第三十五話:波の記憶
夜明け前の、最も深い青色に包まれた時間。
柚は、湊の静かな寝息を背に、一人、湖畔へ向かう道を歩いていた。昨夜、湊の口から出た「返事はいりません」という言葉が、まだ鼓膜の奥で、優しく反響している。
愛を要求されない。それは、柚の人生において、最も解放的な真実だった。
湖畔に着くと、冷たい風が強く吹き付けてきた。それは、昨夜の月光よりも、もっと原始的で、力強い、自然の意志のようだった。
湖面は、風を受けて小さく波打ち、その波紋が、暗闇の中で、静かに岸辺を濡らしている。
柚は、風の中に、かつて愛した人々の、冷たい視線や、期待の言葉を聞いた気がした。愛されるために、自分を殺して作った笑顔。それでも満たされなかった、心の空洞。それらはすべて、柚の過去に、冷たく焼き付いた「記憶の波」だった。
(私は、ずっと、愛されることを「獲得するもの」だと思っていた)
しかし、湊の愛は、何も求めてこない。湊の「好き」は、柚という存在を、ただ、世界に存在させている風のようなものだった。
柚は、大きく息を吸い込んだ。冷たい空気が、肺の奥まで染み渡る。
その瞬間、強い風の渦が、柚の髪や服を力強くさらい、通り過ぎていった。
まるで、過去の痛みが、「風に乗って、身体から引き剥がされた」ような感覚。
風は、柚の頬を伝う一筋の涙すらも、すぐに乾かしてしまった。
それは、悲しみの涙ではなく、過去との決別を告げる、静かな儀式だった。
湖畔の風は、柚の心に溜まっていた、愛された記憶の欠如による「澱」を、優しく、しかし確実に、自然の摂理へと還していく。
「もう、痛まない」
柚は、自分の内なる声に驚いた。過去を思い出しても、胸の奥の恐れが、もう立ち上がらない。痛みが、完全に、湖の底へ沈んでいくのを感じた。
愛は、奪い合うものでも、要求するものや、獲得するものでもない。
それは、この風や、月光や、湖の波紋のように、ただ世界に満ちているものなのだ。
そして、湊は、柚にその「世界の美しさそのものが愛の比喩である」ことを、身をもって教えてくれた。
風は次第に弱まり、東の空が、ゆっくりと柔らかな光を滲ませ始める。
柚は、過去の重さから完全に解放され、透明な水面のような心で、その夜明けを迎えていた。




