第三十七話:耳元の風
写真を見た後、柚は再び言葉を失っていた。それは、否定的な沈黙ではなく、全身の細胞が安堵に満たされていく、幸福な静寂だった。湊もまた、何も語らず、ただノートパソコンを閉じた後、そっと柚の肩に手を置いた。
彼の指先は、熱すぎることもなく、冷たすぎることもない、ちょうど良い体温。その穏やかな熱が、柚の身体の表面から、ゆっくりと内側へ染み込んでいく。
「湊くん」
柚が、初めて、恐れを含まない、純粋な呼びかけの声を出す。
湊は、静かに柚の顔を覗き込んだ。彼の瞳は、湖面の光のように、透明で、深い。
柚は、彼に向かって、初めて心から微笑んだ。それは、写真に映っていた一瞬の光ではなく、意志を持った、揺るぎない笑顔だった。
「ありがとう」
その言葉は、感謝の意を超えて、「私はあなたを信じます」という、魂の宣言だった。
湊の顔が、子犬のように、くしゃっと歪んだ。彼は、泣きそうになるのを必死で堪えるように、赤くなった目を逸らし、立ち上がった。
「柚、少し横になりましょうか」
民宿の部屋へ戻り、柚は敷かれたばかりの布団に静かに横たわる。心は、昨夜の嵐が去った後の、晴れ渡った空のように澄み切っていた。
湊は、柚の傍に正座し、彼女の髪をそっと撫で始めた。その手の動きは、風が草木を撫でるように、優しく、ためらいがちに、繰り返される。
愛されることへの抵抗は、もう、どこにもなかった。
柚は、瞼を閉じる。聴覚が鋭敏になり、湊の穏やかな呼吸と、鼓動のリズムだけが、この世界に存在しているように感じられた。
湊が、ゆっくりと柚の耳元に、顔を近づける。
その吐息は、熱ではなく、静かな風だった。柚の目尻から、温かい雫が、一筋、枕に吸い込まれていく。それは、浄化の涙だった。
湊は、その涙に気づいていながらも、拭おうとはしない。ただ、柚の髪を撫でる手の動きを、一定の優しいリズムで、止めない。
この瞬間、柚は知った。湊が与えてくれるものは、恋人という関係性でも、約束でもない。
それは、自分を抱きしめる「世界の優しさ」そのものなのだと。
柚の身体の緊張が完全に解け、透明な水のように布団に沈み込んでいく。彼女の心は、生きてきた中で、最も深く、穏やかな安らぎに満たされていた。




