第三話:光の粒
オフィスビルの冷たい空気は、柚の胸の奥にある熱を静かに冷やしていく。公園で感じた、湊の無防備な優しさは、もう遠い朝靄の夢のようだった。
愛された記憶がない。その事実が、柚を常に理性的な女性として保ってきた。感情を制御し、誰にも期待しない。それが、静かな自己防衛の砦だった。
午後。会議室。
新しいコスメブランドの広告デザイン案件が始まった。クライアントの担当者と、今回組むことになる外部のスタッフが席に着く。
柚は資料に目を落としていた。企画書に印刷された、小さく控えめな文字。
「Photography: 湊 陽一」
その名前と写真家という肩書きを見た瞬間、なぜか柚の呼吸が止まった。指先が、その名刺のような文字の輪郭をなぞる。
(まさか)
顔を上げる。
そこには、窓からの西日を背負うように、一人の青年が立っていた。それは、昨夜、そして今朝、柚の静寂を乱した、あのカメラマンだった。
湊は、柚と目が合うと、またすぐに顔を赤くした。その表情は、仕事の現場にいるプロの顔ではなかった。まるで、秘密を見られてしまった子どものように、困ったように笑った。
「あの、…また、お会いしましたね。湊です。よろしくお願いします」
彼の声は、会議室のきっちりとした空気の中で、少しだけ浮いていた。
偶然ではない再会。それは、柚が築き上げてきた「孤独の計画」を、世界が笑っているようだった。
周囲のスタッフは、彼の不器用な挨拶に微笑んでいる。彼の素朴さが、この張り詰めた空間を和ませていた。
柚は、自分の感情を誰にも悟らせないよう、平静を装うことに全神経を集中させた。
「柚です。こちらこそ、どうぞ、よろしくお願いします」
声は、いつも通り、穏やかで理性的なトーンを保った。
打ち合わせが進む。湊は自分の作品の意図を語り始めた。彼の話す言葉は、デザイン業界の流麗なそれとは違い、まっすぐで、地面に根を張っているような力強さがあった。
「僕が撮りたいのは、光の粒なんです」
彼が指したのは、一枚の写真。モデルの頬に、窓ガラスを通して入る柔らかな太陽の光が、小さな点の集まりとなって落ちている。
「光って、強すぎると、全部を覆い隠してしまう。でも、粒になった時、その間に影が生まれて、見ている人の体温が入り込む余白ができる。僕は、その余白を撮りたいんです」
柚は、ペンを持つ手が止まるのを感じた。
(余白)
愛された記憶を持たない柚の心は、常に余白だらけだった。それは孤独の空間であり、誰も立ち入れない空虚な場所だった。だが、湊は、その余白を「体温の入り込む場所」だと表現した。
彼の真剣な眼差しが、柚の心を揺らす。それは、柚の持つ「愛されたい」という言葉にならない願いに、無意識に触れていた。
彼は、人を変えようとはしない。ただ、柚の孤独の中に、光の粒のような希望があることを、写真を通して示そうとしている。
柚の胸の奥で、カチリ、と小さな音がした。
それは、心の防御壁に、目に見えないひびが入る音だったかもしれない。
湊は、柚の視線に気づいた。彼は、一瞬、言葉に詰まる。そして、わずかに微笑んだ。その微笑みには、昨日公園で見せたような、無防備な透明感があった。
柚は、目を逸らした。この再会は、偶然ではない。それは、自分の孤独に、外から差し込んできた、ひと筋の光。
その光の粒が、心の奥の冷えた紅茶を、少しだけ温め始めているような気がした。




