第三十四話:夜の散歩
民宿の夕食後、柚は自室に引きこもることもできたが、そうしなかった。湊からの告白と、それに応えられなかった自分の沈黙が、重く、柚の胸に残っている。しかし、彼の「無理に言わなくていい」という、あの深い眼差しが、柚を孤独にさせなかった。
夜九時。湖畔は再び、静寂と月光の領域となる。
柚が、共用スペースで本を読んでいると、湊がやってきた。彼は、手持ち無沙汰な様子で、犬のようにそわそわしながら、柚の前に立った。
「あの、柚……さっきは、ごめんなさい。戸惑わせてしまって」
彼は、まだ気まずそうに、顔を伏せている。
「ううん。湊くんは、何も悪くない」
柚は、本を閉じた。彼女の心は、まだ「好き」という言葉を返す準備ができていないが、彼から逃げることは、彼の優しさを裏切ることだと知っていた。
「少し、散歩しませんか? 星が、すごく綺麗みたいです」と、湊は提案した。
湖畔の夜道を、二人は並んで歩く。月光が、二人の足元を淡く照らしていた。
湊は、柚の隣を歩きながら、手を繋ごうとはしなかった。彼の腕は、柚に触れないように、不器用に少し離れた場所で揺れている。
それは、柚の心のペースを、尊重している距離だった。
どれくらい歩いた頃だろうか。柚が、意を決して口を開いた。
「湊くんの、さっきの言葉のことなんだけど……」
柚は、息を継いだ。
「私は、愛された記憶がないから、いま、どうやって湊を好きになったらいいのか、わからないの。愛が、いつか必ず、私を裏切るものだと、心のどこかで怖がってる」
湊は、立ち止まった。彼は、柚の方へ体を向けたが、やはり触れようとはしない。
「大丈夫ですよ、柚」
彼の声は、風の音のように、静かで、透き通っていた。
「俺は、柚さんの、返事はいらないです」
柚は、驚いて、彼の顔を見上げた。
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
湊は、まっすぐに柚の目を見て、誠実に告げた。
「柚さんが、俺を好きにならなくても、ただ、柚さんが、柚さんらしく、笑っていてくれたら、それで十分なんです。それが、俺の『好き』の形だから」
彼の言葉は、柚が知っていた、依存や所有を伴う「愛」の概念を、完全に破壊した。
それは、無条件の愛。見返りを求めない、ただ「存在そのものを肯定する」という、世界の美しさそのもののような優しさだった。
柚は、彼の瞳の中に、自分を縛る鎖が、一本も見当たらないことに気づいた。彼の愛は、柚を自由にするための光であり、愛されることを強要しない、無限の受容だった。
心の奥深くで、最後の防衛線が、音もなく崩れ去るのを、柚は感じた。愛を恐れていたのは、それが「代償を求めるもの」だと思っていたからだ。
しかし、湊の愛は、酸素や月光のように、ただそこに存在するものだった。
「誰かを笑顔にできたら、それで十分なんです」
彼の、素朴で不器用な、あの口癖が、今、最も詩的な愛の告白となって、柚の胸に深く響いた。
柚は、初めて、愛を失う怖さよりも、この無防備な優しさを、大切にしたいという衝動を感じた。




