第三十六話:写真という祈り
湖畔の撮影は、午前中で終わった。湖面に差す朝の光は、柚の心のように、澄んで、揺らめいていた。
民宿に戻り、湊は撮影したばかりのデータをノートパソコンで確認し始める。柚は、静かに彼の隣に座り、コーヒーを飲んでいた。昨夜の告白と、その後の沈黙が、まるで遠い夢のように感じられる。彼からの愛は、重荷ではなく、光の粒子となって柚の心を満たしていた。
「あ、これ」と、湊が小声で言った。
画面には、昨夜の散歩の最中に、湊が無意識にシャッターを切ったであろう、柚の横顔が映し出されていた。
柚は、息を飲んだ。
そこに写っていたのは、夜の帳の中で、心を開放し、ただ湊の言葉を聞いている、無防備で、少し幼い顔だった。過去の傷跡も、愛への恐れも、すべてを削ぎ落とした、魂の素顔。
そして、その連写の中に、たった一枚だけ、奇跡のような瞬間があった。
それは、湊が「返事はいりません」と言った後、柚が微かに口角を上げた、ほとんど笑顔と呼べないほどの、小さな、小さな表情だった。
湊は、照れながら、「これ、失敗作なんですけど」と呟く。焦点は少し甘く、風で髪が乱れ、涙の痕跡が残っている。完璧な写真ではない。
しかし、柚の目には、その写真があまりにも美しく、完璧な「笑顔」に見えた。
「この顔……」と、柚は、自分の声が震えていることに気づいた。
その微かな笑みは、愛されることを諦めていた三十年の孤独から、初めて解放された瞬間の、震える歓びを映し出していた。
(私、笑ってる)
彼女の「笑顔」は、他者に向けられた愛想でも、状況をやり過ごすための偽装でもなかった。それは、自分自身が、世界に存在することを許し、受け入れた時に、自然に溢れ出た、再生の光だった。
湊のファインダーは、技術的な美しさではなく、柚の魂の最も美しい部分を、正確に捉えていた。彼のカメラは、愛と受容のレンズだったのだ。
「……湊くんの、カメラは、魔法みたい」と、柚は、絞り出すように言った。
湊は、画面から柚に視線を移し、不安げな犬のように首を傾げた。
「そうでしょうか。俺、柚の素直な顔が、すごく好きなんです」
彼は、柚の涙の痕跡を拭おうとはしなかった。ただ、その涙の奥にある光を、じっと見つめている。
写真という、形ある「愛された証拠」を手に入れた瞬間、柚の心の中で、何かが完全に変わった。
愛された記憶がないという過去は、もう、彼女を縛らない。なぜなら、湊が今、この瞬間に、新しい、揺るぎない「愛された記憶」を、彼女に与えてくれたからだ。
それは、再生の確信だった。彼女の孤独は、もう、終わったのだ。




