表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月の声を聴く夜  作者: 山川海雲
第四章 月の声 ― 魂の交わり
32/50

第三十二話:名前を呼ぶ声

 朝の光の中で、湊の肩に寄り添ったまま、柚は深く呼吸を繰り返した。

(もう、逃げなくていい)

 その実感が、体全体を、湖畔の朝靄のように、優しく、しかし確実に包み込んでいた。

彼の肩の温もり、窓から差し込む光の温度、そして二人の呼吸が静かにシンクロする聴覚的な安堵。全てが、「ここが私の居場所である」という証明になっていた。

「湊くん」

 柚は、囁いた。

「はい」

 湊は、柚の髪に頬を寄せたまま、ゆっくりと応えた。

「昨日の夜、私は……」

 柚は、言葉に詰まった。昨夜の抱擁は、あまりにも深く、言葉の定義を超越していた。愛だと言うには、あまりに静かで、感謝だと言ってしまっては味気なかった。

「言わなくても、大丈夫ですよ」と、湊は、柚の言葉を遮った。

 彼の声は、昨夜の愛を、言葉で「所有」しようとしない、透明な愛の形を示していた。

「柚さんの、心の音は、ちゃんと聞こえてるから」

 柚は、その言葉に、胸の奥がまた熱くなるのを感じた。彼は、いつも、柚の沈黙の中にある、言葉にならない声を聴いてくれる。

 やがて、柚が顔を上げ、彼の目を見つめた。湊は、いつものように、少し赤面しながらも、真摯な眼差しを返した。

 その時、湊が、これまで一度も使ったことのなかった、たった二文字の音を口にした。

「……柚」

 その響きは、静かに、そしてまっすぐに、柚の耳の奥へと届いた。

「柚さん」という、社会的な距離を保った呼び方ではなかった。

「柚」

 彼の声の、その響きは、彼女が愛されなかった過去で、「個」として認められることを、強く願っていた、自分自身のありのままを呼ぶものだった。

 かつての恋人たちは、「ユズ」と馴れ馴れしく呼ぶことはあっても、そこに「魂の承認」はなかった。ただの記号として、その名を呼んだだけだ。

 だが、湊の口から発せられたその音には、優しさと、尊敬と、そして、全てを受容した愛が込められていた。

 柚の全身に、雷鳴のような、しかし冷たさのない衝撃が走った。

 その瞬間、柚の視界は、再び、水面に覆われた。

 また、涙だった。しかし、昨夜の涙とも、悲しい時の涙とも、全く違った。

 それは、存在を肯定された歓びが、体の内側から溢れ出す、光の涙だった。

「私、ここにいる」

 愛された記憶がない柚が、「柚」という個の存在が、愛されるに値するのだと、心底から信じられた。

 湊は、柚が泣いているのを見て、少し慌てて、いつものようにどもりそうになった。

「あ、ごめんなさい。急に、下の名前で呼んで、変だったよ、ね……?」

 柚は、震える声で、その言葉を遮った。

「ううん。湊くん。ちっとも変じゃない」

 柚は、湊の首に腕を回した。

「ありがとう。初めて、私の名前の音を、ちゃんと聞けた気がする」

 湊は、戸惑いながらも、その抱擁を、優しく受け止めた。

 湖畔の朝の光は、二人の頬を伝う、二度目の爽やかな涙を、静かに照らし続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ