを淹れている。
豆が挽かれる、細く、優しい音。そして、立ち上る温かい、安堵の香り。
柚は布団から起き上がり、湊の背中を見た。彼は、こちらに気づかず、窓の外の濡れた庭を見つめている。
柚は、そっと近づき、彼の隣に並んだ。
「雨、あがりましたね」と、柚が囁いた。
「はい。世界が、洗われたみたいに、静かです」と、湊は振り向かず答える。その声には、疲れや緊張は全くなく、深く満たされた静けさがあった。
彼は、カップを一つ、柚に差し出した。湯気が柚の指先に触れ、昨夜の体温を思い出させる。
二人は、言葉を交わすことなく、濡れた庭の景色を眺めながら、コーヒーを飲んだ。
苦味の奥にある甘さ。それが、柚には、生きてきた痛みと、今得た幸福の味のように感じられた。
湊のコーヒーを飲む微かな「啜る音」と、水滴が落ちる「水音」。それら小さな音の集合が、柚の心を、優しく包み込むリズムとなって響く。
もはや、恋の衝動や、劇的な感情の波はなかった。
ここにあるのは、ただ、隣り合って、生を共有しているという静かな実感だけだった。愛が、「特別」な出来事から、「生活」という名の、空気や水と同じ、当たり前のものへと変容した瞬間。
愛は、要求や不安から生まれるものではなく、この雨上がりの朝の光のように、ただ、そこにある優しさを指すのだ。
柚は、カップを持つ湊の手に、そっと自分の手を重ねた。
湊は、驚く様子もなく、柚の手をそっと握り返した。
その手の感触は、言葉よりも雄弁だった。
手のひらに伝わる、彼の不器用な誠実さ。そして、二人分の生命の温度。
(ああ、これが、愛というもの)
(私は、愛されたことがないのではなく、この世界全体が発している、日常の、こんなにも静かな光に、気づいていなかっただけなのだ)
柚は、深く、静かな呼吸をした。それは、初めて、世界の美しさを、自分ごととして受け入れた呼吸だった。




