第三十三話:沈黙の告白
湖畔の民宿のダイニング。二人は、朝食を終え、淹れたてのコーヒーを静かに飲んでいた。
窓の外では、朝の光が水面を照らし、キラキラとした光の破片を部屋の中まで運んできている。
柚の心は穏やかだった。隣に湊がいること、彼の呼吸の音が聞こえること、昨夜と今朝、彼の腕の中で感じた安堵の体温。それらは全て、柚がこれまで知らなかった「幸福」の定義だった。
「愛される」という行為は、特別な瞬間に存在するのではなく、この、何気ない日常の光景の中に溶け込んでいた。
湊は、カップを置き、テーブルの下で、そっと柚の手に触れた。彼の指先は、また少し、緊張で冷たくなっていた。
彼は、口を開き、そして、すぐに閉じた。いつもの、不器用さだった。柚は、彼が何を言おうとしているのかを察し、彼の言葉を待った。
湊は、一度深呼吸をし、柚の目を見た。その瞳は、逃げも隠れもしない、まっすぐで、透明な光を宿していた。
「あのね、柚」
彼は、下の名前を呼んだ後、決意を込めたように、一息で続けた。
「俺は、柚のこと、好きです」
その言葉は、まるで湖面を滑る小舟のように、静かに、しかし明確に、柚の心へ着岸した。
(好き)
これまで、何度も聞いてきた言葉だ。だが、この「好き」という音は、柚が知っているどの「好き」とも異なっていた。
それは、所有欲でも、快楽への誘いでもない。ただ純粋に、柚の存在そのものを、世界に留めておきたいと願う、静かな祈りのようだった。
湊は、顔を真っ赤に染め、俯いた。そして、いつものように、自分の言葉が柚を傷つけなかったかを不安がるように、柚の反応を待っている。
柚の心は、激しく揺らいだ。
嬉しかった。胸が張り裂けそうなくらい、魂が震えるほどに嬉しかった。
だが、同時に、少しの恐怖も押し寄せた。
「好き」という言葉は、「失う可能性」と同義だ。柚にとって、「愛」はいつか必ず奪われる、あるいは突然消えてしまう幻影でしかなかった。
(この、温かい光は消えるかもしれない)
柚の心の奥底にあった、自己防衛の壁――「どうせ愛されないのだから、最初から受け入れなければ傷つかない」という冷たい理論が、最後の力を振り絞って立ち上がった。
柚は、返事をすることができなかった。
沈黙が、重く、二人の間に横たわる。
その沈黙は、朝の光を吸い込み、分厚い霧のようになっていく。
湊は、柚の顔色を見て、その心の葛藤を瞬時に理解した。彼の顔から、赤面の色が消え、静かな悲しみと、そして深い受容の表情に変わった。
彼は、自分の愛の言葉が、柚にとって、どれほどの重圧であるかを知っている。
彼は、柚の手を握る力を、少しだけ強めた。
しかし、その手は、柚を縛り付けるためではない。
「私は、あなたの返事を急かさない」という、無言の約束を示すためだった。
「無理に、今、何か言わなくても大丈夫です」
柚の目には、再び、水面が張った。愛されたいと願いながら、愛を拒絶してしまう、自分の矛盾した心に対する、切ない涙だった。




