第三十話:夜の抱擁
湖畔のウッドデッキで、柚の涙が乾いた後、二人は言葉少なに移廊を歩いた。月の光が、二人の影を、寄り添うように一つに伸ばしていた。
宿の部屋に戻っても、部屋は暗いままにした。
窓の外には、満月の夜。湖面は銀色の呼吸を繰り返し、その微かな光が、部屋の隅々にまで詩的な余白を与えていた。
柚はベッドの縁に腰掛け、湊は少し離れた窓辺に立っている。
湊は、柚に何も求めなかった。それは彼の無防備な優しさだった。
沈黙が、空気の粒子を確かめるように流れる。その沈黙は、もはや緊張ではなく、愛が生まれる前の静寂だった。
柚の心には、昨日まで感じていた痛みも、涙の塩気も、残っていなかった。ただ、彼の体温だけを、強く求めていた。
柚は、ゆっくりと立ち上がり、湊の背中に近づいた。足音は、カーペットに吸い込まれ、衣擦れの音だけが、この夜の親密さを語る。
柚が、意を決して、彼の背中にそっと腕を回した。
湊の体が、一瞬、強くびくついた。柚の突然の行動に、彼は混乱しているようだった。
「柚さん……?」
彼の声は震えていた。喜びか、それとも驚きか。
柚は、何も言わずに、彼に顔を埋めた。
彼の背中は、固く、しかし生きている熱を持っていた。
「こうしてて」と、柚は、彼の耳元に吐息だけで伝えた。
湊は、すぐに理解した。これは、柚自身の「祈り」なのだと。
湊は、ゆっくりと体を反転させた。そして、その震える両腕で、柚の体を抱きしめた。
それは、まるで、壊れた鳥の羽を拾い上げるような、静かな抱擁だった。
二人の体は、服の布地越しに触れ合っているだけなのに、柚の中では、湊の体温が皮膚を透過し、血液の中へ、直接流れ込んでいくようだった。
湊の心臓の鼓動の音が、柚の耳元で、確かなリズムを刻む。
ドクン、ドクン。
この音は、自分は独りではないという、世界で最も確かな証明だった。
柚の身体に染み付いていた、過去の恋人たちの冷たい記憶、愛されない不安、そして幼い頃の孤独な沈黙。それら全てが、湊の温かい体温によって、溶け始めた氷塊のように、音を立てて崩れていく。
快楽でも、情欲でもない。
そこにあったのは、「赦し」だった。
柚は、初めて、誰かの腕の中で、自分の存在を完全に受け入れられた。
愛された記憶がないという過去の欠落が、今、この夜に、湊という生の光によって、そっと埋められていく。
その体温の中で、柚は、静かな恥ずかしさと、大きな安らぎが同居する、愛された記憶が初めて芽生える瞬間に立ち会っていた。




