第三十二話:名前を呼ぶ声
朝の光の中で、湊の肩に寄り添ったまま、柚は深く呼吸を繰り返した。
(もう、逃げなくていい)
その実感が、体全体を、湖畔の朝靄のように、優しく、しかし確実に包み込んでいた。
彼の肩の温もり、窓から差し込む光の温度、そして二人の呼吸が静かにシンクロする聴覚的な安堵。全てが、「ここが私の居場所である」という証明になっていた。
「湊くん」
柚は、囁いた。
「はい」
湊は、柚の髪に頬を寄せたまま、ゆっくりと応えた。
「昨日の夜、私は……」
柚は、言葉に詰まった。昨夜の抱擁は、あまりにも深く、言葉の定義を超越していた。愛だと言うには、あまりに静かで、感謝だと言ってしまっては味気なかった。
「言わなくても、大丈夫ですよ」と、湊は、柚の言葉を遮った。
彼の声は、昨夜の愛を、言葉で「所有」しようとしない、透明な愛の形を示していた。
「柚さんの、心の音は、ちゃんと聞こえてるから」
柚は、その言葉に、胸の奥がまた熱くなるのを感じた。彼は、いつも、柚の沈黙の中にある、言葉にならない声を聴いてくれる。
やがて、柚が顔を上げ、彼の目を見つめた。湊は、いつものように、少し赤面しながらも、真摯な眼差しを返した。
その時、湊が、これまで一度も使ったことのなかった、たった二文字の音を口にした。
「……柚」
その響きは、静かに、そしてまっすぐに、柚の耳の奥へと届いた。
「柚さん」という、社会的な距離を保った呼び方ではなかった。
「柚」
彼の声の、その響きは、彼女が愛されなかった過去で、「個」として認められることを、強く願っていた、自分自身のありのままを呼ぶものだった。
かつての恋人たちは、「ユズ」と馴れ馴れしく呼ぶことはあっても、そこに「魂の承認」はなかった。ただの記号として、その名を呼んだだけだ。
だが、湊の口から発せられたその音には、優しさと、尊敬と、そして、全てを受容した愛が込められていた。
柚の全身に、雷鳴のような、しかし冷たさのない衝撃が走った。
その瞬間、柚の視界は、再び、水面に覆われた。
また、涙だった。しかし、昨夜の涙とも、悲しい時の涙とも、全く違った。
それは、存在を肯定された歓びが、体の内側から溢れ出す、光の涙だった。
「私、ここにいる」
愛された記憶がない柚が、「柚」という個の存在が、愛されるに値するのだと、心底から信じられた。
湊は、柚が泣いているのを見て、少し慌てて、いつものようにどもりそうになった。
「あ、ごめんなさい。急に、下の名前で呼んで、変だったよ、ね……?」
柚は、震える声で、その言葉を遮った。
「ううん。湊くん。ちっとも変じゃない」
柚は、湊の首に腕を回した。
「ありがとう。初めて、私の名前の音を、ちゃんと聞けた気がする」
湊は、戸惑いながらも、その抱擁を、優しく受け止めた。
湖畔の朝の光は、二人の頬を伝う、二度目の爽やかな涙を、静かに照らし続けていた。




